晩夏の海にさようなら
これは30歳代後半の時、遊び半分で執筆したものを小説風に書き直したものである。
60歳代後半に脳梗塞になり、その後遺症で左半身が不自由になって普段の行動ができなくなった時、実質的に俺はもう死んだも同然だと思った。生き残ったのは、私財を整理するための時間を与えられたように思えた。病気発症までに営んでいた趣味は全てできなくなっていたので、それらの趣味に関わる道具は全て処分した。日記帳や手紙など、死後に家族に読まれたくないと思うものは全て捨てた。パソコンに残されているものは、死後に表に出てきてしまっても、それほど気になるようなものはなかったので大幅な整理は行わなかった。
世間では『日常の普通のことに幸せを感じなさい』とよく言われる。この小説は、このごく普通の出来事、すなわち大恋愛も失恋もしない、事件も起こらないし、人が死ぬこともない、偉人が登場することもない、ごく普通の人のごく普通の日常を小説風に書いてみることにした。多くの人に読んでもらいたいという野心もなく、ただ思いのままに書いた日記のようなものなので、読む人に価値を与えることなどないと思う。自分としては今は障害者になってしまったが、こんなに生き生きした時代もあったのかとの回顧のような気持ちで筆を走らせた(キーを叩いた)ようなもの。何かを訴える気持ちはないのですが、『こんな人もいるのか』という程度のものでよければ、時間つぶしにでも活用してもらえれば幸いです。
当時、航太は、自分のの将来に何が起こるかなど想像すらしていなかった三流大学の工学部の学生だった。勉強もせずただ楽しいことを追い求める毎日を送っていた。とは言っても、何も考えていなかった訳でも無い。将来への甘い希望や憧れは持っていた。政治や社会への不満や不安を抱き、飲み屋で政治や社会に対する大人の論争に加わる程度の知識は持っていた。見た目がカッコいいスポーツなどは何でも飛び込んだ。人並みに好みの異性に恋心も抱いた。惚れっぽいのか、電車で偶然乗り合わせただけの女の子に対しても話くらいはできないものかと真剣に試行錯誤した。要約すれば、単なるミーハーである。そんな航太にも、当時の多くの若者が憧れていたサーフィンに出会った。
航太が初めてサーフィンをやったのは、大学2年の初夏であった。一応工学部であるので週に一度の実験の授業があった。実験の授業の後にはその実験に関するレポートを提出しなければならなかった。基本は一人で実験レポートをまとめるのだが、実験内容が複雑な時など、遊びを兼ねて実験グループ内の何人かと集まり、レポートを共同作成することがしばしばあった。その実験レポートの提出期日の前日、実験グループの一人、東戸塚に住む栗山の家に三人の仲間が集まって、徹夜覚悟で実験レポートの共同作成に取り組んだ。深夜3時を過ぎる頃、お決まりのように眠くなる奴が出てくる。一人でも眠くなると雰囲気は一気にだれる。しょせん三流大学の工学部の学生である。当初の計画通りにレポート作成が進むわけがない。雰囲気が一度崩れてしまえば、もうレポートの完成を望むことは出来ない。
「このデータ、間違ってないか?」
「おまえの計算が間違ってんだよ」
「おまえ、寝ないで早くそのデータまとめろよ!」
「寝てないよ、ただ、ちょっと目を瞑っていると気持ちいいんだ」
「バカ、だから、寝ちまうんだよ!」
というような会話が飛び交うだけで、いっこうに作業は進展しない。そして毎回のように繰り返されるパターンに突入する。誰かが「外が明るくなってきたぞ!」とご丁寧に夜明けを知らせるセリフを部屋中に轟かせる。そのセリフに反応し、誰かが、
「間に合うのか?」と、
他人事のように、誰に言うわけでもなく問い掛ける。
「かったるいな、こんな事やっているの。サーフィンでも行きたいな」ともう一人がつぶやく。
