プロローグ:蝶のはじまり
川島良樹と槇原志保。物語はこの中学生男女二人のモノローグから始まります。
私は川島良樹くんが、よしくんが好き。それは疑いようがないんだけど、その好きがラヴなのかライクなのかって言われたら、どっちなのか自分でもよくわかりません。だって、私はまだラヴの意味での好きっていう気持ちを知らないから。
よしくんは、最初から私に優しかったんです。そんなよしくんは「父さんにオマエの面倒見ろって頼まれたんだから仕方ないだろ」「父さん怖いんだよ」が口癖なの。よしくんはお父さんのことが怖くて頭が上がらないらしくって、だからしょうがないだろーって、父さんから言われたら逆らえないんだよって。でもきっと、絶対にそれだけじゃないって私は思うの。
私の両親は私が小さい頃に交通事故で亡くなりました。両親と私、それから母方のおじいちゃん・おばあちゃんと5人で車に乗って出かけていて事故にあったんです。5人の中で私だけが助かりました。お母さんが私のことを抱きしめてくれていたおかげらしいです。お母さんが私を守ってくれたんですね、きっと。
事故のことはよく覚えていません。なにしろ小さい頃のことだし記憶自体がなんだか飛び飛びになってしまっていて、もしかしたら思い出したくないのかもしれません。
それから私はお父さんのお兄さんに引き取られました。最初は父方のおじいちゃん・おばあちゃんのところに引き取られる予定だったみたいですけど、どうして変わったのかはわかりません。
私はその叔父さんのところではあまり歓迎されませんでした。暴力をふるわれたことは無かったけど、なんとなく私のことを邪魔そうにするというか邪険にするというか……今から思えば気のせいだったのかもしれませんけど、その当時はそんな風に肩身の狭さを感じていたんです。
でもだからといって小さかった私が家出をして1人で生きていくことなんてできるわけがありません。悲しいこと、辛いこと、苦しいこともいっぱいあったけど、それをみんな我慢して生きていくしかありませんでした。
そのうち私は別の叔父さんの家へ移ることになったんです。でも、そこでもあまり歓迎されませんでした。本当にどうしてなのか今もわかりません。今あらためて考えると、きっと私にも何か原因があったんだとは思います。きっとそうなんです。そうだと思うんです。だって叔父さんってお父さんの兄弟なんだもん。悪い人なわけないから。
よしくんのお父さんは私の父方の遠縁に当たるんですけど、お互いにそれを知らないまま偶然同じ高校へ通うことになって、それ以来の仲なんだって聞きました。よくウチへ遊びに来ていたみたいで、お葬式の時も奥さんの薫子さんと2人で私をずっと優しく慰めてくれていた記憶があります。特に薫子さんは自分もポロポロ涙を流しながら私をギュッて抱きしめてくれました。まだ小さかった私だけれど、それがとても嬉しかったことは今でもハッキリ覚えています。抱きしめてくれたその胸はとっても暖かくて柔らかくて安らげて、なんだか赤ちゃんに戻ったような気がしました。
私のお父さんは普段お酒を飲まない人だったけど、よしくんのお父さんが来たときは凄く嬉しそうにお酒を飲みながら2人で話していたのを覚えています。私は酔っ払っているお父さんのこと、ホントはあまり好きじゃなかったんですけどね。もちろん小さい頃の記憶だからおぼろげではあるんですけど、でもお父さんがとっても楽しそうで嬉しそうだったことは覚えています。
小学校2年の冬休みのある日、私の元によしくんのお父さんとお母さんが現れたんです。
「これからウチで一緒に暮らすからね」
よしくんのお母さんは、薫子さんはとっても優しそうな笑顔で私にそう言いました。
「一緒に?」
「そうよ。ここからお引越しして、私たちの家で一緒に暮らすの。ウチは今5人家族なんだけど、志保ちゃんと合わせて6人家族になるの」
それはつまり私を引き取るということです。私はしばらく何も言うことができませんでした。
「あ、それとも志保ちゃん、とっても仲の良いお友達がいてお引越ししたくないかしら? そうだったら諦めるけれど……」
遠縁とはいっても、ほとんど血がつながっていないも同然の私です。どうしてそんなことをするのか幼かった私にはよくわかりませんでした。そんなことをしてもメリットなんてないハズなんです。今考えてもそう思えるんです。
