14話 世界の中心で(ネオン視点)
(ネオン視点)
バベルコア
天を貫くその塔は、空の青に溶けるでもなく、ただそこにあるという事実だけで、世界の法則を書き換えているかのようだった。
塔の内部は、外見からは想像もつかないほど静寂に包まれていた。
どこまでも続くかのような回廊を歩きながら、僕は生前のことを考えていた。
◇◆◇
僕の兄さんは、天才だった。
ビットコインという言葉が生まれる数年前、世界に先駆けて日本でネット通貨を開発した。
だが、時代が兄さんに追いついていなかった。
彼の発明は「偽札」と扱われ、国家反逆罪という重すぎる罪で、兄さんは刑務所に入った。
僕が生まれたのは、兄さんが出所してからのこと。
父が外に作った女から生まれた、不必要な子供。
それが、僕だった。
そんな僕を育ててくれたのは、兄さんの母であるおばあちゃんと、近所に住んでいた兄さんの幼馴染、佐藤香姉さんだけだった。
初めの頃は、何も知らずに幸せだったと思う。
でも、小学生の時、僕は原因不明の病で倒れ、一年以上も入院することになった。
それが、僕の暗黒時代の始まりだった。
一年遅れで退院して学校に戻ると、兄さんが「前科持ち」であるという噂が、いつの間にかクラス中に広まっていた。
いじめ、陰口、無視。
それだけじゃない。僕の数少ない宝物だった、香姉さんの娘である幼馴染と、二人の親友にも裏切られた。
僕は心を閉ざし、引きこもった。
そんな絶望から一年後。静かな田舎町で、僕は一人の少女と出会った。
転校生の、李凜風さん。
初めて会った時、彼女がどことなく香姉さんに似ている気がして、親近感を覚えた。
彼女自身も、とてもオープンな子で、僕の閉ざした心に、太陽の光を注ぎ込むように、ぐいぐいと入ってきた。
僕は、どんどん彼女に惹かれていった。
彼女は、僕に遅れてやってきた幸せと、たくさんの友達を運んできてくれた。
歌うことが好きな彼女のために、彼女が大切にしていた異国のファン100人に向けた、ファングッズの制作や、ショート動画の撮影を手伝った。
すべてが、順調だと思っていた。
そんな時だった。兄さんの親友だったカイさんが、僕に言ったんだ。
「彼女のファンは100人だけじゃない。SNSで1000万人以上のフォロワーを持つ、世界の歌姫なんだ。お前の自己満足で、彼女の世界を小さくするな」と。
僕は、彼女が心の傷を癒すために日本に来たこと、そして、その傷が癒えた今、世界に羽ばたくべき時間を、僕が奪っているんじゃないかと悩んだ。
そんな時だった。
彼女から、たどたどしい日本語で、愛の告白を受けた。
でも、どんなやり取りをしたのか、よく覚えていない。言葉の壁があったのかもしれない。ただ、僕たちは喧嘩別れしてしまった。
その夜は、眠れなかった。
たくさんのことを考えた。深夜、最後に見た時計の針が、2時を指していた記憶だけが残っている。
外が白み始め、朝が来たと思った。まずは謝ろう。そう決心して目を開けた時――目の前にいたのは、森の木々と、数人の大人たち、そして魔女を連想させる女性。
そこは、異世界だった。
◇◆◇
異世界での一日は、戸惑いの連続だった。
最初の世話係をしてくれた眼鏡の女性は、親切だったけど、どこか僕を裏切った元クラスの委員長に似ていて、ずっと気まずかった。
案内された小屋は、昨日まで住んでいたはずの、日本の家と全く同じ間取りで、転生したという実感が、薄かった。
二日目の夜。小屋の前に、兄さんがいた。
そこからは、驚くことの連続だった。
兄さんが、この世界では「勇者様」として尊敬されていると知ったとき、僕は驚いた以上に、心の底から嬉しかった。
現世で、世間から嫌われ、孤独だった兄さんが、この世界では英雄として認められている。
その事実が、僕の心の奥底を揺さぶった。
贈り物が届き始めた。
それは、死んだ僕への、彼女からのプレゼントだった。
僕が大切にしていた物ばかりが届く。
