雨降り令嬢と夕暮れ令息
理不尽はいつも雨のように降り注ぎ、私の心の柔らかな部分を打った。
婚約者時代から不仲だった両親は、結婚しても変わることがなかった。
義務感のみで拵えた、わたくしという嫡子が産まれてから、父上はわたくしと母上を別邸に押し込み、自分は屋敷に愛人を連れ込んで楽しく暮らしていた。
母上はわたくしを完璧な娘にするのだと息巻いた。
あの男以上の功績をあげられる優れた娘でなければならない。
そうおっしゃって、物心ついた時にはもう家庭教師が山ほどついていた。
父上は教育に関してはお金を惜しむ人ではなかったから。
愛情の一切ないわたくしを養育し、跡継ぎにすることには特に不満がないようで、贅沢は出来ないけれど衣食住は担保されていて、学ぶことだけは潤沢に出来た。
けれど、勉学に励めとおっしゃる母上は、頭でっかちで可愛げのない娘だとわたくしをぶった。
この顔立ち、この色合いに父上を思い出しておられたのかもしれない。
でもそれはわたくしの責任じゃない。
けれど両親の責任でもない。
険悪な関係だと知りながら婚姻を強制した祖父母の世代に責任があるように思う。
せめて無難に付き合いが出来る関係に至れるようフォローするなり、白紙撤回して別の婚約を結ぶなり、出来ることはあったでしょうに。
尻拭いを孫娘に全て押し付けて自分たちは領地の別荘で優雅に暮らしているのだからいい気なものだ。
雨垂れにささくれて穴だらけの心のわたくしは、そんな風に考えていた。
使用人たちは母上の目がないところを狙って親切にしてくれる。
そうでなくても、ある時は母上に用事を思い出すよう促して、体罰を受けるわたくしから遠ざけてくれることもあった。
たとえ別邸へ押し込められても、愛人に正妻の座を乗っ取られていようと、母上は戸籍上は正妻なのだ。
奥向きのことに父上と同等の権利を持つ以上、目をつけられれば彼らは職を失う。
それを知っているから、わたくしも、無理をしてかばってほしいだなどと思わなかった。
そもそも、母上は癇癪を起こして体罰と称した暴力を振るいにくる時以外、わたくしに近付かないし認識しない。
だから基本的にわたくしはきちんと世話をされていたし、親切も受けていたのだ。
少なくとも、ぶたれて赤くなった頬を冷やすための濡れタオルを与えられない環境ではなかった。
けれど、実の母にぶたれ、実の父に放置されているという環境は、いつまでも厳しい雨の続く日々でしかなかった。
平和な日常という、伝聞や物語でしか知らないものを望んでも、わたくしに与えられるのはこんな現実だけ。
いつかきっと、わたくしも、同じようになるのだわ。
そんな風に、溜め込むものを抱えながら生きているうちに、わたくしは十三歳となり、母上はある冬の日に肺炎を拗らせて亡くなった。
かと言って屋敷に戻されるわけでもない。
わたくしは使用人に世話をされながら、ひとり別邸で勉学に打ち込む日々を送る。
父上の顔はもうほとんど記憶に残っていない。
最後に見かけたのはいつだったかもあやふやだ。
庭師のヨル爺の方が親密な関係だと思う。
ヨル爺は季節の花々が美しく咲いた時、特別に選んだ一本を捧げてくれる。
花瓶に生けた一本が枯れ落ちるより前に次の一本を見繕ってくれる、そんな紳士だ。
母上の亡くなった時には冬で花が少ないのに色とりどりの花を生けた花瓶を丸ごと持ってきて、
「お寂しいでしょう、せめてこれを」
と、心底心配そうに言ってくれた。
屋敷の使用人たちも大抵はわたくしを案じてくれている。
父上にわたくしの扱いについて進言したら別邸行きになった使用人もいる。
別邸の使用人をまとめる老いた侍女長もその一人で、母上はともかくわたくしは屋敷できちんと養育すべきだと訴えたところ、こちらでの勤務になったそう。
最近でも別邸に新たに来る使用人というのがいるから、屋敷での父上と愛人の暮らしというものは分かる。
どうも二人の間には子が産まれないそうで。