でも今までもそうでした。大人同士が勝手に話し合って私の行く場所を決めてきたんです。だから結局今回も同じなんだろうって思ってました。決められたところに行ってそこで暮らすしかないんだって。それが私の運命なんだって。
私は最終的に引っ越すことにしました。このままここに居ても何も変わりないだろうし、なによりもよしくんのお母さんの、薫子さんの優しそうな物腰や眼差しがすごく良いなって思って、この人ならもしかしたら私にも優しく接してくれるかもしれない……なんて夢を見ちゃったんです。結果的にはそれが大正解だったんですけど。
引っ越した先は教員用住宅。両親のどちらかが区内の小中学校の教員である家族の為に用意された住宅です。その住宅で一緒に住むこととなったのが長男の竜樹さん、長女で末っ子の瑞樹ちゃん、そして次男の川島良樹くん、よしくんでした。そういえば私、最初は川島くんって呼んでいたっけ。それが良樹くんになり、いつの間にか、よしくんって呼ぶようになってたなぁ。
よしくんのお父さん、川島樹さんは私が引っ越してきた日に凄く喜んで迎えてくれました。よしくんは自分のお父さんのことを凄く怖がっているけれど、私は樹さんのことを怖いと思ったことは一度もありません。怖いどころかいつもとっても優しくしてくれます。大好きです。ううん、樹さんだけじゃありません。奥さんの薫子さんも、竜樹さんと瑞樹ちゃんも、もちろんよしくんもみんな大好き。川島家の人たちはみんな大好きなんです。
私はどちらかというと人見知りな方なので、だから転校するのが実はとっても不安だったんです。新しい友だちに馴染めるかな? 新しい環境に馴染めるかな? 怖い先生はいないかな? イジワルなコがいたらイヤだな……とにかく毎日そんなことばかり考えていました。でも今の小学校から転校することが決まってホッとしたのも確かでした。
私は両親がいないので、今まで通った小学校ではそれを理由にイジメられたりイヤな思いをさせられてきたんです。一緒に暮らしていた親戚のコたちは誰も助けてくれませんでした。その前の学校でもそうだったんです。ずっとそうだった。
だから転校することに正直ホッとしたんだけど、でも新しい学校でもまたきっと同じなんだろうなぁとも思っていました。誰も私の味方にはなってくれないんだろうなって。そう最初から諦めてました。だってそう思っている方が傷つかずに済むから。期待しなければ失望することも無いから。
本当に不思議なんですけど、私は自分から両親がいないなんて一度も話したことはないのに、でもなぜだかそれを知っている人がいて、そしてなぜかそのことが広まっているんです。ずっとイヤだなぁって思っていました。これからもずっとそうなのかなって、どこに行ってもそうなのかなって。私だって好きで両親がいないんじゃないのに、なのにどうしてこんなイヤな思いをしなくちゃいけないんだろうって、ずっとずっとそう思っていました。でも今度の学校でもきっとそうなんだろうなぁって諦めていたんです。けれど違った。今度の転校先には、よしくんがいたから。
ホントのことを言うと、引っ越してきた時には内心ドキドキして凄く不安だったんです。会ったことは無かったけれど、よしくんが同い年なのは薫子さんから聞いて知っていました。でもイジワルだったり乱暴だったりしたらイヤだなぁって思っていたんです。また学校でも家でもイヤな思いをしたくないなぁって。薫子さんの子供だからそんなコじゃなさそうって思ったけど、やっぱり実際に会ってみないとわからないし……。
実際に会ってみたら言葉遣いが乱暴でちょっと怖いなって、それが私の第一印象でした。でもすぐにわかったの。よしくんは本当は全然そんな男の子じゃないってことに。
転校して早々に、私に両親がいないことを知った何人かの男の子たちが、やっぱり私にイジワルをするようになりました。私は今までと同じように何も言い返さずに黙って耐えていました。言い返してもっとイヤな思いをしたくなかったから。言い返すと自分がもっと傷つくだけだって、もう知ってたから。
