サーファー、、、だった頃
当時、まだ自分の将来に何が起こるかなど想像すらしていなかった、三流大学の工学部の学生だった。勉強もせず、ただ楽しいことを追い求める日々を送っていた。とは言っても、何も考えていなかった訳でも無い。将来への甘い希望や憧れは持っていた。不安もあった。加えて、政治や社会への不満も抱き、論争に加わる程度の知識は持っていた。また、好みの異性に恋心も抱いた。惚れっぽいのか、例えば、電車に偶然乗り合わせただけの女の子に対しても本気で恋心を抱いた。なんとか話くらいはできないものかと、真剣に考えた。また、見た目がカッコいいスポーツなどは何でも飛び込んだ。今思えば、バブル時代の予兆のようなものだったかもしれない。
サーフィンもその一つだった。初めてサーフィンをしたのは、大学2年生の初夏。大学の実験レポートの提出期日の前日である。大学の授業の実験は学校で実験を行い、自宅で実験レポートを作成し期日までに教授に提出することになっている。三流大学にも極少数いる頭の良い真面目な生徒にレポートを写すために見せて欲しいと頼んだがていよく断られた。そこで、仕方なく神奈川県在中の友人Kの家でレポートを作成することにした。同じ実験グループの仲間三人が集まり、徹夜覚悟で実験レポートの作成に取り組んだ。深夜3時を過ぎると必ず眠くなる奴が出てくる。一人でも眠くなると雰囲気は一気にだれる。当初の計画通りに事が進むことは稀である。このように一度だれてしまえば、もうレポートの完成を望むことは出来ない。
「このデータ、間違ってないか?」
「おまえの計算が間違ってんだよ!」
「おまえ、寝ないで早くそのデータまとめろよ!」
「寝てないよ、ただ、ちょっと目を瞑っていると気持ち良いんだ。」
「バカ、だから寝ちまうんだよ!」
というような取り留めも無い会話が飛び交うだけで、一向に作業は進まない。そしてお決まりのパターンだ。誰かが「外が明るくなってきたぞ」と夜明けを告げる。
「間に合うのか?」
他人事のように、誰かが誰にという訳にでもなく問い掛ける。
「かったるいな、こんな事やっているの。サーフィンでも行きたいな!」と他の一人が呟く。「そうだな、レポートは、次の実験レポートと一緒に来週2通出せばいいよ。」と一人が仕様もない具体案を提示する。全員が返す言葉を発することもなく瞬時にその提案に賛成したようだ。早速、サーフィンに行く身支度が始まる。この手の決断力と行動力だけはズバ抜けている。
当時、「熱中時代-刑事編」(1979年日本テレビ放映)というテレビ・ドラマで、水谷豊がスバル360を乗っていたのを切掛に、このスバル360がリバイバル・ヒットしていた。この神奈川県在中の友人Kは、この流行に乗ってスバル360のバンを購入した。スバル360は、この当時の既に十年以上前に生産中止になっていた車であり、中でもバンはかなりの稀少車種であった。彼が所有する黄色い360のバンは、塗装の一部が剥げ落ちウィンドを固定するゴム枠はひび割れていた。見るからにボロボロの状態の車だったが、エンジンは何とか走れる状態に整備されていた。彼の計画では、全塗装し、廃品工場等から部品を買い集め、新車に近い程度まで整備する予定だったが、金銭面及び部品調達が想像以上に困難であったことから、この数年後に計画を断念し売り払ってしまった。何はともあれ、そのオンボロスバル360バンにサーフボード2枚を積み込み、大学生の男三人が乗り込んだ。その狭さといったら半端ではない。後ろに乗ったら降りるまで顔も動かせず、乗っている間はサーフボードしか見えない。勿論カーステレオ等は付いていないので、ラジカセ(ラジオ・カセットテープデッキ)を積み込む。ラジカセから流れるカラパナを聞きながら、横浜新道から藤沢バイパスを抜け海を目指す。藤沢バイパスから国道1号線に入り。