わたくしが産まれた後に父上が患ったという高熱の出る病が原因か、愛人の胎に問題があるのか、医者でもないわたくしには分からない。
ただ、跡継ぎという立場は脅かされないのだと安心は出来た。
そして十四歳になる寸前で、わたくしは密かに領地の祖父母に手紙を送った。
現状を伝え、十五歳になると同時に次代のオルガ家当主となりたい、と。
祖父母からの返事は、許可する、と、短く纏められていた。
手続きや処理はあちらで行うので、時が来たら屋敷に戻るだけで構わないそう。
父上がどういう処分を受けるのかは知らない。
知らなくて構わないと思う。
だって、わたくしの人生に元々いないも同然だった人だ。
そんな人にわたくしの今後を決めて欲しくないが為の先制行動。
父上はおそらく、ご自身が嫌だったことは思い出しすらせず、適当な男をわたくしの婿にしようと考えていただろう。
けれどそれを許すわけにはいかない。
この国では制度上、十五歳になったら婚約が解禁される。
前以て話し合うことは出来るし、口約束も出来なくはない。
ただしそれらに法的根拠は一切ない。
たとえ手紙でやり取りをしていたとしてもだ。
わたくしは、両親のような不幸な結婚だけはしない。
愛を知らないわたくしだから、夫を愛せるかどうかは不明。
だけれども、尊重することは多分できる。
尊重できる人間であれば、という注釈がつくけれど。
注釈の部分は自分自身で夫となる人を見定めて補えばよいだけ。
他には何も求めない。
オルガ家の運営は自分一人で出来る。
子だって、きちんとそういったことをしてくれれば産める。
夫になど、縋らない。依存しない。
誰にも何も期待しない。
わたくしはそうやって生きてきたし、今後もそうして生きていくのだ。
祖父母は手紙に書いていた通り、十五歳になった誕生日のその日に、当主の交代を貴族院に報告してくれた。
同時に、元当主となった父上と愛人を、自分たちの住まう別荘に引き取るために屈強な使用人や兵を差し向けてくれた。
それと同時に、叔母がしばらくの間家に居ることになった。
成人して間もないわたくしが不自由しないよう、補佐に回るのだそう。
結婚を敢えてせず、領地であちこち回って仕事をしているたという叔母は、お会いしたその場でわたくしをそっと抱きしめた。
叔母は全てを知っていたけれど、兄と険悪な関係だったが故にわたくしをどうすることも出来ずに歯噛みしていたのだそう。
嫌いな女の血が半分混じっているとはいえ、産まれた子は半分は自分の血なのに、と、涙声だった。
叔母から見たわたくしは、表情がないのだそう。
淑女の仮面として微笑むことは出来ているけれど、喜怒哀楽を感じないのだと。
そう言われても、わたくしの心にそんなものはない。
浮き沈みをしないよう生きてきたのだ。
心の柔らかな、そういったものを表すための部分は、長い雨に晒されて腐り落ちるかどうかしてしまったのだろうから。
思いやってくれることに感謝は出来ても、その行動を喜ぶということが出来ない。
改めて、わたくしは欠陥品でもあるのだな、と思った。
未来の夫にも、未来の子にも、愛を与えられはしないだろう。
そんなものはわたくしの中にないのだから、ないものは与えられない。
故に、わたくしにそれを芽生えさせようとする叔母の行動を煩わしく思った。
それでもお目付け役としてわざわざ来てくれたのだから、と、受け入れた。
しかも叔母はわたくしではまだ出来ない社交の術を持っていた。
十数年のブランクを感じさせずに茶会や夜会へ乗り込んでいき、情報を持ち帰ってくださる。
「オルガ家と釣り合う家で、婚約者がいない、適切な年頃の殿方は割といるようよ。
王太子殿下に見合うように子を生した家が多かったから」
「では、婚約者を募っていることを表明いたしますか」
「ええ。こちらは選ぶ側よ、リュシエンヌ、決して忘れてはいけないわ。あなたはあなたを大事にしてくれる夫を選ぶべきよ」
不可解だ、と思考が漏れたのだろう。
叔母はわたくしの頭を撫でた。
「初めて話すけれど、わたしにも婚約者がいたわ。