「そうだな、レポートは、次の実験レポートと一緒に来週2通出せばいいじゃん。サーフィンにでも行こう。」と誰かが具体的な案を提示する。誰もその案に明確に賛否を示していないのに、早速、サーフィンに行く身支度が始まる。この手の決断力と行動力だけはズバ抜けているのだ。『この能力を少しでも他の面で活かせれば、別の人生が開けていくかもしれない。』と、航太は月並みの感想が浮かんだ。
当時、「熱中時代-刑事編」というテレビ・ドラマで、水谷 豊がスバル360を乗ったことで、スバル360がリバイバル・ヒットしていた。航太の大学での友人の栗山は、この流行に乗ってスバル360のボロボロのバンの中古車を購入した。スバル360のバンは、このとき既に十年以上前に生産中止になった車であり生産量が少なかったため、稀少車種となっていた。栗山が購入した黄色いスバル360のバンは、塗装の一部が剥げ落ち、ウィンドを固定するゴム枠にはひび割れ入り、ボロボロの状態だった。なんとかエンジンだけは、走行可能な状態に整備されていた。栗山の計画では、全塗装し、廃品工場等から部品を買い集め、新車に近い状態まで整備するはずだった。だが、金銭の工面や部品調達が想定していた以上に困難であったことから、数年後にこの計画を断念し車を売り払ってしまった。何はともあれ、そのオンボロスバル360のバンにサーフボード2枚を積み込み男三人が乗り込んだ。車内の狭さは半端ではない。航太は後部座席に居場所を取ったが、車を降りるまで顔すら動かすことができず、乗っている間中見えるものはサーフボードしかなかった。もちろん車にはカーステレオなど付いていない。ラジカセを積み込んで。テープカセットを挿入した。ラジカセから流れるカラパナの音楽は車内を響き渡り、車は夜明けの横浜新道を藤沢バイパスに向けて走り出した。藤沢バイパスを抜けた後、車は南に折れ辻堂の海浜公園の駐車場に入った。海浜公園の駐車場から国道134号線の下を抜けるアンダーパスを抜けて海岸に出る。この134号線の下を抜けるアンダーパスから海岸に出る時、航太は、米国映画の「ビッグ・ウェンズデー」でジャン・マイケル・ビンセントらが朽ち果てた階段から浜に降りるシーンを思い出していた。航太の頭は、すっかりカリフィルニア・サーファー気分に浸っていた。
波は腰の高さである。初心者には程よい波の高さである。身長178センチの航太は、自称、身長173センチの栗山のウェットスーツを借りた。このウェットスーツが、航太に大リーグボール養成ギブスとしても作用していた。歩くだけでもかなりの筋力を必要とする。そんな苦難にもめげず航太はサーフボードを持って海に入り、パドリングで沖に出ようと試みた。しかし、波に押しも戻されてなかなか沖に出ることができない。仕方なく、ボードを引張っり波が割れていない沖まで歩いて行くことにした。そこから更にパドリングをし、なんとか他のサーファーが波待ちをしている沖合に出ることができた。そこで航太は、たのサーファーがさりげなく行っているようにボードに跨って座り波待ちしようと試みた。航太は簡単に座れるものと思っていが、ボードに座ることは容易なことではなかった。座ろうとボードに手をかけ体を持ち上げようとすると、体の重みでボードが傾きバランスを崩して海に落ちる。そんなことを何度も繰り返し、その度に海に落ちる。何ともブザマな姿である。何度か繰り返したあと、ボードに座ることを諦め、ボードの上に寝そべって波を待つことにした。『なんとカッコわるい姿なんだ』と思いながら、『俺は初心者なんだから当然だ』と自分に言い聞かせるように心で呟いた。沖を見ていると、手ごろな波が向かって来た。ボードの抜きを陸地に向け、必死にパドリングすると、突然、波に押されて可読した。波に乗った。しかも立てた。ビギナーズ・ラックである。波を滑り落ちるボードの上に立った感覚は、陸の上の生活では決して想像出来い感覚であった。しかし、この日は、二度と波に乗ることは出来なかった。ウェットスーツの大リーグボール養成ギブス効果が発揮され、想像以上に航太の筋肉を疲労させていた。
