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14 消える存在 -Chapter セレイナ

 やがてセレイナは、自分が何のために存在しているのかさえ、わからなくなっていた。


 セラフィムからの愛なんて、最初から求めてはいない。

 だがなぜ、自分はここにいるのか。


 求められていた政務をこなそうとしても、リージェリア王太子妃の嫌がらせが続く。誰とも口をきかない日々が続く。


 人として生きていると言えるのだろうか。

 

 存在することそのものが否定されているようだった。


 せめて人間としての最低限の扱いを受けたいと朧げに思う。それすら叶わない現実が、セレイナの心を少しずつ壊していく。


 彼女は、もはや側妃ではなく、ただの『城の一部』になっていた。

 存在しても、誰も気づかない。

 そんな日々が静かに積み重なっていく。


 かつて、セレイナはヴァルターを愛していた。その愛は苦しく、切実で、確かなものだった。けれど今では、その記憶さえ霞んでいく。ヴァルターの顔を思い出すのにも時間がかかり、生き延びるという意思だけが、彼女の心臓を、手足を辛うじて動かしていた。


 季節の移ろいにも気づかないほどの時間が過ぎていく。セレイナは、ただ生き残ることだけを考えていた。



 その日は朝から、眩しいほどの青が空を覆っていた。


 いつものようにセレイナは、一日の中で唯一の食事である、粗末な朝食を取っていた。

 

 何も考えられなかった彼女の目が、ふと窓の外へ向いた。そこには、見た事のない色の軍服を来た集団が居た。


 それを見てセレイナは、


「異国……の方」


 ぼんやりと、そう呟く。


『異国』


 何の気なしに呟いた言葉。それが、思考さえも奪われていた彼女の中に、ひとつの希望となって徐々に膨らんでいった。


 この国から離れたら、お咎めがないのでは?そうすれば、実家にも迷惑はかからないのではないだろうか。

 

 追放されるなら、それでも構わない。


 そう思うと居てもたってもいられず、ふらつきながらも歩を進めた。


 気付けば、セレイナはセラフィムの執務室の扉の前に立っていた。

 

 心臓が激しく鼓動している。


 ノックをする勇気さえ失いかけていたが、来なければならなかった。もう、これ以上は耐えられない。その思いだけが、腕を動かしていた。


「失礼します、殿下」


 その声さえも、もう自分のものではないように感じられた。


 セラフィムを見た瞬間、彼の表情に驚きが浮かんでいるのが見えた。セラフィムの目がほんの一瞬、見開かれる。けれど、その驚きはすぐに消え、冷たい視線へと変わる。


 セラフィムは、セレイナをまっすぐに見据えた。


「セレイナ。何の用だ」


 セレイナは深く一礼する。体が震えていた。


「殿下。申し訳ありません。畏れ多いのですが、私からお願いがあります」


「何だ」


「離縁してください。私を平民に下してください。お願いです」


 その言葉に、セラフィムが表情を大きく歪ませる。そして、ため息と共に吐き捨てるように言い放った。


「何故だ」


 セレイナは、声を絞り出すように言う。


「私ではもう、お役に立てません」


 セラフィムはセレイナを見つめた。その目は、セレイナの心情を理解しようと寄り添うものではなく、明らかに警戒心を剥き出しにしている。


「セレイナ。ドレスも宝石も、過分に渡しているはずだろう? それなのに、何が不満なのだ?」


 セレイナはその言葉を聞き、困惑した。


 ドレスも宝石も?