とても大事にしてくれる方で、相思相愛だと今でも思っているの。
けれど彼はお家騒動で亡くなって。
……彼以上にわたしを大事にしてくれる人はいないと思って、嫁がずに生きる決意をしたのよ」
貴族令嬢としては稀有な生きざまを選ぶほどの「愛」とは、どういったものだろう。
ざらりと、心の削れた部分が疼くように感じた。
絵姿というものは大体はいい風に描かれてしまうそうだ。
わたくしはその良し悪しも分からないので、身分だの取り柄だの、そういったものが書かれた半面だけを見ていた。
けれど叔母は社交の場で実際に見てきているので、その盛り具合も含めて評価しているようで、あっという間に選別してしまう。
「リュシエンヌに相応しい殿方となるとまた話が違ってきたわね。
わたしが知っているのは親世代だから、彼らの人間性も含めて選んでるんだけど……リュシエンヌ、何人か実際に会ってみる?」
「構いません。叔母様が必要だと思うのなら」
「じゃあ、まとめてガーデンパーティーにでも誘いましょう。
令嬢があなただけというのも体裁が悪いから、同じように跡取りを望んでいる家と連携でもしましょうか」
テキパキと行動に移す叔母。
叔母は、いつまでここにいるだろう。
ふとそんなことを考えた。
領地を巡っていた叔母は、一つのところに居る気質ではないかもしれない。
ならば長いことこの屋敷にいることはないのだろう。
今のうちに、叔母のように動けるようにならないといけない。
ガーデンパーティーは、わたくしと二人の令嬢、五人の令息とその親たちで開かれた。
病弱な深窓の令嬢と思われていたようで、二人の令嬢――キャロラインとマーガレッタは、わたくしに何度も日向にいて辛くなったら言って欲しいと言ってきた。
別段、体は弱くない。むしろ毎日庭を散歩していたので健康だと思う。
大丈夫です、ありがとう、と何度も伝えたけれど伝わったろうか。
それで、肝心要の令息は、と、言えば。
明確に媚びを売ってきて鬱陶しいのが三人、別の令嬢に集中狙いしているのが一人、平等にこちらを見てきているのが一人。
全員平等に見てくるひとりが少し気になった。
確かにわたくしたちは跡取りだし全員にそれなりに気に入られた方がいいのは分かるけれど、情熱的にほめてくるのでもなく、ただ落ち着いて話すだけなんて、変わっているのでは?
マーガレッタとキャロラインは彼を特に印象強く受け取った感じもない。
熱心に口説いてくる男たちをいなす方に力を割いているくらい。
だから、わたくしは彼が静かにお茶を飲んでいるテーブルに腰を落ち着けた。
「あなた、本当に見合いをする気があって?」
「ええ。お互いにお互いを見るいい機会をありがとうございます」
「……。マーガレッタ様も、キャロライン様も、あなたを気にしていないわ」
「でしょうね。
俺は地味な自覚があるので、あまり派手に動いても滑稽だと思って控えているんですよ。
これでも一応経済学の専門校を卒業しているんですが、見た目が足を引っ張るんですよね」
その物言いも別に誇らしげとかではない。
なんというか、少し冷めている。
評価されないことに慣れているというか。
「学校のお話を聞かせてくださる?」
「つまらないと思いますよ」
「それはわたくしが決めるわ」
なんとなく、この、低くやわらかな声を、もう少し聞いていたかった。
だから、話をねだった。
彼――ライアンは、嫌がる事なく、求めるままに話をしてくれた。
知識として存在は知っている学校というものは興味深く、彼の目線で語られる世界はどこか橙色をしているように感じた。
なんてことない、晴れた日の夕暮れのような。
それを伝えると、ライアンはおかしげに笑った。
「それは、俺の目の色のことを言ってます?」
よく見てみると、眼鏡の奥の瞳は確かに夕暮れ色をしていた。
気付かなかった。
わたくしはあまりものをきちんと見ていないのかも。
「でも、そうですね。実際専門校で過ごしていた時の思い出は夕暮れが多いですよ。
