34 静かな胎動 ーChapter ミレーユ
ミレーユが自室で、布見本を広げていると、扉が音もなく開く。
「……やっぱりここにいた」
寝室から来たヴァルターが、ミレーユに歩み寄り背後から腕を回す。
「おはよう。気配がしないと思ったら、抜け出してたんだな」
「おはようございます。ヴァルター、あなたを起こさないようにしただけよ。朝食前に少し進めておきたくて」
「朝食前でも、俺より先に動くのは賛成できない」
「そんなこと言って。私がいなかったから拗ねてるの?」
「その通りだ」
遠慮のない甘さ。ヴァルターが、ミレーユの髪に自身の顔を埋めるように落とす。ミレーユは小さく肩をゆらした。
「ここは、隣の部屋よ?」
「距離は関係ない。寝室で手を伸ばしたら、君がいなかった。それだけで十分探す理由になる」
「……あなたって、本当に朝から甘いわね」
「甘くしてるつもりはない。今の俺にとって一番大事なのは、君の身体だ」
「身体……?」
「愛しい妻と、俺たちの子がここにいるんだ」
ヴァルターの手が、ミレーユの腹にそっと触れる。その手の温もりにミレーユは、苦笑いを落とした。
「過保護すぎるわ」
「無茶をされると困る」
「無茶だなんて。座って布を見るだけよ?」
「その『だけ』を、今の時期に軽く言うな。……頼むから、自分のことを粗く扱わないでほしい」
「粗くなんてしてないわよ」
「してる。もっと休んでくれ」
「……それをあなたが言う?」
「だから俺が止める。俺たちの子を抱えてる今くらい、俺の言うことを聞いてくれないか?」
「はいはい。そうやって押すのね」
「押すさ。君が引かないから」
ミレーユはついに、声を零して笑ってしまう。
「ほんと……あなたのそういうところ、子供みたい。父親になるというのに」
「子供で結構。全部君と子のためだからな。それで? 朝食前に何を済ませたかった?」
「布の候補を整理して、乳母候補の資料を並べておきたかったの。今日のうちにあなたにも見てもらおうと思って」
「俺も見る。けど……まずは飯を食ってからだ。お腹の子もきっと、腹を空かせてるだろう? それは困る」
「困るって……」
「本気で言ってるんだ。君が食べなきゃ育たない。だから困るだろ?」
言葉の端々から、ヴァルターの父親としての顔が滲み出ていた。
「父親になること……実感してきたの?」
「してるよ。怖いくらいに」
「怖い?」
「守りたいものが増えると、人は強くなるな」
「あなた、朝からそんなこと言う?」
「朝だから言う。君を見るのは、一日の始まりで一番気持ちが落ち着く時間だ。それにまだ今日は、伝えてない事があるだろう?」
「なにを?」
「愛してるよ。好きも、不安も、嬉しいも……ミレーユ。君に隠せないほどに」
ヴァルターはミレーユの頬に触れた。ミレーユも、その手にそっと自分の掌を重ねる。
「それに朝くらい、俺の隣にいて欲しい」
「朝食のあとでも、かまわない?」
「今もいてくれ」
「……もう……駄々っ子みたい。これじゃ、子供が二人よ」
「子どもより手がかかるぞ? 俺は」
「知ってるわ」
ミレーユがクスクス笑うと、ヴァルターの腕が彼女の身体を、少し強く抱き寄せた。
「……愛してる、ミレーユ」
「朝から言うのは……反則だわ」
「朝だからこそ言いたいんだ。最初に思うのが、ミレーユのことだから」
「……もう。ほんとにあなたって人は……。ほら、朝食に行かないの?」
「行く。……腕は離さないけど」
「離して。そこまで過保護に……」
「嫌だ」
そういうとヴァルターは、ミレーユの身体を横抱きにする。
「もうっ!」
少しの抵抗を見せたミレーユだったが、それも最初だけで、そのまま彼に抱かれながら二人で部屋を出た。
☆
朝食後、ミレーユは自室の机に向かっていた。
乳児用衣類の布地見本、育児書、乳母候補の資料、揺り籠の寸法図。どれもきちんと順に積まれ、必要なときすぐ判断できるように並べてある。妊娠初期であり、安定期に入るまでは無理をしないようにと周囲は口を揃えるが、ミレーユ自身、そんな言葉で手を止める性質ではない。身重だからといって安静にする方が、返って落ち着かない。決めるべきことを決め、整理するべき情報を整理し、家の流れを整えること。その方がはるかに精神が安らぐ。
混乱のない静かな空間。集中できる午前の時間が、彼女はもっとも好きだった。
(今日中に布を決めてしまいたいわね。揺り籠の脚の強度を、もう一度確認してもらいたいし)
淡い灰色の布を指先で撫でていると、扉が軽く叩かれた。
「入って」
ミレーユが言い終わると共に、侍女長が育児書数冊と布地の返答を抱えて入室してきた。