航太の大学時代はお金がなかった。その一つ、いや二つの要因は、航太が運転免許を取得した1ヶ月後、友達のセリカを運転し、カーブを曲がりきれず道路脇に植えられていた木をなぎ倒してしまった、セリカは大破である。その数ヶ月後、栗山の家族が所有する廃車寸前のスカイラインを運転し、その車をスピンさせて修理工場に突っ込んでしまった。スカイラインは、廃車である。この2件の事故に要した費用が重くのし掛かり、大学生の航太は貧困へと追い込まれた。いかに貧困だったかというと、後に「お前は偉かったよな、金が無いとコンパに来なかったもんな」と言われていたことからも想像が出来ると思う。健全な男子大学生がコンパの誘いを断るということが、如何に苦渋の決断であったことか。このような金欠故に、東京都内に住む航太には車がなかった。なので、大学時代の航太にとっては、海は滅多に行くことができない遠い憧れの地であった。そんなこんなで、大学時代の航太は数える程しかサーフィンをしていない。
航太は、働き始めると直に車とサーフボード、それにウェットスーツを購入した。その後は、大学時代の友人の三郎と春から秋に掛けての土曜の夜を、海の近くの駐車場で車中で過した。辻堂、花水川、酒匂川、伊豆白浜、上総一ノ宮、御宿、その日の気分と天候の状況で東京近郊の海に出かけた。朝、車の中で目を覚し海に出ると海面が鏡のように穏やかな時もあった。波の無い時のバックアップ・プランは場所に応じて様々であった。湘南で目覚めたひ日は、航太の勤め先が法人会員になっている横浜のテニス・クラブでテニスをした後、渋谷辺りに飲みに出かけた。伊豆の白浜で目覚めた日は、目的をナンパに切り替え海水浴に従事した。従って、伊豆の白浜へ行くのは必然的に7月と8月の上旬が多かった。外房では、バックアップ・プランはなかった。
航太が経験したスポーツの中でサーフィンは最も上達しなかったスポーツの一つである。初心者の域を脱することが出来なかった。海にはスキー場のように初心者コースが無い。決まった日にしか海に出ることができないサンデー・サーファーが初心者用の波に遭遇することは極めて希である。技量に応じたゲレンデで練習することは望めなかった。更に加えて悪いことに、初心者から上級者までなれるような波は、その海に漂う全てのサーファーから狙われる。波は最初に乗った人に優先権があるのが暗黙の同意事項である。初心者が波に乗ろうと必死にパトリングをしていると、いち早く中・上級者が波に乗る。その中・上級者から「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」と初心者を制する声が掛けられる。初心者である航太は、その波へのトライを断念せざるを得ず、またパトリングして沖に向かう。このようなことに繰り返しで、一日中パトリングの練習で終ることもしばしばである。また、サーフィンは体力、特に腕の筋力を必要とするスポーツである。沖に出る時、沖から押し寄せる波が20センチ程度の白波になる所では、ボードの先端をどちらか一方の手で押さえ波をやり過す。30センチ程度の白波になっている所では、腕立て伏せの要領でボードから体を浮かし、ボードと体の隙間に波をやり過す。そして、40センチ以上の白波が立つ所では、ボードを水中に押し込むと同時に自分の体も水中に沈め波の下をくぐり抜ける。この白波越えに腕の筋力の多くを費やすのである。この白波越えを失敗するとボードもろとも仰向けにひっくり返され、浜に向かって押し戻される。このような白波障害物パトリング競走を繰り返し、やっと波待ちのステージに立ったときは、腕の筋肉ににかなりのダメージが加わっている。腕の筋力が衰え、この白波地獄に耐えられなくなった時、その時がサーフィンから身を引く時とさとる。