その事実に、僕は彼女の気持ちに応えたい、そのために強くなりたいと、そう思ったんだ。
だから、僕は動けた。
予備校で、理不尽な暴力に晒されていた二世の少女を、助けることができた。
だから、僕は諦めなかった。
学ぶことも、強くなることも。ダメでも、もう一度立ち上がればいいと、そう思えた。
最後の水曜日。僕が一番大切にしていたフィギュアと、兄さんの記憶を頼りに、僕はここに来ることを誓った。
「前人未到」だと予備校で教えられた場所に、前世で見たことがあるような、無いような、不思議な親子が住んでいた。
「百聞は一見に如かず」という言葉が、頭に浮かんだ。
そして、僕は今、次の「一見」を見るための、大きな扉の前に立っていた。
◇◆◇
大きな門の前に立つと、妖精ともエルフともつかない、美しい種族たちが、鋭い眼光で僕らを睨みつけながら、ゆっくりと扉を開けた。
両側には、多種多様な武装した種族が並び、その奥に、純白のドレスを身に纏った、息を呑むほど美しい女性がいた。
この人が、このバベルコアを統べる聖女様。
その神々しいまでの佇まいに、僕は圧倒される。
「ようこそ、お待ちしておりました」
聖女様が、穏やかに微笑む。
フィギュアの少女によく似ている。でも、違う。
フィギュアが硝子細工のような儚い美しさだとすれば、目の前の女性は、すべてを包み込む大地のような、温かい美しさを持っていた。
種類の違う、絶対的な美しさだ。
その時、周りがざわめいた。
「聖女様が、自らお出迎えを・・・・・・?」
「あれは、黒騎士様と勇者様・・・・・・?」
「あの子供は一体・・・・・・?」
ざわめきの中、聖女様が手のひらを向け、周りに静まるよう合図をすると、一瞬で静寂が訪れる。
護衛を付けなくても良いのかと食い下がる兵士を止め、聖女様は、僕たちを内部の別室へと案内してくれた。
通されたのは、大きな窓から光が差し込む静かな一室。
聖女様は、自らの手で、僕たちのためにテーブルにお茶と果物を準備し始めた。
促されるままに席に着いた僕の目の前に、透き通るような、でもどこか懐かしい香りのするお茶が、そっと置かれる。
そのお茶の淹れ方、カップを置くときの、ほんのわずかな指の仕草。
不思議だった。姿形はまったく違うのに、ふとした仕草が、記憶の奥底に眠っている誰かの姿を思い出させる。
「長旅、お疲れでしょう。甘いものでもいかがですか?」
そう言って、彼女は果物ナイフを手に取り、りんごのような果実の皮を剥き始めた。
シャリ、シャリ、と小気味よい音が響く。
三人の皿にそれぞれ並べられた、兎の形をしたそれに、僕は感心し、ふと顔を上げて聖女様の方を見ると、目が合った。
そして、彼女は悪戯っぽく、片目をつぶって微笑んだ。
その瞬間、僕の心臓が、大きく跳ねた。そうだ。子供の頃、僕の面倒を見てくれていた、近所の・・・・・・。
「・・・・・・聖女様」
声が、震える。
彼女は、そんな僕の様子を、ただ慈愛に満ちた瞳で見つめている。
何かを、確かめたい。でも、もし違ったら・・・・・・。
恐怖と期待が、胸の中で渦巻く。
僕は、意を決して、震える声で問いかけた。
「あの・・・・・・失礼、ですけど・・・・・・もしかして、佐藤、香姉さん、ですか・・・・・・?」
その、ありえないはずの問いかけ。
だが、聖女様――香姉さんは、驚くでもなく、ただ、懐かしい響きで、ゆっくりと僕の名前を呼んだ。
「・・・・・・まあ、私のことがわかるの? 久しぶりね、念音君」
次の瞬間。
隣に座っていた兄さんの体が、びくりと大きく震えるのがわかった。
聖女様も僕も、黒騎士も、それに驚き、兄さんを凝視する。
彼の肩が、ガタガタと音を立てそうなほど激しく震えている。
厚い壁に閉ざされていた兄の記憶の扉が、音を立ててこじ開けられるような、そんな感覚を覚える。
そして、兄さんの口から、絞り出すような、かすれた声が漏れた。
「・・・・・・香」
兄さんの中の佐藤香が目覚めます




