15話 世界の中心で(ヨウ視点)
(ヨウ視点)
「・・・・・・香」
俺の口から、絞り出すように漏れた名。
その瞬間、目の前の聖女――香の肩が、びくりと震えた。
「・・・・・・呼び捨て?」
彼女は、それまでの神々しいまでの穏やかさを消し去り、少し潤んだ瞳で、拗ねたように俺を睨みつけた。
「二十年よ。二十年も、私を待たせておいて・・・・・・よくもまあ、そんなに馴れ馴れしく呼べるわね」
その、あまりに人間味のある、そして懐かしい物言いに、俺は咄嗟に言葉を失う。
「あ、いや、すまん・・・・・・その・・・・・・」
動揺しながら謝る俺を見て、香はぷいとそっぽを向く。だが、その口元は、かすかに綻んでいた。
やがて、彼女はこらえきれないといった様子で、くすくすと笑い声を漏らした。
「ふふ・・・・・・本当に、馬鹿なんだから」
その笑顔は、聖女のものではなかった。
俺が知る、俺がずっと忘れていた、幼馴染の香の笑顔だった。
俺はゆっくりと立ち上がると、無言で彼女の華奢な体を抱きしめた。
香も、何も言わずに、その身を俺に預けてくる。
しばらく、お互いの存在を確かめ合うように、時が止まっていた。
◇◆◇
やがて、香はそっと俺の胸を押し返し、涙の滲む目元を指で拭った。
そして、ハッとしたようにネオンに向き直り、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、念音君。取り乱してしまって・・・・・・」
「い、いえ、そんな!」
恐縮して後ずさる弟に、香は優しく微笑みかける。
そして、俺たちの前に改めて座り直すと、真剣な表情で語り始めた。
「今日、あなたたちがここに来た理由・・・・・・。そのフィギュアのことね」
ネオンは、こくりと頷き、おずおずと例のフィギュアをテーブルの上に置いた。
香は、そのフィギュアを悲しそうな目で見つめ、静かに沈黙した。
やがて、彼女はぽつりぽつりと、二十年前に起きた出来事を語り始めた。
「二十年前、あなたが転生してきた日・・・・・・。私は、本当にがっかりしたのよ、ヨウ」
「・・・・・・」
「あなたの記憶が、綺麗に失われていたこと。そして、その場に、私が一番会わせたかったはずの、念音君がいなかったこと」
その言葉に、ネオンが息を呑んだ。
「そのせいで、あの子は心を閉ざしてしまった。そして、『門』を、内側から固く閉じてしまったの」
「門? なんだ、それは」
俺が尋ねると、香は天を仰ぐように、遥か上を見つめた。
「このバベルコアの中心にある、天界へと繋がる、唯一の転移装置よ。あの子は、そこに引きこもってしまった。おそらく、今は天界にいるわ。私たちには、もう連絡を取る手段もない」
天界。
初めて聞くその概念に、俺は言葉を失う。
神や天使でも住んでいるのか?
