侍村井の怪獣退治
「鮟鱇だ、食ってくれ」
男は俺の土産の昆布締めの鮟鱇に手をつけた。まだ早かろう、と言う男だが、獲れたものは仕方がない、食わねば魚に悪いだろうと押しつける。身分はただの貧乏侍、食うに困る程度の男。断ることはないだろうと思っていたが、食うことには疑問を持たなかったようだ。こいつが飯をたかる程度の男なら、俺も用事はないのだが。
「雷獣を斬ったらしいな」
鮟鱇を口に運んだ村井という男の手が、寸の間止まった。ただの噂か?と聞けば、取り逃がしたという。いずれまた悪さをするようなら俺の恥だ、とまた鮟鱇を食う。酒を勧めたが、気分が悪いと断られた。
この男には、化け物殺しの噂がついて回る。村井某という侍が斬ったのは、物の怪とも妖ともつかぬ、鵺と呼ぶのも憚られる異形。それを斬ったのは、皆この男だという。下らぬ話が出回っているものだ、と村井は機嫌を崩した。まるで獣相手に辻斬りをしているよう、相手が人であろうと斬ればいいなどとは思っていない。だが、斬ったことがないのかと聞けば、答えはしなかった。俺は聞いてみた。作り話で構わぬ、聞かせてくれぬか、と。村井は、箸の先につまんだ鮟鱇を見つめた。
村井は、海辺の町で生まれた。伊豆の町は海がよく見える。磯には、奇妙な姿の生き物がいくらでもいた。海月のような、海星のような、亀のような。どこかの町には、兜のような姿の蟹がいる、と聞いたことがあるという。美味くはないそうだ。だが、そんなことで驚いていては、やっていられない。もっと奇妙な物を、見ることがあるという。
伊豆の町に現れた、一人の男。時の天下人を、陰で支えたという妙な触れ込みで町にやってきた。次の天下を取る男を、探しているという。この男がいるとお上に知られれば葵の御紋が黙っていない。あまりにも恐ろしく、あまりにも異様で、誰もその男を、止めることはなかったという。
「くだらぬ男だった」
あんな者の相手は、童で十分だ。村井はその男を、童より情けない庄屋の店から追い出し、二度と招かぬよう釘を刺した。その晩、村井は妙なものを見たという。身の丈、六尺半ほどだろうか。おそらくは男が呼びつけた、仕舞いなのであろう、と思ったのだそうだ。
目が赤い。肌も。そこここに黒い斑をつけた姿はまるで天道虫、あるいは……。名も知らぬ虫を思い出しながら、鯉口に手をかける。男が庄屋に吹き込んだ、夜の闇のように黒い、仕舞い。その異形は、醜く肥え太った姿を弾ませて、村井に向かってきた。飼い主と変わらず、くだらぬ者だ。村井は剣を抜いた。尾を切り落とし返す刀で角を落とした。にらみつけると悲鳴を上げて異形は逃げていき、空を飛んだか地に潜ったか、姿は見えなくなった。
……信じるか?そう聞かれれば、信じるとは言えなかった。あまりにも滑稽、茶を濁したのだろう。語らぬ程度ならばもうこの男に用はない。雷獣殺しなど噂に過ぎないのだ。ときに、と村井は土間の向こうを見た。お前の連れであろう、と誰かを指している。連れなど誰も来てはいない、何かの間違いだ。そう言ってやっても、最初からいたではないか、と当たり前のように言う。何奴か、姿を見せろ。そう言ってこちらが戸を開けておいて、動けないとは思わなかった。
目の前にいる、人。人なのだろうか。真緑の蛙のようなそれと目が合い、刀にかけた手が動かず鯉口も切れない。蛙のような何かが、鉈を振り上げたが体が動かなかった。見えている。怖いわけではない。斬られるのもわかる。動けなかった。
突然何かが、俺の真横を疾風のように通り過ぎた。剣を抜いた村井が、踏み込んだのだ。緑色の何かは、素首を切り落とされて泡と消えていった。磯には妙な生き物がいる。驚いていては、生きておれん。そう語る村井に、鳥肌が立った。緑色の何かは、なんだったのかと村井に聞いた。
「くだらぬものだ」
それ以上村井は、何も答えなかった。
もちろん悪ふざけである。