転校して1ヶ月くらい経った頃、よしくんは私にイジワルした男の子たちへ「オマエら、いい加減にしろよ!!」って食ってかかったんです。親がいないからって何が悪いんだ、そんなのコイツのせいじゃないだろって、よしくんはそれはそれは物凄い剣幕で怒ってくれたの。それから口論になって、よしくんが相手の1人の胸倉を掴んでたところに担任の先生が来たんです。
先生は今にも殴りかかりそうな光景を見て、完全によしくんが悪いと思い込んだみたいでした。だから私は違うんですって言って先生の誤解を解こうとしたの。そうしたらよしくんが「いいからオマエは黙ってろ」って。どうしてなの? って思ったけど、「いいから黙ってろ。何も言うな」って。
先生は教室に居た他のコ達にも話を聞いたんだけど、みんなケンカの理由まではよくわかっていなかったみたいで、幸い相手の男の子たちもケンカの理由を言わなかったのでその場は両成敗ってことで終わりました。
だいぶ日にちが経ってから私は聞いたんです。どうしてあの時は私に黙ってろって言ったの? って。そしたらよしくんはこう言いました。
「なんでだろうな。自分でもよくわかんねえけど、なんか先生がオマエにいろいろ質問すんのがイヤだったんだよな。オマエさあ、あん時アイツらに色々言われてイヤな思いしてたわけじゃん? だからそれ以上イヤな気持ちにさせちゃ可哀想かなーとか思ってさ。そんだけ」
口調はぶっきらぼうでしたけど、でもそれが照れ隠しなんだっていうことはすぐにわかりました、だって、よしくん顔を真っ赤にしていたんだもん。そんなの、誰だってわかります。
ああ、この人は本当は優しいんだなぁって思いました。自分が悪者になるのも構わず、私をキズつけないように気を遣ってくれてたんだってわかったら、この人は他のコ達とは違うなって、信頼出来るなって思ったんです。
「でもさ、後からよく考えたら先生に全部話しちゃえばそれで終わってたんだよな、きっと」
よしくんはそう言って愉快そうに笑いました。でもあの時そうしなかったところがきっとよしくんの良いところなんです。そして私はそんなところが大好きなんです。
帰り道で私が「ありがとう」って言ったらよしくんは「オマエ、もしかしたらオレにイジメられるかもって心配してたのか?」って聞いてきました。私は少し考えてから頷きました。そしたらよしくんはこう言ってくれたの。
「悪かったな、気がつかなくて。でも心配すんなよ。オレはオマエをイジメたりなんかしねえから。むしろ何かあったらオレがオマエを守ってやる。それが父さんとの約束だしな。だからこれからは困ったことがあったらオレにすぐ言えよ」
私はビックリしちゃって、でも凄く嬉しくなっちゃって。あぁこの人は信用出来る人なんだなぁって、頼りがいのある男の子だなぁって。きっとあの日から私はよしくんのことを好きになったんだと思います。
よしくんは優しい。本当に優しいんです。口が悪くてすぐ手が出るところはあるけれど、それは確かに暴力は良くないんだけれど、でもよしくんが手を出すのは誰かを守る時だけなんです。私の時みたいに。
以前こんなことがありました。よしくんが他のクラスの男の子3人を殴ってしまったんです。殴られたコたちの親が学校に知らせてよしくんの両親が呼び出されるような大騒ぎになったんですけど、でもよしくんは最初謝らなかったんです。
「殴ったのは悪かったかもしれないけど、でも絶対謝らない。俺に謝れって言うんだったらオマエらもイジメてたアイツに謝れ」
そう、よしくんはイジメを止めさせようとしていたんです。私も気づかなかったんですけど、よしくんは私を守ってくれた時と同じように、イジメられていたコを守るためにそんなことをしたんです。しかも違うクラスのコのことを。
この話を私はよしくんのお母さんから聞いたんですけど、凄いのは樹さんも薫子さんも自分達の息子のした行動を正しいと認めたってことです。もちろん暴力はいけないけれど。
結局イジメられていたコが正直に今まであったことを話してくれて、向こうの親は自分たちの子供がそんなことをしていたと知らなかったらしくてイジメられていたコに謝って、それでよしくんも謝ってこの件は終わりになったんだそうです。正義感の強さは川島家の血筋なのかな。