 この一年、新しいものをひとつも受け取っていない。身につけているのは、実家から持ってきた古い衣だけ。ましてや宝石など、ひとつも付けてはいない。


「殿下。申し訳ありません。私は何も、新調した覚えも受け取った記憶もございません」


 セラフィムは眉をひそめ、机の引き出から束となった書類を取り出し、その中から何枚かを机の上に並べた。


 そこに置かれたのは、ドレスや宝石の購入記録。どれもセレイナの署名と承認印が押されている。


 それを見たセレイナは、息を詰める。だが、どれもこれも身に覚えがない。


 セラフィムは眉を寄せ、低く呟く。


「奇妙だな。もう一度確認が必要かもしれん。リージェリアに聞いてみよう」


 そう言うと、傍に控えていた侍従に命じた。


「王太子妃を呼べ」


 数分後、リージェリアがセラフィムの執務室に姿を現した。


「セラフィム。何かあったの?」


 その声は甘く柔らかい。問われたセラフィムも、急に呼び出したことへの謝罪の言葉を掛けたあと


「この書類なのだが。セレイナは、覚えがないと言うのだ。リージェリアはこのことについて、何か知っていることはあるか?」


 セラフィムの問いに、リージェリアは困惑した顔をする。


「正直、こういった細かい経費のことは、覚えて無いわ。それにこれは、セレイナさん個人の経費でしょう? 私が口出しできることではないもの。それに、ここにサインとセレイナさん個人の承認印が……」


 そう言うとリージェリアは、コテンと首を傾けた後、チラリとセレイナの方を見た。


「私は何もしてないけれど、こうやって記録に残っているということは、側妃様ご自身がご購入されたのではないの?」


 セレイナは完全に混乱していた。なぜ自分のサインがあるのか。ドレスも宝石も手元には一切ないと言うのに。


 やがて、セラフィムはセレイナに向けて、冷たい言葉を言い放った。


「もう……わかった。見苦しい言い訳は不要だ」


 そう言った後、目を細め、忌々しそうな視線をセレイナに向けた。


「それにだ。そんなみっともない恰好でうろつくな。私がお前を、粗末に扱っているとでも言いたいのか?」


 その声は冷たく、容赦がなかった。

 身に着けているドレスは、実家から持って来たもの。それを着まわしているうちに、傷み、色褪せ、解れていったのだ。洗衣は施されてはいたが、その扱いに丁寧さはなかった。


「もういい。そんな陰鬱な顔を見ていると気分が悪くなる。暫くは、宝石などは自費で賄うように。側妃経費からは一切出さない事とする」


 自費。そんなものがあったのだろうか。そう思うが、その思考を遮り、セラフィムはさらに言葉を続ける。そこには、完全な見下しの響きがあった。


「それにだ。誰が政務をこなす? 君の能力は買っている。それを理解してほしい。離縁どうこうと言う問題ではない。最初に言ったはずだ。君は王太子妃の補佐官であり、私の妻ではない」


 セラフィムが放つ言葉。そのことは、言われなくともセレイナは痛感していた。そしてセラフィムは、セレイナの存在も『利用するのみ』と、堂々と言っているのだ。セレイナの事を嘘つきだと信じて。


 セレイナは全てを諦めた。


 何も言えず、ただ一礼をして王太子の執務室を後にした。



 セレイナが部屋を出たあと、セラフィムは眉間に深い皺を作った。

 

 初めて見た時は、美しいと思ったのに。


 女は嫉妬に狂うと、こうも変わるのか。そう思った。


 リージェリアが日々囁いていた「セレイナは傲慢だ」「王太子妃を貶める。無能だと」「王妃の座を狙っている」「あろうことか、城に勤める男性たちに、色目を使っていると奏上があった」などという言葉が、すべて彼の中で真実として染みついていた。


 セレイナが満足な食事も取れず、嫌がらせに耐えていることを、彼は知らない。



 セレイナは、そのまま何も考えずに自室へと歩を進めた。


 その夜、彼女は静かに思う。このままどこかへ、逃げても無駄。そんなことをすれば、両親が捕らえられてしまう。助けを求めても、両親を困らせるばかりか、何かの罪を被せられて家ごと断罪されるかもしれない。


 そう、自身が身に覚えのないことで、貶められたように。


 絶対にそれだけは、避けなければならない。



 そうなると、残された道は二つ。


 今すぐ死ぬか、それともこの苦しみの果ての、終わりの訪れを待つか。


 もう……


 待つことには疲れ果てていた。


 だから、道はひとつしか残されていない。


 セレイナは、静かにその決意に至る。


 長い夜が、静寂の中で終わりを告げた。

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