授業中は授業内容にだけ集中していて、昼食も手早く食べて次の授業に備えていました。
一息つけるのは大抵夕暮れ時です。
学友と落ち着いて話が出来るのもそうでした」
懐かしむように語り、殿方は普段どういう話をするのか聞いてみた。
わたくしは令嬢同士の話し合いも知らないけれど、令息が何を話すのかも知らない。
ああ、それに。
目の前のライアンの事だって、ほとんど知らない。
その日、キャロラインは一人を候補として捕まえて、マーガレットは保留にした。
わたくしは、ライアンを婚約者にすると決めた。
もう何回かパーティーを開いて候補を増やしてもいいと叔母は言ったけれど、断った。
何人も同時進行したとして、情報の密度が薄くなって選ぶのに時間がかかりそうだから。
時間がかかればかかるほど、令息たちの適齢期は過ぎていってしまう。
婿に行けたかもしれなかった人がわたくしのせいで平民になるのは申し訳ない。
候補じゃなくて婚約者に決めたのは、一人しかいないのに候補も何もないから。
白紙撤回するにしても一年以内ならお互い大丈夫だろう。
ライアンは十八歳。
学園を出て間もない彼は、実家の会計を手伝っているそう。
ちょうど会計士が年齢の問題で辞めようとしていたから、引継ぎの資料を整えたり、本来の業務を手伝ったり、書類の整頓をしたりと、それなりにやっているとか。
それも別段長く続くわけではない。
既に次の会計士を確保していて、彼の準備が終わり次第、仕事は引き継がれる。
そうしたらライアンはちょっと暇になるそうで、ならばと叔母が仕事を依頼した。
父上がほったらかして適当になっていたオルガ家の会計の整頓だ。
父上は本当に愛人と仲良く暮らしていただけで、当主としての仕事はろくにしていなかったようで、祖父母の代から居る執事たちや会計士が維持はなんとか出来ていた。
けれど、父上はサインはしてもそれ以外はしたがらず、しつこく言えば愛人を連れて買い物だの観劇だのに繰り出して平気で何日も戻らなかったとか。
わたくしが当主になったことで問題は表面化した。
理由は父上が積み重ねてきた問題の諸々が限界を迎えたというだけで、別段執事や会計士がわたくしに歯向かったとかではない。
むしろ彼らはもう少し持たせて、わたくしが徐々に切り崩していけるように、と、抑えてくれていた。
だから罰するつもりはない。
今まで耐えてくれただけでも十分なのだ。
ここからは当主となったわたくしの仕事。
叔母に手伝ってもらいながら、少しずつ仕事の山を崩していく。
時には叔母をお供に直接出向いて問題を解決する。
そんな日々を送っているうちに、ライアンは実家での仕事を終えてこちらに通ってくれるようになった。
婚約者でありながら仕事を早々に手伝うという事で家の人間は当初ピリっとした空気を持っていた。
けれどライアンは真面目にこつこつと、けれど過剰に謙虚にもならず、出来る範囲でわたくしを支えようとしてくれた。
それを感じ取って、家の人間はライアンを受け入れ始めた。
ヨル爺は、相変わらず一輪の花を定期的に届けてくれる。
祖父母の代から屋敷全体の庭を整えてきたヨル爺は、どんな花でもとても上手に育てる。
その一輪の花が、夕暮れのような色合いの美しい花に変わったのはいつからだろう。
「お嬢様が好ましいと思われた色ならば、いくらでも咲かせてみせましょうぞ」
好ましい、色。
わたくしは、あの色が好きなのだろうか。
執務室に新しく設置した執務机で、淡々と書類仕事をこなすライアンをそっと見る。
橙色の瞳は書類の文字と数字を追っていて、時たま指が計算機を叩く。
この色は落ち着く。
これが好ましいという感情なら、好ましいのだろう。
「リュシエンヌ、どうかしましたか?」
顔を上げることもなく、ライアンが聞いてくる。
「いいえ。何もないわ。少しぼうっとしていただけ」
「それは、そうでしょう。
リュシエンヌが休んでいるところは殆ど見たことがありませんし」
休む暇なんてどこにもないのだからそれは当たり前では?
