晩夏の海にさようなら
当時、航太は、自分のの将来に何が起こるかなど想像すらしていなかった三流大学の工学部の学生だった。勉強もせずただ楽しいことを追い求める毎日を送っていた。とは言っても、何も考えていなかった訳でも無い。将来への甘い希望や憧れは持っていた。政治や社会への不満や不安を抱き、飲み屋で政治や社会に対する大人の論争に加わる程度の知識は持っていた。見た目がカッコいいスポーツなどは何でも飛び込んだ。人並みに好みの異性に恋心も抱いた。惚れっぽいのか、電車で偶然乗り合わせただけの女の子に対しても話くらいはできないものかと真剣に試行錯誤した。要約すれば、単なるミーハーである。そんな航太にも、当時の多くの若者が憧れていたサーフィンに出会った。
航太が初めてサーフィンをやったのは、大学2年の初夏であった。一応工学部であるので週に一度の実験の授業があった。実験の授業の後にはその実験に関するレポートを提出しなければならなかった。基本は一人で実験レポートをまとめるのだが、実験内容が複雑な時など、遊びを兼ねて実験グループ内の何人かと集まり、レポートを共同作成することがしばしばあった。その実験レポートの提出期日の前日、実験グループの一人、東戸塚に住む栗山の家に三人の仲間が集まって、徹夜覚悟で実験レポートの共同作成に取り組んだ。深夜3時を過ぎる頃、お決まりのように眠くなる奴が出てくる。一人でも眠くなると雰囲気は一気にだれる。しょせん三流大学の工学部の学生である。当初の計画通りにレポート作成が進むわけがない。雰囲気が一度崩れてしまえば、もうレポートの完成を望むことは出来ない。
「このデータ、間違ってないか?」
「おまえの計算が間違ってんだよ」
「おまえ、寝ないで早くそのデータまとめろよ!」
「寝てないよ、ただ、ちょっと目を瞑っていると気持ちいいんだ」
「バカ、だから、寝ちまうんだよ!」
というような会話が飛び交うだけで、いっこうに作業は進展しない。そして毎回のように繰り返されるパターンに突入する。誰かが「外が明るくなってきたぞ!」とご丁寧に夜明けを知らせるセリフを部屋中に轟かせる。そのセリフに反応し、誰かが、
「間に合うのか?」と、
他人事のように、誰に言うわけでもなく問い掛ける。
「かったるいな、こんな事やっているの。サーフィンでも行きたいな」ともう一人がつぶやく。
「そうだな、レポートは、次の実験レポートと一緒に来週2通出せばいいじゃん。サーフィンにでも行こう。」と誰かが具体的な案を提示する。誰もその案に明確に賛否を示していないのに、早速、サーフィンに行く身支度が始まる。この手の決断力と行動力だけはズバ抜けているのだ。『この能力を少しでも他の面で活かせれば、別の人生が開けていくかもしれない。』と、航太は月並みの感想が浮かんだ。
当時、「熱中時代-刑事編」というテレビ・ドラマで、水谷 豊がスバル360を乗ったことで、スバル360がリバイバル・ヒットしていた。栗山は、この流行に乗ってスバル360のボロボロのバンの中古車を購入した。スバル360は、この時期の十年以上前に生産中止になっており、しかもバンの生産量は少なく、スバル360のバンはの稀少車種になっていた。栗山が購入した黄色いスバル360のバンは、塗装の一部が剥げ落ち、ウィンドを固定するゴム枠はひび割れボロボロの状態だったが、エンジンは何とか走れる状態に整備されていた。栗山の計画では、全塗装し、廃品工場等から部品を買い集め、新車に近い状態まで整備するはずだったが、金銭の工面や部品調達が想定していた以上に困難であったことから、この数年後に計画を断念し車を売り払ってしまった。何はともあれ、そのオンボロスバル360のバンにサーフボード2枚を積み込み男三人が乗り込んだ。車内は半端ではない狭さである。航太は後部座席に居場所を取ったが、降りるまで顔を動かすことができず、乗っている間中見えるものはサーフボードしかなかった。もちろん車にはカーステレオなど付いていないので、ラジカセを積み込んだ。テープカセットを挿入したラジカセのテープレコーダーから流れるカラパナの音楽が車内を響き渡り、車は夜明けの横浜新道を藤沢バイパスに向けて走り出す。藤沢バイパスから南に折れ辻堂の海浜公園の駐車場に車を止めた。海浜公園の駐車場から国道134号線の下を抜けるアンダーパスから浜に出る。この134号線の下を抜けるアンダーパスから浜に出る時、航太は、米国映画の「ビッグ・ウェンズデー」でジャン・マイケル・ビンセントらが朽ち果てた階段から浜に降りるシーンを連想し、カリフィルニア・サーファー気分だった。波は腰の高さである。初心者には程よい波の高さである。身長178センチの航太は、自称身長173センチの栗山のウェットスーツを借りたが、大リーグボール養成ギブスをはめたような締め付け感である。