「若奥様、布の問い合わせの返答がいくつか届いております。乳母候補の追加資料も」
「ありがとう。そこに置いてくれるかしら。それとこの赤茶の布は外して頂戴。扱いが面倒になりそう」
「畏まりました」
「乳母候補はこことここ。もう一人は外して。前の雇い主との距離が近すぎるわ。産後すぐ戻られたら困るもの」
「仰せの通りに。それよりも若奥様。あまりご無理のありませんよう」
「もう、あなたもなの? 皆、心配しすぎよ。でもありがとう。貴方の気遣い嬉しいわ」
ミレーユは小さく笑いながら、書類を見ていた手を止め、侍女長へと目を向ける。侍女長もミレーユへ、笑みを向けながら、軽く頭を垂れた。
「出過ぎた真似を申しました。何かありましたら、どのような些細な事でも、御申しつけくださいませ。では、失礼致します」
侍女長が退出すると部屋は静けさを取り戻す。今やってる事は、すべて生まれて来る子供のこと。ミレーユは軽く腹に手を添えた。まだ胎動など感じる時期ではないが、そこに確かに命が宿っているという現実だけで十分だった。
「……大丈夫よ。全部整えておくから」
声に出す必要はないと分かっていても、口にすると『母になる』実感がわいてくる。お腹の中に、確かに新しい命がいることを。
そこへ、再びノックの音が響いた。
「若奥様。レーヌ商会より、昨日のご注文に関する決済名簿が届いております」
「持ってきて」
執事が銀盆を抱えて入室し、数冊の名簿を机に置いた。レーヌ商会は、公爵家が衣類や贈答品を長く任せている商会だ。王城にも出入りしているため、書類の往来は多い。
「他には?」
「以上でございます」
「わかったわ。ありがとう。下がって」
執事と侍女たちが退室し、足音が遠ざかるのを待ってから、ミレーユは名簿を一冊ずつ手に取った。一冊だけ、紙が挟まっている薄い感触がある。ページを開くと、帳簿の数字の間に薄い封筒が一枚、差し込まれていた。
表には
『濡羽色へ 紅』
とあった。
見慣れた筆跡。
慌てると、角が丸くなってしまう彼女の癖。
リージェリア
何か起こったのだろうことは、文字を見ればわかる。ミレーユは、ゆっくりと封筒を切った。
『案件は成立。季節外れの東風が来たの。警戒を』
それだけだった。
だが、それで十分足りる。彼女が何を伝えて来たのか。
(案件は成立……側妃の件は、片づいたのね)
季節外れの東風。
その言い回しで、誰のことかはすぐ分かった。
(東……エリオス殿下。今、城にいるのね)
情で動く人。そして情では動かない人。理屈より、目の前の「正しさ」を優先するタイプ。
王太子の婚約者だった頃、彼との交流も幾度となくあった。その中で見えた彼の人となりは、王城という場所で、一番扱いづらい類の人間だった。
ミレーユは新しい紙を同じ幅に切り、さらりと筆を走らせた。
『新しい芽生えののち、祝杯を共に』
それだけを書き、元の名簿の別の箇所に差し込む。この文脈で彼女になら通じるはず。出産後に会おうと。それまでは静観すると言うことも。紐で名簿を閉じ、机の端に積み上げた。
「レーヌ商会へ、夕刻の便で戻してもらいましょう」
小さく呟いてから、布見本へ視線を戻す。
☆
昼前、揺り籠職人が呼ばれていた。
「若奥様。揺りの軸を少し削り直します。このままでは、片側に重みが寄ったときに揺れが偏ってしまいますので」
「お願いするわ。眠っている時に揺れが不安定なのは困るもの」
「中の詰め物も、もう少し柔らかくしておきます」
「その方がよさそうね。頼んだわ」
職人が手際よく木を削る。
木屑が布の上に広がっていくさまを眺めながら、ミレーユは黙っていた。
さきほどの一文が、頭の片隅にひっかかっている。
(リージェの言う東風が、どれほど強い風かなんて、ここからは見えないけれど)
王城で何が起ころうと、公爵家まで波を立てなければいい。それがミレーユにとっての境界だった。
「若奥様、調整はこれで終わりです。揺れ具合もよろしいかと」
「ありがとう。とても助かったわ」
職人が退出し、揺り籠だけが部屋の隅に残る。ミレーユは近づき、脚を軽く揺らしてみた。動きは穏やかで、先ほどよりも収まりがよい。
「……これでいいわね」
手を離し、揺り籠の縁に手を置いたまま、腹に目を落とす。
(守るべきものは、ここにある)
王城の空気が変わることと、ここでの生活は別の話だ。それを切り分けて考えることに、迷いはない。
王城でどんな駆け引きが続いていようと、公爵家のこの一室には、別の時間が流れている。
自分が守るべきものはどこにあるのか。
その答えだけは、はっきりしていた。




