17 崩壊 -Chapter セレイナ ー エリオス
その夜、セレイナは白い寝着を身に纏った。
特に意味はなかった。ただ、同じことを繰り返す動作のひとつとして。その寝着さえもくたびれて、所々解れていた。
王城の東側にある塔。螺旋階段をセレイナは、裸足で一段ずつゆっくりと上がっていく。
冷たい石の感触が足裏に伝わるたびに、頭の中の靄が少しずつ濃くなっていく。もう何日食べていないのかも思い出せなかった。眠った記憶もない。
何も考えられなかった。それでも足は止まらない。
上へ。
それだけだった。
最上階に着いた時、艶を失くし、銀が白になったようなセレイナの髪を、風がふわっと靡かせた。
高塔の縁の向こう側には、青く霞んだ街並みが広がっている。その景色を見ながら、セレイナは欄干に指をかけた。
冷たい金属の感触。心臓が静かに鼓動している。恐れも悲しみもなかった。
そこには、終わりを受け入れるような、仄かな安堵だけがあった。
☆
その頃、東の中庭で第二王子エリオスは、ワインのグラスを片手にベンチに腰を下ろしていた。
普段は国の東端、海と山に挟まれた国境沿いの要地にいる。
この日は、ヴァルター公爵が治める、グレイストン領の国境和平条約交渉に同席するため、城に戻っていた。
相手の要求は穴だらけで、筋を立て直せば自然に結論は出た。必要な譲歩を示し、退路を確保する。外交の基本を踏まえれば、それだけで話は終わる。
あとは、形式的な社交の時間が残るだけだった。そうした場が苦手なエリオスは、庭に逃げてきた。静けさの中で、ようやく息がつける。
グラスを口元で傾けたとき、視界の端に白い影が映った。
塔の上に、風に揺れる白。最初は鳥かと思った。だが、違う。
人だ。
その白いものの動きに、迷いがなかった。まるで、目的がひとつしかないかのように。
エリオスは立ち上がった。グラスが石畳に落ち、ガラスが砕ける音と赤い液体が地面を染めた。
「……何をしている」
呟くより早く、彼は走り出していた。
塔の階段を駆け上がる。
冷たい空気が喉を刺し、息が荒くなる。
一段、また一段。
頭の中で最悪の光景がよぎる。
最上階にたどり着いた時、白い裾が風に揺れていた。
欄干の外。細い腕が、空に伸びている。
「やめろ!」
声を張り上げたが、風がその声をかき消す。白い人の身体がわずかに揺れるが、振り返らない。
エリオスは走り寄り、背後から彼女を抱きしめ、力を込めて引き戻す。
「……っ」
か細い声が、その人から漏れた。身体は驚くほど軽い。腕の中で折れてしまいそうなほどに。
エリオスは肩に手を添え、引き戻した人の顔を覗き込む。顔を見た瞬間、老婆かと思った。だが、瞳の色、髪の色、そして僅かに残る面影。思い当たる人物は、ひとりしかいない。
「セレイナ……妃? なのか……?」
名前を口にすると、胸の奥が一気に冷えてゆく。頬はこけ、唇は乾き、肌の色が失われている。焦点の合わない瞳が虚空を見つめていた。
「どうして、こんな……」
その言葉が自然に漏れた。セレイナは答えない。ただ、小さく息をしていた。エリオスはゆっくりと、そしてそっと彼女を抱き上げた。
あまりに軽い。まだ年端もいかない子供の方が、しっかりとした肉付きをしているのではないか? とさえ思えた。女性が纏うドレス重みの方が、勝っているのではないかとも。
彼はセレイナを横抱きにしたまま、塔を降りた。その間、セレイナはピクリとも動かなかった。ただ、小さな呼吸をする音が、時々、耳に入るのみ。誰にも声をかけず、迷うことなくエリオスは自室へ向かう。
自身の寝台に彼女を横たえ、毛布をかける。湯を沸かして、冷えた手を包む。セレイナの呼吸は浅く、脈は細い。眠るというより、意識を保っていないだけに見えた。
彼は、部屋のテーブルの上に置いてある、呼び鈴を取った。音を聞きつけ、彼の部屋に入って来たのは、二十代半ばの濃い茶髪の長身の青年だった。
「オクターブ。宮廷医師を呼べ」
オクターブと呼ばれたその青年が即座に駆け出し、ほどなくすると白衣の医師が案内された。
エリオスは無言のまま彼をベッドの傍へ促す。
医師は脈を取り、瞳を覗き、静かに息をついた。
「彼女には、持病があるのか?」
問われた医師は首を横に振った。
「……私は……側妃殿下を、診察したことはございません、エリオス殿下」
「なぜだ?」
低い声だった。怒りを押し殺したような。
「そのようなお話はなく……侍女たちからも特に申告は……」
「言われなければ、診ないのか」
室内に沈黙が落ちる。医師は小さく身を縮めた。そして、その事実から逃げるように、今診た見解をエリオスに話す。
「詳しいことはまだ分かりませんが、重度の栄養失調の兆候が見られます。極度の食事制限の影響で、心身共に疲弊しているかと推測します」
エリオスは暫く何も言わなかった。ただ、セレイナの白い手を見つめる。その指先が、微かに震えている。
なぜ誰も気づかなかったのか。なぜ、ここまで放置されたのか。
胸の奥で、静かに何かが燃え始めた。
それは怒りというより、城の中にある異常への強い疑念と、それに対する拒絶だった。
エリオスは一晩中、椅子を離れずに、セレイナを看続けた。
明け方近く、かすかに彼女の胸が一定のリズムで深く息をし始めたのを見て、漸く安堵した。
それとは別に、エリオスはひとつの決意をしていた。
この状態をこのままにするわけにはいかない。
夜が明けたら行くべき場所はひとつだ。と。




