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2 初夜 -Chapter ミレーユ 【回想】

 夜の闇が深く、静寂が邸全体を支配する刻。

 蝋燭の光だけが、寝室に淡い温もりを灯している。


 ミレーユは薄絹のガウンを身に纏ったまま、ベッドの端に座っていた。絹の冷たさが肌に触れている。心臓が大きく音を立て、鼓動する。別の部屋から、やがて足音が聞こえるだろう。その時間が妻として果たすべき最初の義務の訪れを知らす合図。王太子妃教育の中でも、この瞬間については、詳しく教えられていた。嫡子を生み出すこと。それが妻の最初で最も重要な役目だと。


 だがその役目を果たそうとしている相手は、今朝、彼女と顔を合わせたばかりのほぼ他人だ。


 扉が叩かれる。静かで低く、控えめな音。


「入ります」


 彼の声を聞いたのは、今日これで二度目。宣誓の時と今。ミレーユの心臓は更に激しく打ち、未知の時間への不安と僅かな恐怖が入り交ざる。


 ヴァルター公爵は寝室に入ってきた。その足取りは儀式での歩き方とは異なり、ゆっくりと穏やかだ。彼の目はミレーユに向けられているのに、何かを避けているようにも見える。


 彼はミレーユの隣に座った。近すぎず遠すぎない距離。その微妙な間合いには、配慮があった。暫く二人の間に沈黙が流れた。蝋燭が静かに揺らぎ、影が壁を動く。


 やがて公爵が口を開いた。


「ミレーユ」


 彼女の名を呼ぶ声は、思ったより冷たくはなく、寧ろ優しかった。


「君はここへ嫁いできたばかりで、見ず知らずの男と一夜を共にするというのは、辛いと思う。お互いのことをほぼ知らぬまま、肌を……合わせるというのは大きな負担ではないか?」


 ミレーユは口を挟むことなく、彼の声を聞いていた。発せられる言葉の丁寧さに、少し驚いた。彼は彼女に対する同情から、そう言っているのだろうか。そう思うが、その言葉の奥には別のもの……彼自身の思いが隠れているようにも感じた。


「旦那様。お気遣いありがとうございます」


 ミレーユは、貴族の妻として教え込まれた完璧な言葉遣いで返答する。


「私は貴族の妻として、その義務を果たすことが役目だと思っています。ですので、ご配慮は必要ございません」

 

 彼女はヴァルターを真っ直ぐ見つめたまま、そう言った。ヴァルターも彼女を見つめ返す。だが彼の目に、熱は一切籠っていない。


「俺は……焦らずにお互いのことを知ってから、夫婦として関係を築いていきたいと思っている」


 その言葉は彼女への提案というより、彼自身の心の声のように聞こえた。


 ミレーユは小さく頷いた。


「畏まりました」


 彼女は安堵の息をついた。自分で思っていたよりも、緊張していたのだろう。ふっと強張っていた身体から、力が抜けて行くのが解る。だがその安堵は、すぐに別の感情に変わった。嫌がられているのだ。この男はやはり、ミレーユを妻として見ていない。


 初夜を明らかに拒絶したのだ。


「俺のことはヴァルターと呼んでくれ。それと、君が慣れるまでの間……暫く俺は、自室で休むことにする。では、おやすみ」


 そう言うと、彼は別の部屋に去っていった。来た時と同じようにゆっくりと静かな足取りで。


 ミレーユは彼の後ろ姿を見送った。彼の足音が廊下を遠ざかっていく音を聞きながら、ぼんやりと思う。


(気に入らないのね。私のことを)


 わかっていたことだ。


 それでもここで落ち込んではいられない。既に自分は『王太子の元・婚約者』という、拭いきれない傷を背負っている。


(だからこそ。私はここで、出来ることをするしかないわ)


 彼女はそう、強く心に刻み込んだ。この邸で彼に認められる妻になる。公爵夫人としての役目を完璧に果たす。その想いと覚悟を持って、嫁いできたのだ。自身が選んだ道だ。後悔などしている暇はない。