歩くだけでもかなりの筋力を使う。そんな状態にもめげず航太はサーフボードを持って海に入りパドリングで沖に出ようとした。波に押しも戻されてなかなか沖に出ることができない。仕方なく、ボードを引張っり波が割れない程度の沖まで歩いて行き、そこからパドリングで更に沖に出ることにした。なんとか沖に出た航太は、皆んなのようにボードに跨って座り波待ちしようと試みた。航太は簡単に座れるものとたかをくくっていたが、ボードに座ることは容易なことではない。座ろうとボードに手をかけ体を持ち上げようとすると航太の体の重みでボードが傾きバランスが崩れ海に落ちてしまう。そんなことを何度も繰り返したが、その度に海に落ちる。何ともブザマな姿である。何度か繰り返したあと、ボードに座ることは諦め、ボードの上に寝そべって波を待つことにした。手ごろな波が来た。波に乗り立ってしまった。ビギナーズ・ラックのようなものである。波の上に立ってその波を滑り落ちる感覚は、陸の上の生活では想像出来い感覚であった。しかし、この日は、そのあと二度と波に乗ることは出来なかった。やがて大リーグボール養成ギブスと化したウェットスーツが、想像以上に筋力を疲労させた。
航太の大学時代はお金がなかった。その一つ、いや二つの要因は、航太が運転免許を取得した1ヶ月後、友達のセリカを運転しカーブを曲がりきれず木をなぎ倒し、セリカ大破させてしまった。その数ヶ月後には、栗山の家族が所有する廃車寸前のスカイラインを運転しその車をスピンさせて修理工場に突っ込み、箱スカ廃車にしてしまった。この2件の事故に要した費用が重くのし掛かり、大学生の航太を貧困へと追い込んだ。どんなに貧困だったかというと、航太が社会人になってからも、「お前は偉かったよな、金が無いとコンパに来なかったもんな」と言われることからも想像が出来ると思う。健全な男子大学生がコンパの誘いを断るということが、如何に苦渋の決断だったことか。このような金欠ゆえに、東京都内に住む航太には車がなかったので、航太にとって海は遠い憧れの地であった。その後、社会人となり車を購入するまで、サーフィンは数える程しかできなかった。
航太は、働き始めると直に車とサーフボード、それにウェットスーツを購入した。その時から、大学時代の友人の三郎と春から秋に掛けてそのほとんどの土曜の夜を海の近くの駐車場に車を止め車中で過した。辻堂、花水川、酒匂川、伊豆白浜、上総一ノ宮、御宿、その日の気分と海の状態で東京近郊の浜に出かけた。朝、車の中で目覚めて海に出ると海面が鏡のように穏やかな時もしばしばあった。波の無い時の過ごし方は、場所に応じて様々であった。湘南で目覚めた時は、航太の勤め先が法人会員になっていた横浜のテニス・クラブでテニスをした後、渋谷辺りに飲みに行った。伊豆の白浜で目覚めた時は、目的をナンパに切り替え海水浴に従事した。従って、伊豆の白浜へ行くのは必然的に7月と8月の上旬に限定された。外房では、第二の過ごし方は選択できなかった。
航太が経験したスポーツの中でサーフィンは最も上達しなかったスポーツである。初心者の域を脱することが出来なかった。海にはスキー場のように初心者コースが無い。決まった日にしか海に出ることができないサンデー・サーファーが初心者用の波に遭遇することは極めて希であり、技量に応じたゲレンデで練習することはできなかった。更に加えて悪いことに、初心者から上級者までなれるような波は、その海に漂う全てのサーファーから狙われる。波は最初に乗った人に優先権があるのが暗黙の同意事項である。初心者が波に乗ろうと必死にパトリングをしていると、いち早く波に乗っている中・上級者のサーファーから「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」と初心者を制する声が掛けられる。初心者である航太はその波へのトライを断念せざるを得ず、またパトリングして沖に戻る。このように殆どパトリングの練習で一日が終ることもしばしば。また、サーフィンは体力、特に筋力を必要とするスポーツである。沖に出る時、20センチ程度の白波であればボードの先端を手で押さえ波をやり過す。30センチ程度の白波は、腕立て伏せの要領でボードから体を浮かし、波をやり過す。そして、40センチ以上の白波は、ボードを水中に押し込むと同時に自分の体も水中に沈め波の下をくぐり抜ける。この白波越えに多くの筋力を消耗するのである。この白波越えを失敗するとボードもろとも仰向けにひっくり返され浜に向かって押し戻されてしまう。このような白波障害物パトリング競走を行い、やっと波待ちのステージに立てるわけである。この白波地獄に耐えられなくなった時、その時サーフィンから身を引く時である。