でもイジメられていた子と同じクラスだった人たちもイジメのことは気づいてなかったらしくって、その上この話は部外者に知られることがなかったから、だからほとんどの人はよしくんが暴力を振るった本当の理由を知らないんです。きっとみんなはよしくんのことを乱暴なヤツって思ってます。誤解したままなんです。
どうして先生たちが本当のことをみんなに教えてくれなかったのかわかりません。きっと親同士で何か約束をしたからだと思うんだけど、何も教えてもらえませんでした。
よしくんはこういうことが多くて誤解をされやすくって、でも本人はその誤解を全然解こうとしなくって気にもしてなくって、だからみんなよしくんの良いところに気づいてくれないんです。
「ちゃんと話さないとみんなもわかってくれないよ?」
私がそう言っても全然気にかけないんです。
「別にみんながわかってくれなくてもいいじゃん。わかる人がわかってくれればいいよ」
いつもそんな調子です。他人の評価なんかどうでもいい人なんです。でも、だからといってそれで納得するわけにもいきません。だって私はそんなのイヤだから。みんなによしくんの良いところを知って欲しいもん。よしくんは本当はこんなにも魅力的な男の子なんだって知って欲しいもん。
よしくんは私が学校帰りに足を挫いた時には、家までおんぶしてくれました。風邪をひいて学校を休んだ時に、誰もいないからってお粥を作ってくれたこともあります。お粥どころか料理なんてしたことないはずだから、きっと本で調べながら作ってくれたんだと思うの。
逆上がりが出来なくて練習していた時はずっと付き合ってくれました。よしくんは運動神経が良いからとっくに出来るようになっていたのに、私が上手くできないのを見て出来るようになるまで一生懸命アドバイスしてくれたんです。私が逆上がりを出来るようになったのは間違いなくよしくんのおかげです。
2人で一緒に歩く時はいつもよしくんが車道側。何かの拍子に私が車道側になると、すぐにスッと身体を入れ替えてまた自分が車道側になるの。
「それも樹さんに言われたの?」
そう尋ねたら、お父さんがお母さんと歩く時いつもそうだからそういうものだと思ってたって。それがもう染み付いているから、今はもう自分が車道側にいないと落ち着かないんだって。男の子同士で歩く時もそうなんだって。
他にもいーっぱい数えきれないほど良いところはあるけど、とにかくよしくんはいつも私を助けてくれて、励ましてくれて、守ってくれるんです。私はみんなにそれを知ってもらいたいって思います。でも本当のよしくんは私だけが知ってるっていうのも良いかなって、そんな気持ちが無いと言ったらウソになるかもしれません。
いつだって私たちは一緒。もうそれが当たり前になっているんです、ずっとこうなんだって、これからもずっとずっとこうなんだって、根拠なんか何にも無いけれど私はそう思ってます。ずっとこうであって欲しいなって心から願ってます。
槙原志保は小学校3年生になる直前ここへ来たんだ。ウチでオレらと一緒に暮らすためにね。詳しいことは知らないよ。親戚の女の子が一緒に暮らすことになったからって、そう言われただけだし。
もしかしたらもっと詳しく話されてたのかもしれないけど、全然覚えてないんだよね。あ、でもなんか親戚をたらい回しにされてるって言ってたかな。あんまり良い扱いは受けてなかったみたいよ。
ちなみに志保はその当時のことをあまり話したがらない。どうもあまり思い出したくないみたいなんだ。だから俺も今じゃ何も聞かない。まあ、いまさら聞く必要も意味もないしね。 あと志保は小さい時に交通事故で両親を亡くしてるんだけど、小さい時過ぎて両親の記憶はあんまりないんだって。いや、思い出したくないだけかもしんないけどさ。
実際大人同士でどんな会話をしたのか細かくは知らないけど、とにかく親友の娘の境遇を見かねてウチで引き取ることにしたっぽいんだ。
まあ、そんなこんなで志保はウチに引っ越して来た。そしてオレが志保と初めて会ったのは引っ越してきた当日だった。それまで会ったことはなかったんだ。
初めて会った時の第一印象は「ずいぶんオドオドした女の子だなぁ」だったよ。おとなしいコだと父さんから聞いてはいたけど、とにかくオレと目を合わそうとしないし、なんかうつむき加減だし、そのくせチラチラこっちの顔色をうかがうみたいな仕草をするしさぁ。おまけに同い年なのになぜか敬語だし、なんかこう、どう接したらいいかわかんねーヤツだなぁ、面倒くさそうなのが来ちゃったなって正直その時は思ったよ。
