33 誰のものでもない -Chapter セラフィム
晩餐の席に、静かな火の音だけが続いていた。
側妃セレイナとの離縁が成立したと、つい先ほどリージェリアにセラフィムが告げたばかりだった。それを聞いたリージェリアは一瞬、目を見開いたが、直ぐにセラフィムを気遣う表情へとなる。
「……東の塔から、身を投げようとしたそうだ。寸でのところで、エリオスが止めた」
セラフィムがそう続けると、リージェリアの指が止まり、手にしていたカトラリーが絨毯に落ちた。背後の侍従がすぐに歩み出て、音も立てずに拾い上げる。代わりのものが右手側に置かれたが、リージェリアはそこへ手を伸ばさなかった。皿の縁に落とした視線は、そのまま動かない。
卓上に、言葉の切れた空気だけが残る。セラフィムは、それ以上話すことは出来なかった。一人になりたい。そう思った。
「……執務室に戻るよ。今日は遅くなると思うから、先に休んでて。おやすみ、リージェ」
それだけ告げて席を立つと、リージェリアは小さく頷いた。
☆
執務室に戻ると、昼間に執り行われた手続きの報告書が、机の上に封をして置かれてある。
セラフィムは椅子に腰を下ろし、封を切ってから取り出した紙の端に指をかける。暫く視線だけが、その表紙面に落ちていた。
やがて、ゆっくりとした動作で報告書を開く。
記されている内容に新しい事実はなく、全て終えたことの羅列。
離縁はすでに執行されている。
『セレイナ・エルグラン元側妃はその地位を退き、セラフィム・ウィンター王太子との離縁が成立。なお、静養のため、後見人エリオス・ウィンター第二王子の任地である東辺境へ転地。必要な補償についても、すべて裁可済』
紙面の一番下、付属条項の末尾に太字で、一行が添えられていた。
『今後、無用な接触を禁ずる』
その一文の上で、視線が止まる。
これはどちらに対しての一行なのか。セレイナへ? セラフィムへ?
セラフィムが、彼女に何かを伝える必要も、事情を聞く必要もない。彼女が何を思っていたのかを確かめる必要もない。
そう定められている。
どちらにしろ自らも、この決定に従うのが今の自分の立場であり、取り決めだ。
セラフィムは紙の端を押さえたまま、視線だけを外へ流した。
本来、側妃は世継ぎのための制度。正妃が子を成せないとき、血統を維持するために導入されてきた。
『側妃には手を出さない』
その約束を口にしたのは、セラフィム自身だ。無論、そうするつもりだった。
王も、リージェリアも、セレイナも、その家族も、その条件を前提として同意した。肉体関係のない側妃など、表向きには存在しない。だからこそ、ごく限られた者だけが事情を知り、他の者には『側妃』として通した。それがセレイナの身分の保証にもなると信じて。
本来から外れた制度の使い方だったが、それでいいと思っていた。リージェリアを守り、政務を回す。その両方を満たすための解決策だと。
最後にセレイナと向き合ったのは、この部屋だった。離縁を願い出た彼女は、古びた衣をまとい、痩せた肩を震わせて立っていた。かつて社交の場で見た姿とはかけ離れていたが、瞳の色と髪色はその面影を残していた。
初めて彼女を目の当たりにした時、セレイナに『女』を見た。
側妃としてこの宮廷へ来た時、隣で政務に没頭する彼女の横顔に見惚れた。そして、明確な『欲』を覚えた。
その感情をセラフィムは、ハッキリと覚えている。
あってはならない欲望だと理解していた。リージェリアへの誓いを破ることになる。王の承認も、セレイナ自身との約束も踏みにじる行為だ。その一線を越えれば、取り返しがつかないことも。だからこそ、彼は彼女を切り捨てた。
最後の執務室で、彼女に掛けた言葉は何だった?
セラフィムの脳裏に、その時の自分の言葉が蘇ってくる。
『みっともない格好でうろつくな』
『粗末に扱っているとでも言いたいのか』
そして
『妻ではない』
と。
彼女の訴えを、全部言い訳として扱った。リージェリアの言葉を選び、書類に残された記録を選んだ。
そうやって、自分の選択を守った。
その判断が愚かだったことは、もう理解している。何度も思い返し、その都度、自分が選んだ言葉と態度を悔いてきた。だが、時間が戻らないことも知っている。
なのに、胸に残っているのは、その悔いだけではなかった。
セラフィムは視線を、続く報告書へ戻した。そこには、離縁に至る経緯が簡潔に記されている。無機質な文字の列の中で一か所、重さを持ってセラフィムの胸を抉る箇所があった。
『東の塔より身を投げようとした際、第二王子エリオス殿下が制止し、セレイナ側妃殿下を保護』
その一行を読んだ瞬間、指先が止まった。
彼女を引き戻したのは、エリオスだった。落ちていく身体を捕まえたのも、縁から遠ざけたのも、弟の手だ。
その事実だけが、セラフィムに重く圧し掛かってくる。本来なら何の問題もない報告であり、セレイナが助かった、それだけで十分なはずだ。そう理解していても、自身の思考と反応が一致しない。
行を追いかけても、目が同じ場所に戻る。次の文を読もうとしても、指が紙の上を動かない。
『なぜ、自分ではなかったのか』
考えるより先に、その言葉を浮かべたセラフィムは、自分自身の感情に驚いた。
塔に向かったとき、死ぬ場所を選んだとき、彼女の頭に自分の名はなかったのか。助けを求める相手として、最後に思い浮かべる相手として、自分はどこにもいなかったのか。死を選びたくなるほどに追い詰めて置いて、都合のいい話なのは分かっている。それでも。
それでも、考えずにはいられなかった。
彼女の命に、身体に触れたのは、自分ではないということ。死の縁から引き戻したのが、エリオスだったということ。
後悔とも憐憫とも、弟への不満とも違う。
その感情に名付けようとすればするほど、形がはっきりしていく。
……気に入らない。
彼女を救ったのが、エリオスなのが。
彼女の命を、身体を、触ったことが。
『嫉妬』
という言葉が脳裏をよぎった。
セラフィムは、その二文字をすぐに追い払った。そういう感情で片づけるべき話ではない、と切り捨てる。彼女を抱きたいと思った自分を、何度も否定してきたのと同じやり方で。
だが、追い払ったはずの言葉の形は、胸の内側に残ったまま。
もっと大事にできたはずなのに、しなかった愚かな自分。
自分のものだったのに……
手放してしまった。
それを、今はどうしても受け入れたくなかった。




