18 分断 -Chapter エリオス
朝露がまだ残る、ひんやりとした早朝。外はまだ夜の名残を引きずり、薄暗さを残していた。
エリオスのベッドに横たえられたセレイナが身じろぎした。その仕草に気づいたエリオスは、椅子から身を起こす。セレイナの瞼が震え、やがて光を眇めるように開かれた。
「……セレイナ妃」
呼びかけに、彼女はゆっくりと視線を動かした。焦点はまだ曖昧で、夢の続きにいるような顔。
エリオスはベッドサイドの机の上の盃を取り、少し水を注いだ。
「喉が渇いているだろう。少しだけでも」
彼女は小さく首を振り、唇を閉ざした。その拒むような仕草に、彼は息を呑む。飲む気力さえ、もう残っていないのか。
長い沈黙が落ちる。蝋燭の光が揺れ、その影が彼女の頬を淡く照らした。
エリオスは椅子に腰を戻し、ただ見つめた。彼女の表情は何の感情も映していない。それは、生きることそのものを諦めた者の顔だった。
死を選ぼうとしたのは、なぜだ? ここにいることが苦しかったのか。
彼女は、何から逃げたかった?
それは、この城か? 兄か?
その答えを確かめるために、エリオスは静かに声を掛ける。
「……いくつか、聞いてもいいか? 辛ければ答えなくていい」
セレイナはゆっくりと頷いた。
「ここにいるのが、辛いのか?」
頷き。
「城を離れたいのか?」
頷き。
「……兄……セラフィムからも、離れたいのか?」
ためらいののち、頷く。
「……離縁を、望むのか?」
その瞬間、彼女の目尻から涙がこぼれた。
エリオスは視線を落とし、低く息を吐いた。
「……わかった。貴方の望み、確かに受け取った」
立ち上がり、セレイナに掛けられている毛布を軽く整える。
「まだ夜が明けたばかりだ。今日はここでゆっくり休むといい」
エリオスはセレイナが安心できるように、ゆっくりとした口調で話した。それを受けたセレイナは、瞼を一度閉じて、再びゆっくりと開く。その仕草は目を動かすことさえ、億劫とでも言っているように見えた。
目は窪み、頬はこけており、肌は酷くかさついている。皮膚の色も青白く、口元や目元には肌の乾燥の末なのか、皺が深く刻まれていた。美しかった銀髪も艶を失っている。
これがあの、セレイナなのか?
あれほど美しいと謳われた、気品ある姿の欠片もない。ただ、骨の際立つ輪郭と髪の銀色だけが、かろうじて彼女の面影を留めている。
人はここまで短期間で変われるものなのだろうか。彼女を見ているだけで、胸が苦しくなる。どれほどの苦しみだったのだろうか。
エリオスは、セレイナが再び眠りにつくのを見届けると、扉へ向かいながら、低く呼んだ。
「オクターブ。彼女を頼む」
短い返事が返る。
エリオスは一度も振り返らずに部屋を出た。
外は既に明るく、日差しが回廊の柱の影を落としていた。
☆
セラフィムの執務室では、書類の束がいつもそうであるように、その日も整然と積まれていた。
その山の一番上に、セラフィムが手を伸ばした瞬間。
扉が勢いよく開いた。セラフィム視線が音の方へと向く。その表情には、無作法な者に対しての苛立ちが浮かんでいた。
「エリオス、何の用だ」
「お前、何をしている」
静かな声だった。だが、その中には押し殺した怒りがあった。
「何の話だ?」
「セレイナ妃のことだ」
エリオスは机に歩み寄る。
「塔から身を投げようとしていた。骨と皮だけの姿で、今は意識もほとんどない」
「……何だと?」
「どうやったらあんな風になる? お前の妃だろ。側妃とはいえ、妃だ。それを放っておいたのか?」
セラフィムの顔が、傍目から見ても分かる程に、色を失くしてゆく。そして強張る口元。そこから、やっとのことで吐き出すように、彼は言葉を紡いだ。
「必要なものはすべて与えている……」
「書類の上では、そうだろうな? 宮廷医師の話では『栄養失調』だそうだ。なぜだ?」
エリオスの声が鋭くなり、セラフィムを見る目に微かな侮蔑を滲ませた。
「以前見た彼女の面影はもうなかった。あれは人の姿じゃない。……生きる亡霊だ」
「彼女は以前、食事に不満を漏らしていたと……」
「セレイナ妃本人の口から、それを聞いたのか? お前に直接、言葉で訴えたのか?」
「いや……」
「彼女自らが食事を拒否していたとしても、それなら何故、死のうとしていたんだ?」
セラフィムは何も言い返せなかった。
机の上に整然と並ぶ書類の束。印が押された紙。それが、彼にとっての現実だった。
「政務も秩序も、そんな紙の上だけで保てると思うな。お前の目の前で、人が壊れていたんだ」
セラフィムの唇が動いたが、言葉にはならず、息が漏れて行くだけ。そこに重ねるように、エリオスが強い口調で言い放った。
「俺は父上に申し出る。セレイナを保護する。お前は速やかに離縁しろ。それが彼女の望みだ」
「待て、エリオス、それは――」
「言い訳はいらん。何が起きていたのか、事実はなんなのか。それから目を逸らさず直視しろ」
エリオスの目には迷いがなかった。
「彼女をこのままお前の傍に置けば、確実に死ぬ。次は間違いなく、間に合わない」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎がゆらめき、紙の束の影が机の上で歪んだ。
「……俺が彼女を守る」
短く告げると、エリオスは背を向けた。
扉を開け、何も振り返らずに出ていく。
扉が静かに閉じられる。
その音が、二人の世界を分断する線引きのように響いた。
昨夜、腕の中で感じた軽さと冷たさが、まだ残っている。忘れることはできなかった。
エリオスは歩きながら心に誓った。
もう二度と、あのような姿にはさせない。たとえ兄であっても、彼女を渡すことは出来ない。




