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16話 7月20日 帰郷と予期せぬ再会

暗殺部隊の女隊長が再び

「神の逆鱗」と呼ばれたあの日から、一週間が過ぎた。


そして今日、俺たちはようやく、日常へと帰る時を迎えたのだ。

出発の朝、バベルコアの巨大な門の前は、ちょっとした騒ぎになっていた。


「聖女様、至聖女様、どうか我々をお見捨てにならないでください!」

「この地を離れず、我らをお導きください!」


エルフや妖精といった、聖女に仕える者たちが、香と李の足元にすがりつき、涙ながらに旅立ちを止めようとしている。

彼女たちにとって、世界の根幹を支える聖女様と至聖女様が、同時にこの地を離れるというのは、天地がひっくり返るほどの一大事なのだろう。


「大丈夫よ、必ず戻ってきますから」


香は、困ったように、しかし優しく微笑み、一人一人をなだめている。

その様子を、少し離れた場所から、聖女の側近が寂しげな、複雑な表情で見つめていた。

特に、俺に向けられたその視線には、言葉にできない想いが滲んでいるように見えた。


やがて、香は説得を終え、俺たちと共に門をくぐる。

俺たちは、名残を惜しむように手を振り、再び旅路へとついた。


◇◆◇


クロー・ナ・レイの城門前で、俺は旅を共にした無口な友人に、別れを告げていた。


「黒騎士、今回は色々と助かった。また何かあったら、頼む」


「・・・・・・ああ」


仮面の奥で、黒騎士が短く頷く。

彼は、クロー・ナ・レイで、領主である闇貴族と今後のことについて話があると言い、「闇貴族が起きるまで、まだ時間があるな」と言い残し、別れの挨拶を終えた。

本当の理由は、「馬車の定員が四人だから」という、なんともしまらないものだったが。


「ネオン、また・・・・・・」


「はい! 黒騎士さんも、お元気で!」


弟の元気な声に、黒騎士が仮面の奥で、わずかに笑ったような気がした。


◇◆◇


ヴィレムの町への帰路は、聖女(香)が馬車に重力低減の魔法をかけたため、驚くほど速く、乗り心地も良かった。三日ほどで到着する予定だ。

そして、行きとは比べ物にならないほど、馬車の中は賑やかだった。

聖女と、至聖女。世界の根幹を支える二人の聖女が、今はただの「香」と「李」として、俺の馬車に乗っている。

この非日常が、これからの俺たちの日常になる。そう思うと、俺は頭が痛くなるのを禁じ得なかった。


二日目の早朝。出発してから一時間ほど経過した、その時だった。


「「止まって」」


聖女(香)と至聖女(李)が、同時に、そして静かにそう告げた。

俺にはまったくわからなかったが、二人は外に異様な気配を感じ取ったらしい。流石だ。

俺が馬車を止めると、二人は音もなく外に降り立った。


道の少し先、朝日を浴びながら、暗殺部隊の女隊長が、深く頭を下げて俺たちを待っていた。

その手には、なぜかまた、ピクニックで使うようなバスケットが握られている。

俺たちが近づくと、女隊長は顔を上げ、丁寧に問いかけてきた。


「朝食は、お済みでしょうか」


彼女はそう言いながら、バスケットを開ける。

中から現れたのは、またしても森の中では想像もつかない、完璧な日本の朝食だった。

鮭のような見事な赤身の魚を焼いたもの。茶色い納豆に似た、粘り気のある豆。そして、一粒一粒が輝く白米。

さらに、ポットのような魔法瓶を開けると、そこからは豆腐とワカメの味噌汁の、たまらない香りが立ち上った。半端ない。

おまけに、豆腐の上には、黒いゼリー状の不思議な食べ物までちりばめられている。

多分現世ではそれを腐った卵として、俺も食べたことがある。確か名前はピータン豆腐だ。

それを見た瞬間、至聖女(李)が「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。もしかすると、彼女のソウルフードだったのかもしれない。


