14 消える存在 -Chapter セレイナ
やがてセレイナは、自分が何のために存在しているのかさえ、わからなくなっていた。
セラフィムからの愛なんて、最初から求めてはいない。
だがなぜ、自分はここにいるのか。
求められていた政務をこなそうとしても、リージェリア王太子妃の嫌がらせが続く。誰とも口をきかない日々が続く。
人として生きていると言えるのだろうか。
存在することそのものが否定されているようだった。
せめて人間としての最低限の扱いを受けたいと朧げに思う。それすら叶わない現実が、セレイナの心を少しずつ壊していく。
彼女は、もはや側妃ではなく、ただの『城の一部』になっていた。
存在しても、誰も気づかない。
そんな日々が静かに積み重なっていく。
かつて、セレイナはヴァルターを愛していた。その愛は苦しく、切実で、確かなものだった。けれど今では、その記憶さえ霞んでいく。ヴァルターの顔を思い出すのにも時間がかかり、生き延びるという意思だけが、彼女の心臓を、手足を辛うじて動かしていた。
季節の移ろいにも気づかないほどの時間が過ぎていく。セレイナは、ただ生き残ることだけを考えていた。
☆
その日は朝から、眩しいほどの青が空を覆っていた。
いつものようにセレイナは、一日の中で唯一の食事である、粗末な朝食を取っていた。
何も考えられなかった彼女の目が、ふと窓の外へ向いた。そこには、見た事のない色の軍服を来た集団が居た。
それを見てセレイナは、
「異国……の方」
ぼんやりと、そう呟く。
『異国』
何の気なしに呟いた言葉。それが、思考さえも奪われていた彼女の中に、ひとつの希望となって徐々に膨らんでいった。
この国から離れたら、お咎めがないのでは?そうすれば、実家にも迷惑はかからないのではないだろうか。
追放されるなら、それでも構わない。
そう思うと居てもたってもいられず、ふらつきながらも歩を進めた。
気付けば、セレイナはセラフィムの執務室の扉の前に立っていた。
心臓が激しく鼓動している。
ノックをする勇気さえ失いかけていたが、来なければならなかった。もう、これ以上は耐えられない。その思いだけが、腕を動かしていた。
「失礼します、殿下」
その声さえも、もう自分のものではないように感じられた。
セラフィムを見た瞬間、彼の表情に驚きが浮かんでいるのが見えた。セラフィムの目がほんの一瞬、見開かれる。けれど、その驚きはすぐに消え、冷たい視線へと変わる。
セラフィムは、セレイナをまっすぐに見据えた。
「セレイナ。何の用だ」
セレイナは深く一礼する。体が震えていた。
「殿下。申し訳ありません。畏れ多いのですが、私からお願いがあります」
「何だ」
「離縁してください。私を平民に下してください。お願いです」
その言葉に、セラフィムが表情を大きく歪ませる。そして、ため息と共に吐き捨てるように言い放った。
「何故だ」
セレイナは、声を絞り出すように言う。
「私ではもう、お役に立てません」
セラフィムはセレイナを見つめた。その目は、セレイナの心情を理解しようと寄り添うものではなく、明らかに警戒心を剥き出しにしている。
「セレイナ。ドレスも宝石も、過分に渡しているはずだろう? それなのに、何が不満なのだ?」
セレイナはその言葉を聞き、困惑した。
ドレスも宝石も?