この1号線を左折して辻堂の海浜公園の駐車場に車を止めた。海浜公園の駐車場から徒歩で国道134号線の下のアンダーパスを抜けて浜に出る。この134号線の下のアンダーパスを抜け浜に出る時、映画「ビッグ・ウェンズデー」(1979年ワーナー・ブラザース配給)で朽ち果てた階段からジャン・マイケル・ビンセント達が浜に降りるシーンを連想させた。波は腰(腰の高さ)。初心者には程よい波の高さである。身長178センチの俺は、自称身長173センチの友人Kのウェットスーツを借りた。大リーグボール養成ギブス(原作:梶原一騎・作画:川崎のぼる「巨人の星」1976-1979年より)状態である。歩くだけでも全身の筋力をかなり疲労させる。「星飛雄馬はこんな辛い状態で毎日学校に通っていたのか」と思うと、そんな飛雄馬を見守っていた明子姉ちゃんが痛々しく思えた。パドリングで沖に出ようとしたが、波に押しも戻されなかなか沖に出ることができない。ここは背に腹は変えられない。カッコ悪いが、仕方なくボードを引っ張って波が割れない程度のところまで歩いて行き、そこからパドリングで沖に出ることにした。沖に出た後、ボードに座り波待ちしようと試みた。何でも一度は経験をしてみるものである。ボードに座ることができない。座ろうとするとバランスを崩し海に落ちる。何度挑戦しても海に落ちる。何ともブザマな格好である。何度かトライしたがボードに座ることはできず、結局、ボードの上に横たわって波を待つことにした。手ごろな波が来た。波に乗り、立ってしまった。ビギナーズ・ラックのようなものである。波の上に立ってその波を滑り落ちる感覚は、陸の上を歩いているころには想像すら出来なかった超越した感覚である。しかし、この日は、その後二度と波に乗ることは出来なかった。やがて、大リーグボール養成ギブスが想像以上に全身の筋力を疲労させていった。
大学時代は貧乏だった。運転免許を取得した1ヶ月後、別の友人のセリカを運転し、コーナーを曲ろきれずにコーナー正面の木をなぎ倒し、そのセリカは大破した。その数ヶ月後、神奈川県在中の友人Kの家族が所有する廃車寸前のスカイライン(箱スカと呼ばれていたモデル)で修理工場に突っ込みその箱スカは廃車となった。この二つの事故に要した費用が重くのし掛かり、大学生の俺を貧困へと追いやった。お金がなかったのでコンパに誘われてもコンパに行けなかった。後に社会人になったとき、当時の友人に「お前は偉かったよな、金が無いとコンパに来なかったもんな。」と言われたことがあった。「何が偉いんだか?」と思った。特に偉い訳ではなく選択の余地が無かっただけなのだ。健全な男子大学生がコンパの誘いを断るということが、如何に苦渋の決断だったかを理解できないのかと思った。こんな貧困である故、俺の大学時代には車がなかった。その当時は、サーフボードを電車に持ち込めなかったので、東京に住んでいた俺は、大学時代にサーフィンは数える程しかできなかった。
就職して直に念願の車とサーフボード、そしてウェットスーツを購入した。その時から、春から秋に掛けての季節は、そのほとんどの土曜の夜を海の近くの駐車場に車を止めその車の中で過した。辻堂、花水川、酒匂川、伊豆白浜、上総一ノ宮、御宿、その日の気分で東京近郊の浜に出かけて行った。朝、車の中で目を覚まし海に出ると、海が鏡のような時もしばしばあった。波の無い時の過ごし方は、海の場所に応じて様々である。湘南で目覚めた時は、俺の勤め先が法人会員になっていた横浜のテニス・クラブでテニスをした後、渋谷辺りに飲みに行った。伊豆の白浜で目覚めた時は、目的をナンパに切り替え海水浴に従事した。従って、伊豆の白浜へ行くのは、必然的に7月と8月の上旬に限定された。外房では、波がない時の第二の過ごし方はなかった。