 その夜は明け方まで、冷たいベッドに身を預けながら、父に言われた言葉を反芻した。


「ミレーユ。婚約が解消されたのは、お前のせいではない。王家がどう動くかは、お前の力ではどうにもならん。だが、今からのお前の人生は自らの手で築くことができる。ヴァルター公爵との婚姻は、王からの賠償だ。同時に、お前の新しい人生の始まりでもある。踏ん張るんだ」


 (私も旦那様も、王太子の我儘に振り回された、犠牲者……皆、そう思うわよね)


 何度も思考を巡らせながらも、ミレーユはゆっくりと瞼を閉じた。



 朝日が、寝室の窓から差し込んできた。


 ミレーユはベッドから起き上がると、侍女が程なくして部屋に入ってきた。公爵家に仕える者らしく、その所作は完璧だ。だがそこには温もりは無く、新しい夫人に対する侍従として役割を果たしているだけ。


「おはようございます、奥様」


 声には敬意があるが、それは機械的で冷たい。


「朝のお支度をいたしましょうか?」


 その言葉も、決められた台詞のように聞こえる。


 ミレーユは頷いた。侍女は寝衣を脱ぐのを助け、新しい衣装を整える。その手つきは丁寧で、何の間違いもない。けれども、どこまでも冷淡だ。


 窓からの朝の陽ざしが、部屋を明るく照らしているというのに、ミレーユの周囲には冷たい静寂が立ち込めている。

 侍女の手が、彼女の髪を梳く。ミレーユは鏡に映る自分を見つめた。整えられた髪、整った衣装。公爵の妻となり、ここの女主人となった自分。

 なのに、この邸のどこにも彼女の居場所はない。そう感じさせる、冷たい要塞に居るような感覚。


 侍女が、髪飾りを整える手が止まった。


「他に、ご用はございませんでしょうか?」


 その問いには返答を待つ義務感しかない。


「ええ。無いわ」


 ミレーユの声もまた冷たかった。



 その日の午後、ヴァルターの両親と居間で顔を合わせた。


 前公爵夫人はミレーユを見ると、温かく微笑んで彼女の手を取った。


「ミレーユ、よくいらっしゃいました。これからは、ここがあなたの家よ」


 その言葉は、義母としての温情に満ちていた。


「ね、私たちは明日、領地へ戻るけれど、近いうちにでも領地に顔を出して頂戴ね。私たちも領民も皆、こちらへ来てくれることを楽しみにしているのよ。それと、何か困ったことがあったら、遠慮なく手紙を頂戴。ヴァルターに言いにくいことがあれば、尚更ね」


 前公爵も、静かに頷いた。


「ヴァルターは、一つのことに夢中になると周りが見えなくなる悪癖がある。領地の事や政務となると、特にそうなってしまう。悪く言えば頑固で、周囲を気にしない面もある」


 そこで一度、前公爵は言葉を止めた。


「だが、我が息子ながら思う。奴は誠実な男だ。決していい加減な事はしない。ミレーユ。息子はきっと、あなたを大切にしようと努力するだろう。ただし、それが上手く表現できるまで、時間がかかるかもしれん」


 前公爵の目は優しくミレーユを見つめた。


「時間をかけて、一緒に歩んでやってくれ。私たちは、ここにいなくなるが、息子夫婦のことを、陰ながら見守っている。困ったことがあれば、いつでも言ってほしい」


 前公爵夫人は、もう一度ミレーユの手を握った。


「これからは、大変な事もあるでしょう。けれどもね、ヴァルターはあなたを大切にしますから。焦らず、ゆっくり進んでいってね」


 そう言い残し、前公爵夫妻は領地へ帰っていった。ミレーユが玄関で見送る中、馬車は静かに邸を離れていった。


 その間、ヴァルターはどこへ行ったのか、姿を見せなかった。

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