後になって敬語は躾が良いからだってわかったけど、オドオドしてんのだけは理由がずっとわかんなかった。だって川島家の他の人間とは普通に接するんだぜ? なのにオレに対してだけ態度が違うんだ。おかしいでしょ? 普通おかしいと思うでしょ? でもまあそうは言ってもオレもそれほど気にしてはいなかったし、特に深くは考えていなかったんだけどさ。
志保が来た日のことはよく覚えてる。父さんも母さんも娘が1人増えたってすごく喜んでたし、オレの3才上の兄貴である竜樹は「可愛い妹が出来た」って喜んでたし(悪かったな、可愛くない弟で)4才下の妹の瑞樹は「優しいお姉ちゃんが出来た」って喜んでたし(悪かったな、優しくないお兄ちゃんで)まあとにかくオレ以外の家族全員が大歓迎ムードだったね。
ただオレとしてはお姉ちゃんでも妹でもない同い年の女の子だったんで、その辺がなんかちょっとヘンな感じだった。
正確に言うとヘンって言うか、なんかこうどう接すればいいのかよくわかんなくってさ、距離感っていうのかな、最初はそういうのが上手く掴めなくってちょっと困った。さっきも言ったけど志保は志保でオレに対してだけ妙に他人行儀だったしね。
志保が引っ越して来たのは小3の1学期が始まる1週間ほど前だったんだけど、引っ越し当日の夜はウチで歓迎の席が設けられたんだ。父さんはメチャクチャ上機嫌だった。そしてその席で父さんはオレにこう言ったんだ。
「いいか良樹。世の中にはな、親がいないというだけでイジメたりするヤツがいるんだ。それでなくても志保ちゃんは女の子だし新しい環境で不安なんだから、何かあったら同い年で同じ学校のオマエが志保ちゃんを守ってやれ。か弱い女の子を守るのは男の義務だからな」
母さんは優しい人だったけれど父さんは厳しく怖い人だったので、父さんに厳命されたら逆らうことなんか出来なかった。ましてその時の父さんは口調こそ優しかったけど、オレを睨みつけるような目で見ていたんだ。それは多分誰も知らないんだけど、とにかくその時のオレは背筋が凍りついたような気持ちだった。そんなオレに父さんはもう一度念を押すように言ったんだ。
「もう一度言うぞ。か弱い女の子を守るのが男の役目だ。学校へも毎日一緒に行って一緒に帰って来るんだぞ! わかったな?」
そして少し間を空けて、確認するようにさらに繰り返したんだ。
「わかった、な?」
オレの父さんは中学の体育教師で、だからまあ体格も良いし筋骨隆々ってタイプだ。オレは物心が付いた頃から父さんが怖くて絶対逆らえなくって。いや、ホントにマジで怖いんだって。だから内心では「えーっ」て不満タラタラだったけど、こんな風に命令されたら断れるわけがないんだって。
父さんが大概酔っ払った頃にオレは自分の部屋に戻った。酔っ払いにからまれるとめんどくさいからね。
部屋で漫画なんか読みながらゴロゴログダグダしていたら、誰かが扉をノックしたんだ。「どうぞー」って声をかけたら部屋に入って来たのは志保だった。
「なんだよ。何か用かよ?」
今から思い返すとずいぶんぶっきらぼうにそう言った気がするけど、それはまあ言い訳させてもらえるならどう接したらいいかまだわかんなかったからなんだけど、そんなオレに志保は「あの、これからよろしくお願いします」って言ってペコリと頭を下げたんだ。
「お願いしますって、オマエ俺と同い年だろ? なんでそんな敬語なんだよ。よろしくお願いね、でいいんじゃん」
その時のオレは志保が何でそんな態度だったのかサッパリ理解出来なかったんだ。なにしろあの頃はアイツのことを何にも知らなかったからさ。
オレにそう言われても志保はハッキリと答えなかった。単純に言葉を失って何も言い返せなかったのか、それとも言えない理由があったのか、あるいは言いたくなかったのか。それもオレにはわからなかった。わからなかったから、最初の頃はホント正直言って少しイライラしていたっけ。言いたいことがあんならなんでハッキリ言わねーんだよって思ってた。同い年なのになんでそんな遠慮してんだよって。