俺が経験したスポーツの中でサーフィンは、最も上達しなかったスポーツである。初心者の域を脱することが出来なかった。海には、スキー場のように初心者コースや中・上級者コースなどと言うものが無いので、自分の技量に適したコースを選択できない。この手のスポーツは、コースの難易度を徐々に上げていくことにより上達する。しかし、サーフィンは海に出た時に出会う波に乗らなければならない。従って、サンデー・サーファーに上達を求めることは極めて困難である。決まった日にしか海に出ることができないサンデー・サーファーが初心者用の波に遭遇することは、極めて希だからだ。初心者でも、中・上級者用の波に乗ることをトライできる。しかし、その波は、初心者から上級者までその海に居るサーファー全てから狙われている。サーファーの暗黙のルールでは、波に最初にアプローチした人にその波に乗る優先権がある。初心者が波に乗ろうと必死にパトリングをしていると、既に中・上級者のサーファーが波にプローチしており、「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」と言いながら我ら初心者を制す。初心者は、その波へのトライを断念し、またパトリングして沖に戻る。殆どパトリングの練習で一日を終ることもある。また、サーフィンは体力、特に腕の筋力を必要とするスポーツである。体力の限界を理由に辞めたスポーツも、当時はサーフィンしかない。沖に出る時、20センチ程度の白波であればボードの先端を手で押さえ、波をやり過す。ボードは波の上を波をかき分け進んでゆく。30センチ程度の白波だと、腕立て伏せの要領でボードから体を浮かし、体とボードの間に波をやり過す。そして、40センチ以上の白波は、ボードを水中に押し込むと同時に自分の体も水中に沈め、波の下をくぐり抜ける。白波越えを失敗すると、ボードもろとも仰向けにひっくり返され、浜に向かって押し戻される。このような、白波障害物パトリング競走を行い、やっと波待ちのステージに立てるわけである。この白波地獄に耐えられなくなった時、その時が引退の時であった。
そして、引退の時がやって来た。神奈川在中の友人Kは、働き始めて間もなくLAへ駐在員として赴任して行った。他の友人も、仕事の関係や家業を継ぐなどの理由で東京を離れる者も多くなり、俺は一人でサーフィンへ行くことが多くなった。その回数も次第に減っていった。28才の初秋のある日曜日、台風が過ぎ去った翌日のことだった。台風は、東京をかすめて三陸沖へ抜けた。東京を直撃しなかったため、「台風一過の晴天」ではなく、流れの早い雲が空を覆っていた。他にやることも無かったので、サーフ・ボードを持って海に行くことにした。道は空いていた。東京の自宅から辻堂まで1時間も掛からなかった。海に出ると2メートル前後の波が断続的に押し寄せていた。波の端から徐々に割れるサーフィンにうってつけの波が立っていた。人はまばらだった。2メートルの大波に乗れることを祈って白波地獄へと向かっていった。何度も何度も押し寄せる白波を乗り越え、やっとのことで波が割れない所まで出ることが出来た。腕は棒のようになっていた。「足が棒」という表現が普通だが、サーフィンをしている時「腕の筋肉と足の筋肉が入れ替わらないものか」とよく思ったものである。「腕の筋力が復活するまで、少し休もう」と思いボードに座り沖を見ると絶好の波がやって来た。「休もう」と思っていたのにも拘わらず、その波に向かって沖へとパトリングを始めていた。波の動きにタイミングを合わせ、パトリングを止め再びボードに座りボードの先端を浜に向けた。ボードと共に体は波に引き寄せられ、水面が徐々に傾斜していく。そして、ちょうど波の中腹に差し掛かった時、ボードをテールに向かってちょっと押し込み、ボードがその反動で飛び出すところを掴まえてボードの上に腹ばいになる。