そんな俺の疑問を察したかのように、香は続けた。
「あの子・・・・・・ネオン君が探している、フィギュアの少女の正体。それはね、至聖女。聖女の、さらに上位に立つ、この世界の本当の管理者なのよ」
その言葉に、俺だけでなく、ネオンも、そして今まで微動だにしなかった黒騎士ですら、驚愕に目を見開いていた。
ネオンは、フィギュアの人物を、自分が知る誰か――例えば、李さんや、あるいは別の誰かの生まれ変わりなのではないかと、そう妄想していたのかもしれない。
だが、その正体が、この世界の神にも等しい存在だったとは、予想もしていなかっただろう。
しかし。
弟は、異世界に来てから手に入れた「勇気」を、その胸に宿していた。
「行きます」
ネオンは、まっすぐに聖女を見つめ、はっきりとした口調で言った。
「僕、その人に会いたいです。バベルコアの中心に、行かせてください」
その瞳には、かつての弱気な少年の面影は、どこにもなかった。
◇◆◇
聖女に案内され、俺たちはバベルコアの中心部へと向かった。
そこは、吹き抜けと呼ぶにはあまりに巨大な、山の渓谷の谷底を思わせる空間だった。
見上げれば、まさに絵画で見た「バベルの塔」そのもの。螺旋を描くように、どこまでも天へと道が続いている。
俺たちがこれまで歩いてきたのは、この巨大な塔の外壁部分に過ぎなかったのだ。
そして、その空間の中心に、それはあった。
異世界らしからぬ、金属光沢を放つ、巨大な円形のチューブ。
天を貫き、どこまでも、どこまでも、真っ直ぐに伸びている。
その光景を見た瞬間、俺の脳裏に、現世の知識が稲妻のように閃いた。
軌道エレベーター。
ナノカーボンファイバーチューブ。
そうだ、これは、そういう類のものだ。
次の瞬間だった。
俺の思考に呼応するように、その空間を満たしていた何かが、激しく反応した。
部屋を飾っていたオブジェクト――無数の魔石が、一斉にまばゆい光を放ち始めたのだ。
空気が、悲鳴を上げた。
音のない振動が、足元から内臓を直接揺さぶる。肌を粟立たせるような、強烈な違和感。
俺は、これから起きるであろう災いを、直感的に理解した。
バベルコアの管制室から、悲鳴のような報告が香の元へ思念で届く。
軌道エレベーター上部で異常が発生。通信が、次々と途絶していく。
上空を見上げると、空に一本の、純白の光の筋が現れていた。
それが、恐ろしいほどの速度で、一直線に地上へと向かってくる。
軌道エレベーターの頂上部が、音もなく崩壊し、光の粒子となって砕け散っていくのが見えた。
バベルコアの内壁を光で染めた瞬間、
着弾・・・・・・・。
ただ、ゴポッ、と空間そのものが歪むような、異質な衝撃波が広範囲を襲う。
眼前の建築物や、浮島の地形が、粘土のようにぐにゃりと変形し、崩壊していく。
スローモーションで見せられる地獄絵図だった。
バベルコアの管理者たちが防御結界を張る中、俺は香を、黒騎士は弟を、それぞれ守るようにして衝撃に備えたまま。
世界が、真っ白に染まる。
しばらくして届いた轟音は、あの光の柱が音速を超えていたことを実感させた。
やがて、白い煙がゆっくりと晴れていく。
着弾地の中心に、青白い光の柱が立ち上っていた。
その光の中心には、静かに佇む、人型の神聖な影。
至聖女が、そこにいた。
彼女の体から放たれる青白いオーラが、嵐のように空間を支配し、沈静化させていく。
その神々しいまでの圧力に、黒騎士ですら、数歩後ずさっていた。
至聖女は、興奮した様子で、まっすぐにネオンの前に立つ。
押されながらも、ネオンは何かを、必死に至聖女の目を見て訴えている。
遅れてやってきた轟音に、その声はかき消されて聞こえない。
至聖女が、一瞬、逃げるように後ずさる。
それを逃すまいと、ネオンが後ろから彼女を強く抱きしめた。
それは、あまりに感動的なシーンだった。
だが、そんな感傷を許さぬように、世界はまだ壊れ続けている。
「ヨウ!」
俺の手を、香が強く握ってきた。
彼女は、目の前で起きている奇跡に、純粋に感動している。彼女らしい。
だがしかし、悪夢は終わらない。
崩落した軌道エレベーターの金属残骸が、今度は灼熱の隕石となって、大気圏を突入し始めていた。
「総員、第一級戦闘態勢! バベルコア全域に最大レベルの防御結界を展開せよ!」
香の部下たちの、切迫した念話が飛び交う。
だが、その直後だった。
事態を把握した至聖女が、天を仰ぎ、何か強大な魔法を唱えた。
地表への被害は、最小限に抑えられた。
しかし、天空まで届いていたバベルコアは、無残にも破壊され、かつての栄華を物語る絵画のような姿に変わり果てていた。
歴史が、書き換えられてしまった。
7月7日、バベルコアの変貌。
後に「神の逆鱗」として歴史のページに刻まれることになる、この最悪な事件の真相は、他言無用だった。
神の逆鱗に触れた世界の行方はいかに?