小学校へ通うようになってからは行きも帰りも一緒だったよ。父さんにああ言われたからには仕方ないからね。もちろん最初の頃はクラスメイトから散々からかわれたさ。それでも父さんに逆らえないオレは志保にイライラしつつもジッと我慢していた。
そんなある日、ちょっとした出来事がクラスであったんだ。確か5月だったかな。もちろんオレが当事者の1人なんだけど。
「オマエら!! いい加減にしろよ!!」
それまでガヤガヤと騒がしかった放課後の教室が、一瞬で水を打ったように静まり返った。オレの腹から絞り出した声だけが、やけに大きく響いている気がした。目の前にいる男子生徒2人の顔が驚きと戸惑いで引きつっているのが見えた。その横で志保は黙って俯いて、自分のスカートの裾を固く握りしめてたんだ。
「グチグチグチグチと槇原に嫌がらせしてんなよ!」
頭に血がのぼって、耳の奥がジンジンした。相手が何か言い返してきた気がするけど、もう言葉は耳に入らなかった。気づいた時には、もうオレは目の前のひとりの胸ぐらを掴んでいたんだ。ゴワゴワした制服の布地越しに、驚いて大きく脈打つ心臓の音が伝わってきた。その時、教室の引き戸がガラッと乱暴に開いて担任が入ってきたんだ。
事の発端はその男子生徒2人が志保に対して放った言葉だ。実はこいつらが志保にチョコチョコとちょっかい出していたのは前から気づいてはいたんだ。いたんだけど……。
「オマエ、アイツらに何かイジワルでもされてんのか?」
そう尋ねても志保は「ううん。そんなことないよ」と答えるだけだったんだ。そんなことない顔には思えなかったんだけど、言いたくないのかもしれないし無理強いするのもなーなんて考えたりもして、だからそれ以上深く追求するのは気が引けちゃって、まあ本当に問題があったら自分で言ってくるだろとか思っちゃっててさ、それでそのままにしていたんだけど……それが間違いだったとその時わかったんだ。
オレが怒鳴りつけたのは、アイツらが志保に何を言っているのかがわかったからだ。オレがそばにいることに気づかなかったのか、それとも気づいていても平気と思ったのか、とにかくアイツらはこう言ったんだ。親がいないヤツはこれだからなって。
どういう話の流れでそう言ったのかはわからない。わからないけど、それは明らかに両親のいない志保を蔑んだ言葉だ。だからそれを聞いた瞬間オレは頭がカッとなって、そして怒りに任せてヤツらを怒鳴りつけたんだよ。
「親がいないから何だってんだよ! そんなもんコイツには何の責任もねえだろうが!!」
いきなり大声で怒鳴られたアイツらは目を丸くして驚いてた。まさかオレが横から口出ししてくるとは思ってなかったのかもな。
でもオレは父さんと約束してるんだ。志保がイジメられたらオレが守るって約束したんだ。これは間違いなく志保に対する侮辱なんだから口を出さなくてどうするって思ったさ。
それから口論になってオレが1人の胸ぐらを掴んだところで担任が教室に飛び込んで来たんだ。誰かが呼びに行ったんだろうけど、よりによって胸ぐら掴んでるトコをバッチリ見られたんだから、そりゃ心象は悪いよな。
担任は「どうしてケンカになったんだ」と尋ねたがオレは答えなかった。理由を言って志保を巻き込みたくなかったからだ。志保に親がいないことをコイツらがからかったからだって、なんかそれは言いたくなかった。オレはコイツらがイジメを止めればそれでよかったし、担任が志保にいちいち問いただすような真似はさせたくなかったし、両親がいないなんて話をあらためてさせたくなかったんだ。
一方のアイツらはアイツらで何も答えなかった。状況的にはオレが悪者なのに何も言わなかったのは、きっと自分たちの方が悪いというのは自覚していたんじゃないかな。まあ隠したって志保が話したらバレちゃうわけだけど。
今から思えば、別にあの時総て洗いざらい話してしまってもよかったのかもしれない。でもあの時はそうしたくなかった。とにかく志保を出来る限り巻き込みたくないって、なぜだかわからないけどそう思ったんだ。結局どちらもケンカの原因を言わなかったので、その場は両成敗ということでウヤムヤのまま終わった。
「ありがとう、川島くん」
帰り道で志保は急にポツリとそう言った。それが今日の出来事に対するお礼だってことは、さすがにすぐにわかったさ。