この一年、新しいものをひとつも受け取っていない。身につけているのは、実家から持ってきた古い衣だけ。ましてや宝石など、ひとつも付けてはいない。
「殿下。申し訳ありません。私は何も、新調した覚えも受け取った記憶もございません」
セラフィムは眉をひそめ、机の引き出から束となった書類を取り出し、その中から何枚かを机の上に並べた。
そこに置かれたのは、ドレスや宝石の購入記録。どれもセレイナの署名と承認印が押されている。
それを見たセレイナは、息を詰める。だが、どれもこれも身に覚えがない。
セラフィムは眉を寄せ、低く呟く。
「奇妙だな。もう一度確認が必要かもしれん。リージェリアに聞いてみよう」
そう言うと、傍に控えていた侍従に命じた。
「王太子妃を呼べ」
数分後、リージェリアがセラフィムの執務室に姿を現した。
「セラフィム。何かあったの?」
その声は甘く柔らかい。問われたセラフィムも、急に呼び出したことへの謝罪の言葉を掛けたあと
「この書類なのだが。セレイナは、覚えがないと言うのだ。リージェリアはこのことについて、何か知っていることはあるか?」
セラフィムの問いに、リージェリアは困惑した顔をする。
「正直、こういった細かい経費のことは、覚えて無いわ。それにこれは、セレイナさん個人の経費でしょう? 私が口出しできることではないもの。それに、ここにサインとセレイナさん個人の承認印が……」
そう言うとリージェリアは、コテンと首を傾けた後、チラリとセレイナの方を見た。
「私は何もしてないけれど、こうやって記録に残っているということは、側妃様ご自身がご購入されたのではないの?」
セレイナは完全に混乱していた。なぜ自分のサインがあるのか。ドレスも宝石も手元には一切ないと言うのに。
やがて、セラフィムはセレイナに向けて、冷たい言葉を言い放った。
「もう……わかった。見苦しい言い訳は不要だ」
そう言った後、目を細め、忌々しそうな視線をセレイナに向けた。
「それにだ。そんなみっともない恰好でうろつくな。私がお前を、粗末に扱っているとでも言いたいのか?」
その声は冷たく、容赦がなかった。
身に着けているドレスは、実家から持って来たもの。それを着まわしているうちに、傷み、色褪せ、解れていったのだ。洗衣は施されてはいたが、その扱いに丁寧さはなかった。
「もういい。そんな陰鬱な顔を見ていると気分が悪くなる。暫くは、宝石などは自費で賄うように。側妃経費からは一切出さない事とする」
自費。そんなものがあったのだろうか。そう思うが、その思考を遮り、セラフィムはさらに言葉を続ける。そこには、完全な見下しの響きがあった。
「それにだ。誰が政務をこなす? 君の能力は買っている。それを理解してほしい。離縁どうこうと言う問題ではない。最初に言ったはずだ。君は王太子妃の補佐官であり、私の妻ではない」
セラフィムが放つ言葉。そのことは、言われなくともセレイナは痛感していた。そしてセラフィムは、セレイナの存在も『利用するのみ』と、堂々と言っているのだ。セレイナの事を嘘つきだと信じて。
セレイナは全てを諦めた。
何も言えず、ただ一礼をして王太子の執務室を後にした。
☆
セレイナが部屋を出たあと、セラフィムは眉間に深い皺を作った。
初めて見た時は、美しいと思ったのに。
女は嫉妬に狂うと、こうも変わるのか。そう思った。
リージェリアが日々囁いていた「セレイナは傲慢だ」「王太子妃を貶める。無能だと」「王妃の座を狙っている」「あろうことか、城に勤める男性たちに、色目を使っていると奏上があった」などという言葉が、すべて彼の中で真実として染みついていた。
セレイナが満足な食事も取れず、嫌がらせに耐えていることを、彼は知らない。
☆
セレイナは、そのまま何も考えずに自室へと歩を進めた。
その夜、彼女は静かに思う。このままどこかへ、逃げても無駄。そんなことをすれば、両親が捕らえられてしまう。助けを求めても、両親を困らせるばかりか、何かの罪を被せられて家ごと断罪されるかもしれない。
そう、自身が身に覚えのないことで、貶められたように。
絶対にそれだけは、避けなければならない。
そうなると、残された道は二つ。
今すぐ死ぬか、それともこの苦しみの果ての、終わりの訪れを待つか。
もう……
待つことには疲れ果てていた。
だから、道はひとつしか残されていない。
セレイナは、静かにその決意に至る。
長い夜が、静寂の中で終わりを告げた。