そして、引退の時がやって来た。初めてのサーフィンの切っ掛けを作った栗山は、働き始めて間もなくアメリカへ駐在員として赴任していった。社会人になった後サーフィン生活を共に楽しんだ三郎は、実家のタイヤ屋を継ぐべく新潟へ帰郷した。航太は、一人でサーフィンへ行くことが多くなり、その回数も減っていった。28才の初秋のある日曜日、台風が過ぎ去った翌日のことだった。台風は東京をかすめて三陸沖へ抜けた。東京を直撃しなかったため、「台風一過の晴天」というような天気ではなく、流れの早い雲が空を覆っていた。他にやることも無いので、ボードを持って海に行くことにした。道は空いていた。目黒の自宅から辻堂まで1時間も掛からなかった。海に出ると2メートル前後の波が断続的に押し寄せ、波の一端から徐々に割れるサーフィンにうってつけの波が立っていた。人はまばらだった。2メートルの大波に乗れることを祈って白波地獄へと向かった。何度も何度も押し寄せる白波を乗り越え、やっとのことで波が崩れない沖まで出ることが出来た。腕は棒のようになっていた。サーフィンをしている時「腕の筋肉と足の筋肉が入れ替わらないものか」とよく思ったものである。航太は『腕の筋力が復活するまで、少し休もう』と考えた。ボードに座り沖を見ると、絶好の波がやってきた。『休もう』と考えていたのにその波を見た瞬間波に向かってパトリングを始めていた。波の動きにタイミングを合わせてパトリングを止め再びボードに座りボードの先端を浜に向けた。ボードと共に体は波に引き寄せられ、水面が徐々に傾斜していく。そして、ちょうど波の中腹に差し掛かった時、ボードをテールに向かってちょっと押し込み、ボードがその反動で飛び出すところを掴まえてボードの上に腹ばいになる。二三回パトリングをした後、腰のあたりでボードを掴みドルフィン・キックを一発食らわす。その瞬間、今まで波に吸い込まれていたボードが「コツン」というような感触と共に押し出され、波の斜面を滑り始めた。「乗った!」。2メートル以上はある大波に初めて乗った瞬間である。難なく立ち上がり、緩やかに左にカーブをきりながら波の麓に向かって滑っていった。体全体に風を感じた。ボードは水の抵抗で小刻みに振動した。頭の中では、ハワイで5メートルの大波に乗るゲリー・ロペスの映像が映し出されていた。何かワザでも試してみたかったのだが、こんな大波に乗って転んではもったいないと思った。サーフィンで転ぶことを、ワイプ・アウトを言うのだが、そんな言葉に相応しいカッコイイ転び方も期待できなかったので、ただひたすらボードを真っ直ぐに滑らせた。2メートルの大波はやがて50センチ程度の白波に変り、十数秒のライディングは終った。頭の中では、ゲリー・ロペスが次の波を求めて沖に向かいパドリングを始めていた。航太は頭の中の映像を真似るように、ボードの先端を沖に向け、再び沖に向かった。腕の筋肉の疲れは大波に乗ったという感激ですっかり忘れていた。幾つかの白波を乗り越えると大きな白波が襲ってきた。体をボードから浮かせ腕に体重を乗せてボードを沈み込ませようとした瞬間、「あっ!ボードが沈まない!」。ボードの先端が持ち上がり、航太の体は仰向けに投出され、波にもまれた。やっと姿勢を整えて立ち上がり、パワー・コード(ボードと足を繋いだ流れ止めの紐)を手繰り寄せ、また沖に向かう。また、幾つかの小さな白波を越えると大きな白波が襲ってきた。また同じことの繰り返しである。こんな事を何度か繰り返された後、ふと振り向くと浜は直近くにあった。「一度休んでから出直そう」と思い浜に上がった。20分ほど休んだ。近くには、サーファーの彼氏に連れられてきたと思われる女の子が一人で海を見ていた。一人で休んでいると時間が経つのが妙に遅い。未だ腕の筋肉は回復していないように思えたが、再び海に出た。白波地獄を抜け出すことは出来なかった。この日を最後に、航太は波に乗ることはなかった。
航太は、酒の席等で、「俺が昔サーファーだった頃…」と冗談ぽく話しをするのが好きであった。「サーファー」という言葉に何か特別な響きを感じるのは、航太だけではないと思う。航太にとってのサーフィンは単なる遊びだった。高校の3年間という短い期間、真剣に甲子園を目指しているような高校球児などに比べれば非常に軽い経験だと思う。けれど、その時、その瞬間、或いは特定の期間しか経験できないことを行ったという思い出は、それが単なる遊びであろうと、人生の自己満足を彩ることができる。航太が更に年をとった頃、航太の自慢話は、「わしがサーファーじゃった頃、湘南海岸に大きな波がやってっきてのぉ」「その波はゆうに5メートルはあった、いや、もっと大きかったかもしれん」「そして、わしは…」…。