二三回パトリングをした後、腰のあたりでボードを掴みドルフィン・キックを一発食らわす。その瞬間、今まで波に吸い込まれていたボードが「コツン」というような感触と共に押し出され、波の斜面を滑り始めた。「乗った!」。2メートル以上はある大波に初めて乗った瞬間である。この手の話は時が経つに連れて大きくなるものである。今は、波の高さは3メートルぐらいはあったのでは無いかと思っているが、控えめに「2メートル」と書いた。実際にはもっと小さかったのかもしれないが、記憶では明らかに自分の身長(178センチ)より高かった。難なく立ち上がり、緩やかに左にカーブをきりながら波の麓に向かって滑って行った。体全体に風を感じた。ボードは水の抵抗で小刻みに振動した。頭の中では、ハワイで5メートルの大波に乗るゲリー・ロペスの映像が映し出されていた。何か業でも試してみたかったのだが、こんな大波に乗って転んではもったいないと思った。サーフィンで転ぶことを、ワイプ・アウトを言うのだが、そんな言葉に相応しいカッコいい転び方も期待できなかったので、ただひたすらボードを真っ直ぐに滑らせた。2メートルの大波はやがて50センチ程度の白波に変り、十数秒のライディングは終った。頭の中では、ゲリー・ロペスが次の波を求めて沖に向かいパドリングを始めていた。私は頭の中の映像を真似るように、ボードの先端を沖に向け再び沖に向かった。腕の筋肉の疲れは、大波に乗ったという感激ですっかり忘れていた。幾つかの白波を乗り越えると大きな白波が襲ってきた。体をボードから浮かせ、腕に体重を乗せてボードを沈み込ませようとした瞬間、「あっ!ボードが沈まない!」。ボードの先端が持ち上がり、俺の体は仰向けに投出され波にもまれた。やっとことで姿勢を整えて立ち上がり、パワー・コード(ボードと足を繋いだ流れ止めの紐)を手繰り寄せまた沖に向かう。また、幾つかの小さな白波を越えると大きな白波が襲ってきた。また同じ事の繰り返しである。こんな事を何度か繰り返した後、ふと振り向くと浜は直近くにあった。「一度休んでから出直そう」と思い浜に上がった。20分ほど休んだ。近くには、サーファーの彼氏に連れられて来たと思われる女の子が一人で海を見ていた。一人で休んでいると時間が経つのが妙に遅い。未だ腕の筋肉は回復していないように思えたがまた海に出た。白波地獄を抜け出すことは出来なかった。 この日を最後にサーフィンに行くことを止めた
俺は、酒の席等で、「俺が昔サーファーだった頃…」と冗談ぽく話しをするのを好むような普通のサラリーマンになっていた。「サーファー」という言葉に何か特別な響きを感じると思っていたからだと思う。なんと50歳になった頃、仕事でハワイに行く機会があった。ホテルからワイキキ・ビーチを眺めていると、毎回同じような波が立つ場所があることに気が付いた。その波は、手頃な初心者用の波であった。「この波なら乗れるかもしれない」と思った。仕事の合間に時間が空いたので、早速、海に出掛けて行った。思いもよらず、憧れのハワイでのサーフィンである。浜に出てレンタルボード屋を探した。体験サーフィンスクールが客引きをしていたので、不本意であったが、結局、そのサーフィンスクールの体験レッスンを受講することにした。30年以上もブランクがあったので懸命な選択でもあった。与えられたのはロングボードであった。ロングボードは、想像以上に浮力があり、また波を掻き分ける推進力もあったので、楽に沖に出られた。30年ぶりに波に乗れた。夢は、思いもよらぬ形で実現するものだと思った。今は仕事や他の趣味などがあり改めてサーフィンを始めることは難しいが、将来、海の近くに住むことがあったら、またサーフィンを始めてみようと思った。この時は、自分の決意と努力のみで実現可能だと思っていた。