「オマエさ、前からアイツらにあんなこと言われてたのか?」
志保は少し間を置いてからコクリと頷いた。そして以前からイジワルなことを言われたりされたりしていたと告白したんだ。さらには前の学校でもそのまた前の学校でも似たようなことをずっとされていたことも。それを聞いたオレはふと、ある事が頭に浮かんだのでそれを尋ねてみることにした。
「あのさ……オマエ、もしかしてオレにもイジメられるんじゃないかと思ってたのか?」
志保は少し戸惑ったような感じだった。
「……どうしてそう思うの?」
「オレさ、最初に会った時からずっとオマエのことオドオドしたヤツだなって思ってたんだよ。同い年なのに敬語だしさ。でもイジメられてたんだろ? だからオレがそういうヤツだったらイヤだなって心配してたんじゃねえのかって、だからあんなオドオドしてオレの顔色うかがうみたいな感じだったんじゃねえのかって、ふと今そう思ってさ」
志保はビックリしていた。顔にハッキリと「どうしてわかったの?」と書いてあった。それを見てオレはようやくわかったんだ。自分がどう思われていたかを。
(そうか、そういうことだったのか……)
志保は今まで両親がいないことで色々言われてきた。からかわれたり、イジメられたりしてきた。きっとこの学校でも同じだと思っていたんだろう。そのうえ学校だけじゃなく家に帰ってきてまで同じ家に住んでいるヤツからイジメられたらたまったもんじゃない。いや、きっと今までがそんな状況だったんだろう。そんな逃げ道が無い状態になったら辛くて仕方ないに決まってる。志保はそれが怖かったんだ。怖いからきっとオレの様子をビクビクしながらうかがっていたんだ。俺だけが自分を歓迎していないように感じたから。
確かに初めてウチに来た時も、みんなは大歓迎モードだったのにオレはそうじゃなかったもんな。オレだけは歓迎してないと思って、だから機嫌を損ねないように気を遣っていたんだ。
オレはといえば何も考えてなくて、イヤな思いをさせられてるのにも気づいてやれなくて、そのせいで志保に辛い思いをさせちまってた。女の子にそんな想いをさせて、父さんが知ったら「全然守ってねえじゃねえか!」とか言われて殴られるかもしれないって思ったよ。
「悪かったな、気がつかなくて。でも心配すんなよ。オレはオマエをイジメたりなんかしねえから。もし何かあっても、これからはオレがオマエを守ってやる。父さんとの約束だしな。だからさ、これからは困ったことがあったらすぐオレに言えよな」
そう言うと、ずっと俯きがちだった志保がゆっくりと顔を上げた。それまで不安そうにしていた大きな瞳がオレをまっすぐに見つめてたよ。その瞳に茜色の空が映り込んでいるのが見えた。もう夕方だったから西日が伸びて、オレたちの影がアスファルトの上で長く長く伸びてひとつになってた。どこかの家から夕飯の匂いがしてたっけ。
やがて志保の唇の端が綻ぶようにふわりと持ち上がって、まるで蕾から花が咲くみたいだなって思った。それは初めて見る志保の心からの笑顔だったんだ。その顔を見て胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じて、オレはなんだか照れくさくなって 空を見上げたんだよな。やけに綺麗な空だったっけ。そういえばあの時、なんでだろう、すごく気分が良かったのをハッキリ覚えてるな。あぁ、良かったなぁってさ。
たぶんその時からかな。父さんに言われたからじゃなくて、俺が俺自身の意思で志保を守ってやらなきゃって思ったのは。
それから志保は、少しずつだけどオレへの接し方を変えていったんだ。よく喋りよく笑うようになったし、呼び方も最初「川島くん」だったのがいつの間にか「良樹くん」になり、気がついたら「よしくん」になってた。あれ? そういえば俺も最初は「槙原!」って呼んでたのに、今は普通に「志保!」って呼んでるな。いつからだっけ?
ま、まあ、とにかくそんなわけでオレはいつも志保の横に居たし、志保も常にオレと一緒に居た。もうそれは当たり前の風景になってた。アイツに陰口叩くようなヤツは誰だろうとオレが許さなかった。そしてそれは中学生になってからも変わることはなかったし、これからもずっと変わることはないと思うんだ。
次章は二人の日常です