23話 8月30日 転移魔法とハエ
転移魔法 怖!!
八月二十九日。
俺と聖女は、カイの工房の地下に、至聖女リンフォンが無断で設置した転移魔法陣の前に立っていた。これからガリアでの新生活が始まるというのに、俺の心は期待よりも不安で満ちていた。 異世界に来て初めて体験する、転移魔法。その言葉の響きは、どうしたって生前の、あるホラー映画を思い出させる。転送装置に紛れ込んだ一匹のハエと、人間の遺伝子が融合し、徐々に異形の怪物へと変貌していく・・・・・・。 まさかとは思うが、この魔法陣に虫一匹でも紛れ込んでいたら? 俺の不安をよそに、聖女がにこやかに言った。
「転移魔法の中で眠らない方が、面白いものが見れるわよ」
その言葉を信じるべきか迷っているうちに、足元の魔法陣が眩い光を放ち始めた。俺は、ハエ人間になる恐怖と戦いながら、必死に眠気に耐える。 光に包まれたと思った瞬間、それはただの目くらましだったと気づいた。光はプロジェクターの投射光のように俺たちの体をすり抜け、気づけば俺たちは、プールのウォータースライダーを彷彿とさせる、丸いドーム型の滑り台の上にいた。なすがままに滑り落ちると、直径二メートルほどの半透明なチューブの中に到着する。すぐさま背後の扉が閉まり、一瞬の暗闇の後、体がふわりと浮遊する感覚。次の瞬間、チューブそのものが、リニアモーターカーのように滑らかに、しかし猛烈な勢いで加速を始めた。
しばらくの加速と、それに続く減速。体感で四~五分だっただろうか。やがてチューブが完全に停止すると、今度は足元の床が開き、再び滑り台でどこかへ滑り落ちていく。上か下か、方向感覚がめちゃくちゃになった直後、いきなりまばゆい光に満ちた部屋に放り出された。その光が、徐々に弱まりながら足元の魔法陣の形に収束していくのを見て、俺はようやく確信する。 これは、データを分解して送るような危険な代物じゃない。物理的に人間を運ぶ、超高速なだけの、安全設計の乗り物だ。ハエになる心配は、どうやらなさそうだ。
◇◆◇
翌日、八月三十日。 ガリアに用意された住居で目を覚ました俺は、生前からの習慣で「もう月末か」と思ったが、すぐにこの世界の暦を思い出した。まだ、今月は六日も残っている。 異世界の一年は四百三十日。一ヶ月が三十六日の月もあれば、三十七日の月もあるという変則的な暦だが、転生者たちが持ち込んだ「十二ヶ月制」と「一週間=七日制」という概念は、今ではすっかり定着していた。これまで休まずダラダラと働いていたこの世界の人々にとっても、週末という休みの概念は画期的だったらしく、そこから派生した産業も増えたためか、皆がごく自然に受け入れている。
そんなことを考えていると、改めてこの家の広さに気づかされた。四人で住むには、あまりに巨大すぎる。昨日、聖女に案内されたこの豪邸は、一体誰の所有物なんだ? 俺がそんな疑問を抱きながらリビングでくつろいでいると、夕方、定時で仕事を終えたらしい一人の女性が、玄関から入ってきた。 先日、俺たちを襲撃し、そしてなぜか日本の朝食を振る舞っていった、あの暗殺部隊の女隊長だった。 ネオン、至聖女リンフォン、聖女カオリの三人は、もう彼女と顔なじみになっているらしく、ごく自然に「お帰りなさい」と出迎えている。 シャワーを終えたのだろうか、ラフな部屋着姿の女隊長が、少し緊張した面持ちで、聖女二人が準備した夕食の味見をしている。一口食べると、彼女は満足そうに親指を立ててグッドサインをした。この人、相手が聖女や至聖女だと知っているはずなのに、滅茶苦茶自然に仲がいい。
そうして始まった、奇妙な五人での夕食。 その席で、俺は、ある確信にたどり着いた。目の前で談笑する彼女は、見慣れない若く美しい容姿をしている。だが、ふとした相槌の打ち方、笑った時の目の細め方、その全てが、俺の記憶の奥底にいる、たった一人の人物と重なった。
「・・・・・・母さん」
俺の口から、無意識にその言葉が漏れた。 すると、彼女は悪戯が成功した子供のように、くすくすと笑いながら、聞き慣れた声で話し始めた。
「ヴィレムの町の家さ、どう? あれ、私が老後にゆっくり住むために建てたんだけど、この体、なかなか老いないし、勿体ないから貸し出してたのよ。そしたら、ネオンが転生してきて、住み始めてさ。あんたは、それに気づいてたの? それとも、ただの偶然?」
間違いない。この人は、俺の母親だ。
「バベルコアに行くっていうから、邪魔しちゃいけないと思って黙ってたら、今度はバベルコアがぶっ壊れるし。あれ、もう歴史の教科書に載るらしいわよ。『神の逆鱗』だって。来年から、七月七日は、神への謝罪と平和を祈る日、とかに決まったから」
その言葉に、至聖女リンフォンとネオンが、テーブルに頭を擦り付けんばかりの勢いで「「ごめんなさい」」と謝罪する。
「いいのいいの。でもねえ」 母さんはそう言うと、俺の方を指さした。 「年上なんだから、ヨウがしっかりしないといけないのにね。元はと言えば、こいつが悪いのよ」
「でもねえ」と、彼女は続ける。「お二人さんが、あの香ちゃんと李ちゃんだったなんて、本当にびっくりしたわ」 生前の、佐藤香と李凜風を知る彼女だからこそ、その驚きは本物だろう。 その後、夕食の席は、さながら作戦会議の場となった。母さん(秋月京子)は、特殊な護衛任務に就くため、途中から秘匿のために単独行動だったこと。ファウンダーには既に話をつけてあり、明日から、自分が正式に俺たちの護衛任務にあたること。そして、リンフォンが至聖女だということは、ファウンダー含め絶対に誰にも言ってはならないこと。 重要事項の打ち合わせが済んだあと、母、京子はネオンに向き直り、強く言った。
「私のことは、必ず『キョウコ』と呼びなさい。いいわね、ネオン『おばあちゃん』も禁止。わかった?」
ネオンが、こくこくと力強く頷く。
最後に、俺がずっと疑問に思っていた容姿について尋ねると、彼女は「昔好きだった宝〇の女優さんの姿よ」と、あっけらかんと答えた。
全ての謎が解け、すっきりとした。
同時に、この奇妙で、けれど温かい家族との平和な時間が、ネオンたちが卒業するまでの間だけでも続けばいいなと、柄にもなく、そう思った。
普通の日常=幸せです




