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31 仕組まれた無能 ーChapter リージェリア

(ステム) 部屋に戻るとリージェリアは、便箋を広げ筆を取った。

 

 宛名は書かない。だが、この文が届く相手は一人しかいない。かつて学舎で共に学び、夢を語り合い、その後策略を巡らせて互いの想い人を手にした、この国でただ一人、心を許せる友。

 

 あの時の二人は、恋を勝ち取ったつもりでいた。だが今は、その恋が脅かされようとしている。


 筆先は迷いなく動く。

 

 夫との約束が揺らぎ、側妃の存在が均衡を崩しかねないこと。それが自身にとっても危険であること。何より、女としての自分の立場を蝕む脅威であることを、淡々と書き連ねる。形式も取り繕いもない。焦燥が文字の隙間に滲んでいくのを止められなかった。

 

 ミレーユなら、それをすぐに読み取るはずだ。


 文は商会の帳簿に紛れ、グレイストン邸へ運ばれる。

 

 そうして三日後、返事が戻ってきた。

 

 そこには薄紅色の薔薇の花弁が一枚、紙と一緒に挟まれていた。リージェリアの髪色のと同じ。小さな便箋には、短い一文。

 

 『理解したわ。私たちにとっての毒は、排除しなければね』


 リージェリアは指先でその文字をなぞった。筆圧の強さが、ミレーユの息遣いの荒さを伝えてくれた。

 

 彼女もまた恐れている。そして、決意している。


 文を火にくべた。

 

 燃え上がる炎を見つめながら、リージェリアは息を吸い込んだ。

 

 迷わない。愛を守るためならば。


 そこからは行動あるのみだった。



 数日後、リージェリアは完璧に整えた姿で、側妃セレイナの執務室を訪れた。

 

 淡い香の漂う部屋で、セレイナは書類を整理していた。姿勢は真っ直ぐで、所作に一切の乱れがない。

 その静けさが、リージェリアの胸をさらに苛立たせた。


「ごきげんよう。セレイナ。この書類どうしたらいいかしら?」


 微笑みながら、そう言葉を重ねる。セレイナが立ち上がり、一礼した。


「ご機嫌麗しく、王太子妃殿下。その書類を一度、お見せいただけますでしょうか?」


 整った声。澄んだ瞳。それが癪に障る。


「ええ、もちろん。これなのだけど」


 リージェリアはゆっくりと歩み寄り、書類をセレイナに手渡す。


「畏れながら、リージェリア妃殿下。この書類は……」


 セレイナが、理路整然とその書類の意義、書式、処理の仕方を伝えてくる。そのやり方はとても明瞭で、誰が聞いてもわかりやすいものだった。


 そのことが、さらにリージェリアの苛立ちを加速させてゆく。


 セレイナの声を聴きながら、リージェリアは机上の花瓶に指先を触れた。

 

 薄紅色のダリア。指先でその花弁をなぞりながら、微笑を崩さず言う。


「私は王太子妃よ。貴方は何のために側妃になったの? 私の政務の補佐をするためだわ。これは貴方がすべきことよね? 貴方が言うべき言葉は『こちらでお受けいたします』ではないの?」


 その言葉に、セレイナの睫毛が微かに震えて見えた。けれど反論はしない。ただ静かに、視線を落とした。


「申し訳ありません。殿下にも王太子妃殿下にも、恥をかかせるつもりはございません」


「そう。なら、よかったわ」


 リージェリアは微笑んだ。

 それは優しさの仮面をまといながらも、嫉妬と警告の匂いを帯びた笑み。


 部屋を出る直前、振り返らずに言葉を落とす。


「……貴方、殿下を惑わせないように。弁えて頂戴」


 扉が静かに閉まる音。

 

 その残響の中で、リージェリアはゆっくりと息を吐いた。


 このことをセラフィムに告げ口するなら、それで構わない。夫に何か問われたら


『やっぱり……私の事をそのように、あなたには伝えたのね』


 と返すだけだ。

 


 月が美しい丸を空に浮かばせた、晩秋の夜。

 

 王太子夫妻の晩餐の間で、セラフィムは中央に、リージェリアはその右隣りに座っていた。整然と並べられた食器。壁際に立つ給仕や侍従。並べられている蝋燭の炎は揺らぐことなく、空間を明るく照らしている。


 白布をかけた長い食卓の中央には、薄紅のダリアを生けた花飾りが、部屋全体に気品を漂わせていた。それが自分の髪の色に合わせて選ばれたものだと、リージェリアは気づいていた。セラフィムの細かな気配り。リージェリアを思い、育てさせたものなのだろう。


 そこに喜びと確かな愛情を感じつつ、いつかそれが失くなるのでは? という、言い知れぬ不安も同時に覚えてしまう。


 (あの光景を見なければよかった……)


 そう思うが、セラフィムに問いただす訳にもいかず、花を見つめて


「セラフィムが用意してくれた花なの?」


 と、微笑んで問いかけ、疑念を口にすることはしない。


「ああ、気に入ってくれた?」


「とても綺麗だわ。嬉しい、ありがとう」


 王太子夫妻の、和やかな時間と会話。表面的には、いつもと変わらない晩餐。


 深い毛並みの絨毯を踏み、侍酒官が足音なく近づいた。一礼ののち、少量を別の杯に注ぎ香りを確かめる。


「今年の新酒にございます。まだ若うございますが、香りはよろしゅうございます」

 

 毒見の杯を盆に下げ、別のボトルを傾けた。静かな音を立てて、二つのグラスに赤紫の液体が注がれる。


 リージェリアは指先でステムを持ち、香りを確かめた。果実の酸が強く、舌の奥に青い渋みが残る。まだ熟していない。その若さが、自分の愛の不安に似ていた。

 

 時を重ねれば変わるのだろうか。けれど、今はただ苦みだけが確かに残る。


「まだ青いね。だが、それも今だけの味わいだ。初々しく、爽やかでいい」


 セラフィムがそう評し、その言葉に侍酒官が言葉なく大きく頷いた。リージェリアにはその言葉ひとつひとつが、まるでセレイナの事を言っているように聞こえ、グラスを持つ手を少し揺らす。


「リージェ。昼は暖かいけど、夜は冷える。体調は崩してない?」

 

 セラフィムの穏やかな声が届く。リージェリアは微笑み、グラスを置いた。


「ええ。でも、今夜の冷たさは嫌いではありませんわ」


 言い終えたあと彼女は。視線を伏せ少しだけ眉を寄せた。

 

 その動きを、セラフィムは見逃さない。案じるように、椅子をわずかに引き寄せ、静かに尋ねた。


「……どうした?」


 リージェリアは小さく息を吸い、顔を上げた。困ったように微笑みを浮かべる。その笑みの形が、どんな印象を与えるかを彼女は理解していた。

 

 庇護を誘うには、悲しみよりも弱さの方が効果的だ。


「セレイナ妃が……政務の折、彼女は……私に『貴方は無能だ』と言うのです」


 セラフィムの手が止まった。

 

 刃先が皿を叩き、かすかな音が響く。彼は何かを言いかけ、言葉を失う。リージェリアはその様子を見つめ、ゆっくりと視線を伏せた。


 リージェリアの策略は、静かに動き出した。

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