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30 彼女の真実 ーChapter リージェリア

「理解して欲しい、リージェリア。これは君の負担を軽減するための制度利用だ。決して、妻として迎えるわけではないんだ」


 まだ朝が昇りきらない寝室で、ベッドに横たわるリージェリアの隣に、夫であるセラフィムが添い寝ている。艶のある薄紅の髪を撫でながら、彼は諭すように言葉を続ける。

 

 リージェリアは窓の外に視線を向けたまま、決して彼を見ようとはしなかった。


「君に誓うよ。側妃には手を出さない。いや、側妃とは名ばかりで、政務官として君の役に立つのが役目なんだ。だからこそ、君の承諾を得てから制度を実行するんだ。君が大事だから」


(理解? できるわけないでしょう)

 

 どんな形であれ、妻を二人にするなど屈辱でしかない。


 お互いが一目惚れで恋に落ち、そのことが国益に繋がると両国王は、掌を広げて二人の愛を受け入れた。


 周りにも祝福されて、この地に嫁いできた。それから約一年。

 いまだ世継ぎが出来ない。幾度となく夜を共にしても、兆候もない。


 そのことが、日に日にリージェリアの焦燥へと繋がっていた。であるのに、側妃という肩書を持つ者が来ると言う。

 

 セラフィムが、側妃を持とうとしている理由は理解している。何度も彼から説明されることを聞いた。だが建前であっても『側妃』として他の女性を迎え入れようとしていることが、リージェリアの胸を刺した。


 リージェリアが政務をできないフリをしていたのは、隣国ナルヴァの時期国王となる兄王太子を刺激しないためだった。

 

 彼女が政治の場で有能さを誇示すれば、その報は確実に兄の耳に届く。兄は『妹を通じて他国を動かせる』と考え、王太子妃となったリージェリアを、駒のように扱うだろうことはわかりきっていた。兄はそういう性格だ。

 

 この国とナルヴァの国境には、両国が共有する鉱山がある。鉱脈は境を跨ぎ、どちらの国も手放せない。だからこそ両国の均衡を保つため、リージェリアとセラフィムの婚姻は、和平を支える梯としても結ばれたのだ。

 

 しかも、その地を治めるのは、かつて学舎で机を並べた友・ミレーユが嫁いだ公爵家である。兄が動けば、まずその領が揺らぐ。

 兄の密偵は、恐らくこの国にも潜んでいる。気づかぬうちに、身近へも忍び寄っているかもしれない。だからこそリージェリアは、政の表に出ることをやめた。無能を装うことが兄の干渉を防ぎ、国と友を守る最も確実な方法だった。


 但し、リージェリアは完全に沈黙しなかった。

 

 この国に嫁いだ意味のひとつである架け橋になるべく、社交の役割だけは手放さなかった。それを怠れば自身の存在意義が失われ、セラフィムにも呆れられるかもしれない。

 

 それだけは避けたかった。

 

 だから彼女は、笑みと礼節と知識を武器に、誰よりも優雅に振舞い穏当に人を繋いだ。


「君の笑顔を、曇らせたくないんだ」


 セラフィムの言葉に、その身体をゆっくりと翻したリージェリアは、彼の顔を見た。困ったように眉を下げて、小さく微笑みながらも、愛おしそうに見つめてくるセラフィムの表情。


 髪を撫でていた大きな掌が、リージェリアの頬に滑り落ちて来る。その温もりを感じつつ、一度目を瞑ったリージェリアは、ため息交じりに彼に告げた。


「……わかったわ、セラフィム。でも、本当に誓って。側妃は建前であり、決して閨を共にしないと」


「当然だ。ありがとう、リージェ」


 セラフィムはそう言うと、リージェリアの唇に軽く口づけ、抱きしめた。

 

 その腕の温もりを感じながらも、彼女は胸の奥に小さな痛みを覚えていた。



 その日がとうとう来た。王太子セラフィムが側妃を迎える日。

 

 空は泣き出しそうな曇天だった。

 

 一体、誰の心の内を映したものなのだろうか。

 

 リージェリアは空を見上げつつ、ぼんやりとそんなことを思った。


 リージェリアには、書類上で報告がされた。側妃の名前や経歴などの情報がそこには記載されている。そして彼女がすべく役割についても。


 近く、彼女と対面する日がくるだろう。その時自分は、どんな顔をして会えばいいのか。政務補佐の才を買われた女性。頭では理解していても、心がまだ追い付いていない。


 この気持ちは時間が解決してくれるのだろうか。セラフィムの愛を疑うべきではない。


 そう言い聞かせるしかなかった。


 だが、セラフィムの仕事は日に日に増え、夜の執務も続いた。


 小さな違和感。

 

 彼がどんな顔で机に向かっているのか、リージェリアは知らない。

 

 けれど、知るべきときは突然訪れた。



 ほどなくしたある日の午後、予定表を届けにセラフィムの執務室へ向かった。扉は半ば開いていた。中から紙の擦れる音。

 

 そこには、見慣れない女性が居た。


 流れるような銀髪の、美しい人。


 例えるのであれば『儚げ』な女性だった。男性が、手にしたいと思うような欲を煽る。そして、手に入れたのであれば、失いたくないと熱望するような。それが異性に対し、どんな意味を持つのかということも、嫌と言う程わかっていた。


 自分とはまるで違うタイプ。自身が庇護欲を掻き立てるのだろうことは、十分に理解していた。それを武器に、セラフィムの目をこちらに向けたのだから。


 それとはまるで違う、清廉さと気高さが彼女にはあった。


 そうか。あの人が側妃か。


 隙間から見える女性のシルエットに、リージェリアは直ぐにそう理解した。


 セレイナが地図の上を指でなぞり、数値を説明している。声は聞こえないが、その所作や表情から落ち着いて話せる、理知的な人なのだろうことが伺いしれる。

 

 セラフィムは頷きながら書類を持ち直し、目を落とす。

 

 だが視線はすぐに文字を離れ、彼女の横顔に止まった。


 扉の向こう。

 

 リージェリアからは距離があるはずなのに、セレイナを見るセラフィムの喉元が、大きく上下に動くのが、はっきりと見えた。

 

 言葉を発したわけでも、咳をしたわけでもない。

 

 音は無いはずなのに、何かを飲み込む音が部屋の奥まで響くような、そんな動き。

 

 それを見た瞬間、リージェリアは確信した。

 

 あれは理性ではない。男の、抑えようのない『欲』だ。

 

 きっと……あの誓いは遠くない未来に、簡単に破られるだろう。


 リージェリアは、部屋の中に入ることはせず、そのまま踵を返した。


 足早に歩きながら思う。


 このままでは駄目だ。


 強い危機感が、リージェリアの胸に深く刻まれた。


 それから数日後。側妃との謁見、顔合わせの時間が設けられた。儀礼的に挨拶を交わす。政務に関しても、側妃・セレイナが執り行うことの説明をうけるが、分からない『フリ』理解できない『フリ』をする。


 そんな事務的なやり取りを終えた。


 短いやり取りではあったが、リージェリアにとって彼女の存在が、やはり脅威的であることを確認するだけの時間となった。


(毒芽は早く、摘まないと……)

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