そのさとりの時がやって来た。初めてのサーフィンの切っ掛けを作った栗山は、働き始めて間もなくアメリカへ駐在員として赴任していった。社会人になった後、サーフィン生活を共に楽しんだ三郎は、実家のタイヤ屋を継ぐべく新潟へ帰郷した。航太は、一人でサーフィンへ行くことが多くなり、その回数も減っていった。28才の初秋のある日曜日、台風が過ぎ去った翌日のことだった。台風は東京をかすめて三陸沖へ抜けた。東京を直撃しなかったため、「台風一過の晴天」というような天気にはならず、早く流れる雲が空を覆っていた。航太は、他にやることも無いのでボードを持って海に行くことにした。道は空いていた。目黒の自宅から辻堂まで1時間ほどで着いた。海に出ると2メートル前後の波が断続的に押し寄せていた。波は、その一端から徐々に割れるサーフィンにうってつけの波だった。海岸は、人はまばらだった。航太は、2メートルの大波に乗れることを祈って白波地獄へと向かった。何度も何度も押し寄せる白波を乗り越え、やっとのことで波が崩れない沖まで出ることが出来た。腕は棒のようになっていた。サーフィンをしている時『腕の筋肉と足の筋肉が入れ替わらないものか』とよく思ったものである。航太が『腕の筋力が復活するまで、少し休もう』と考えた途端、沖を見ると絶好の波がやってきた。『休もう』と考えていたのにその波を見た瞬間、波に向かってパトリングを始めていた。波の動きにタイミングを合わせてパトリングを止め、ボードに座りボードの先端を空中に浮かせて浜に向けた。ボードと共に体は波に引き寄せられた。水面が徐々に傾斜し、ちょうど波の中腹に差し掛かった時、空中に浮いているボードの先端を手で掴み、ボードのテールを水中に向かってちょっと押し込んだ。ボードがその反動で空中に飛び出すところを捉えてボードの上に腹ばいになる。二三回パトリングをした後、腰のあたりでボードを掴みドルフィン・キックを一発食らわす。その瞬間、今まで波に吸い込まれていたボードが『コツン』というような感触と共に押し出され、波の斜面を滑り降り始めた。「乗った!」。2メートル以上はある大波に初めて乗った瞬間である。難なく立ち上がり、緩やかに左にカーブをきりながら波の麓に沿って滑っていった。体全体に風を感じた。ボードは水の抵抗で小刻みに振動した。頭の中では、ハワイで5メートルの大波に乗るゲリー・ロペスの映像が映し出されていた。何かワザでも試してみたかったのだが、こんな大波に乗って転んではもったいないと思った。サーフィンで転ぶことを、ワイプ・アウトを言うのだが、そんな言葉に相応しいカッコイイ転び方も期待できなかったので、ただひたすらボードを真っ直ぐに滑らせた。2メートルの大波はやがて50センチ程度の白波に変り、十数秒のライディングは終った。頭の中では、ゲリー・ロペスが次の波を求めて沖に向かいパドリングを始めていた。航太は頭の中の映像を真似るように、ボードの先端を沖に向け、再び沖に向かった。腕の筋肉の疲れは大波に乗ったという感激ですっかり忘れていた。幾つかの白波を乗り越えると大きな白波が襲ってきた。体をボードから浮かせようと、腕に体重を乗せてボードを沈み込ませようとした瞬間、『あっ!ボードが沈まない!』。ボードの先端が波で持ち上がり、航太の体は仰向けにひっくり返され、波にもまれた。やっとのことで姿勢を整えて立ち上がり、パワー・コード(ボードと足を繋いだ流れ止めの紐)を手繰り寄せた。また沖に向かい、再チャレンジが始まった。幾つかの小さな白波を越えると大きな白波が襲ってきた。同じことの繰り返しである。こんな事を何度か繰り返した後、ふと振り向くと浜は直近くにあった。『一度休んでから出直そう』と思い浜に上がった。20分ほど休んでいだ。近くには、サーファーの彼氏に連れられてきたと思われる女の子が一人で海を見ていた。一人で休んでいると時間が経つのが遅い。未だ腕の筋肉は回復していないように思えたが、再び海に出た。二度と白波地獄を抜け出すことは出来なかった。この日を最後に、航太は波に乗ることはなかった。