だが、生憎(あいにく)なことに、俺たちは先ほど朝食を済ませたばかりだった。

申し訳ないが、どう断ったものかと思案していると、俺の思考を無視するように、目の前の聖女二人が動き出した。

二人は、無言でバスケットの前に座ると、二度目の朝食を、それはそれは美味そうに食べ始めたのだ。


俺とネオンは、流石に朝から二食も入らず、早々にギブアップ。

それは、本来ならこの二人も同じはずだ。太るぞ、と心の中で呟いた瞬間、俺は信じられないものを見た。

彼女たちの胸が、ふわりと、しかし明らかに膨らんだのだ。

そして、聖女(香)が、勝ち誇ったような笑みでこちらを見る。

まるでお腹は膨らまずに、胸だけが大きくなるのだと、そうアピールしているかのようだ。

何から何まで規格外だ。

多分、普段はしたないからと自制しているんだろう。だが今は、身内だけのこのメンツと、目の前のソウルフードに、リミッターを解除したに違いなかった。


やがて、綺麗に完食すると、二人は行儀よく手を合わせ、声を揃えて言った。


「「ごちそうさまでした」」


その行為に微笑む暗殺部隊長の女は、懐から一通の書状のようなものを取り出し、深く頭を下げながら、聖女(香)に差し出した。

何かを感じ取ったのか、聖女(香)は「ありがたく頂戴します」と言って、その手紙を恭しく受け取った。


そして、女は再び深く頭を下げると、俺たちが馬車で走り出すまでその場で見送り、やがて消えた。


「・・・・・・消えたな」


しばらくして、俺がぽつりと言うと、聖女(香)が「ううん」と首を横に振った。


「まだ、あそこにいるわよ」


彼女が指をさす先には、何もない。だが、彼女が馬車の窓に魔力を流し込むと、先ほどまで女がいた場所に、その姿がうっすらと浮かび上がった。


「おお、なんだこれ」


俺が騒ぐと、聖女(香)が説明してくれた。


「魔力で周囲の磁場を相殺すると、気配や目で認識できなくなるの。かなりの使い手ね。人でありながら、あそこまで魔力を精密にコントロールできるとは。彼女、ある意味、人外だわ」


すると、手紙を読んでいた至聖女(李)が、納得したように顔を上げた。


「香さんと料理の研究をして百年以上経つけど、なるほど、あの懐かしい味は、こういう材料を、こんな風にアレンジして作るのですね」


どうやら、あの手紙には、さっきの朝食のレシピが書いてあったらしい。


「あの人は、ある意味最強です」


至聖女(李)が、真顔でそう断言した。

会うのはこれで四度目だが、あの女隊長は、どこまでも意味不明で、人外じみた存在だった。


◇◆◇


ヴィレムの町が見えてきた頃、聖女(香)がぽつりと呟いた。


「ねえ、ヨウ。あなたの記憶が戻って、本当に良かった」


「・・・・・・ああ」


「これで、昔みたいに・・・・・・」


そう言いかけて、香は口をつぐんだ。


◇◆◇


馬車がヴィレムの町に近づくにつれ、懐かしい森の匂いが流れ込んでくる。

俺たちの小屋は、旅立つ前と何も変わらない姿で、そこに佇んでいた。


「着いたぞ」


俺がそう言った、次の瞬間だった。


「「誰?」」


馬車の中の空気が、一瞬で氷点下まで下がる。

聖女(香)と至聖女(李)の二人が、同時に殺気を帯びた声を放ったのだ。

小屋の中に、誰かの気配を感じ取ったらしい。


俺は慌てて小屋の中を覗き込むと、そこには、予想だにしなかった人物がいた。 元受付嬢で元世話係だった女だ。

彼女は俺たちの存在にまだ気づかず、せっせと床を磨いている。


「ネオンの元世話係だ! 留守の間、気を利かせて勝手に掃除をやってくれてるだけだ!」


俺が素早く説明すると、二人の殺気が、すうっと霧が晴れるように消えていった。


危ねえ……。

無実の罪で、いつか俺はとんでもないダメージを負うかもしれん。今のうちに清廉潔白を貫いておこう。俺は固く心に誓った。


馬車が小屋の前に止まったただならぬ気配に気づいたのか、元世話係が小屋からおそるおそる顔を出した。


「あ・・・・・・」


彼女は、俺たちの姿を認めると、手にしていたデッキブラシを落としそうになりながら、慌てて頭を下げた。


「お、お帰りなさいませ、勇者様! それに、ネオン様も・・・・・・」


彼女の視線は、俺の後ろから降りてきた二人の女性の姿に釘付けになっていた。

神々しいまでの美しさを放つ、聖女(香)と至聖女(李)。

その二人が、ごく自然に俺の隣に立ったのを見て、世話係の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。


「そのお姿……もしかして、聖女様……? では、その奥の、更なる高貴なオーラを放つお方は……まさか、二十年前の文献にだけその降臨記録が記されている……」

彼女の目は、信じられないものを見るように高速で俺たちを往復し、精神を安定させるためか、何事かをぶつぶつと詠唱しながら、今にも倒れそうにふらついていた。


「いや、違うんだ。こいつらは、その・・・・・・」


俺がしどろもどろに弁解しようとした、その時だった。


「初めまして。わたくし、この地を統べる聖女。そして、近々この方――勇者ヨウ様と婚約させていただくことになりました」


聖女(香)が、慈愛に満ちた、しかし一切の隙もない完璧な淑女の笑みを浮かべて、そう言い放った。


「なっ!?」「せ、聖女様が、ご婚約!?」


俺と世話係の、驚愕の声がハモる。

だが、追い打ちはそれだけでは終わらない。

至聖女(李)が一歩前に出ると、圧倒的なオーラを放ちながら、冷たく言い放った。


「そして、わたくしは至聖女。この世界の管理者であり――ネオンの、唯一の伴侶です。以後、お見知りおきを」


その場の空気が、完全に凍結した。

聖女と至聖女、世界の頂点に立つ二人が、同時に、核爆弾級の宣言をしやがった。


「あ……あ……」


世話係は、もはや顔面蒼白というレベルを超え、魂が口から抜け出そうな顔をしている。そのまま、糸が切れたように気絶した。

俺は、頭を抱えながら、この最悪の状況をどう収拾すべきか、必死で考えを巡らせる。


これが、俺たちの新たな日常の、波乱に満ちた幕開けだった。

聖女の勝利

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