と、思っていると、ライアンは持ち込みの鞄から一冊の本を取り出した。
そこまで分厚くはない。
それをわたくしのところへ持ってきて、最初の一ページを開いてみせた。
小さな猫や犬の写し絵が描かれている。
セピア調の色合いで描かれた小さな動物たちは、なんというか、とても自然体だ。
「最近流行りの本なんですよ。
実際に飼うのは大変だし、すぐに大きくなってしまうのが悲しいという人向けだそうで。
リュシエンヌにもよいものじゃないかと思って取り寄せました」
「……わたくしに?」
「ええ。犬猫は嫌いでしょうか?」
「分からないわ。教本でしか見たことがないから」
では、とライアンが笑った。
「この本を見て、考えてみてください。
もしそれでも分からなければ、知り合いの家で最近子猫が産まれたところなので、一緒に見に行きませんか」
わたくしはその本を何度も色んなページを行き来しながら読み込んだ。
ふわふわしていそうな毛並み。大きく潤んで見える瞳。
一緒に置かれた毬となんとなく比較してみたり、時たま混じる人間の手との比較で、子犬や子猫は何とも小さいのだと知る。
気が付けば、昼過ぎだったのに、夕暮れになりつつある。
「あ、」
「大丈夫ですよ、大体は終わってます。
俺でも出来る範囲の仕事だけでしたから」
穏やかに笑み、ライアンは立ち上がる。
帰るのだろうか、と、思ったが、こちらに寄ってきた。
「このページの、白い子猫をとても気に入られたようで。
さっきからページをめくらずにずっと見ておいででしたね」
「…気に入った、のかしら」
「知り合いのところの猫も白い毛並みなので、見に行きますか?」
ライアンはわたくしが悩み悩み頷いた次の日にはあれこれ段取りをつけてきた。
子猫がうっかり爪を出してしまって布が傷んでもいいドレスの準備は侍女たちがしてくれて、子猫たちがいずれ食べる離乳食となる乾燥餌も。土産用にと、執事が取り寄せてくれた。
叔母はといえば、社交の予定を少し変えて、わたくしたちが一日屋敷を離れても問題ないように仕事の山を一緒に切り崩してくれた。
そうして、わたくしは初めて、社交以外の目的で他家に訪問することになった。
「ようこそおいでくださいました、当主のダミアンです」
「妻のリリーでございます。
さ、お入りになって。猫たちは部屋でくつろいでいるところですわ」
ライアンと同い年くらいの年齢の夫婦は、穏やかに笑いながらわたくしたちを案内してくれた。
ドアの下にまた小さなドアのついた不思議なドアの向こうは、少し小さめの部屋。
そこにはソファやテーブルがない。
ふわふわの絨毯の上に、丸いクッションのようなものが幾つか置かれていて、その一つの上には本物の猫と子猫がいた。
「さ、ジェシカ。子供たちを見せておくれ」
「にゃー」
純白の毛並みをした母猫のお腹の近くには、本当に小さな子猫たちがうごめいている。
「リュシエンヌ嬢、近くで見ても大丈夫ですよ。
ジェシカも子猫も人が近くにいるのを嫌がらないので」
「…はい」
そっと、近くまで行ってみる。
立ったままでは猫に失礼なのではないか、と、膝をついてみた。
「……小さい……」
「それはそうですよ、産まれたその時はもっと小さくって。
親猫もそんなに大きくないでしょう?そのお腹に入っていた子なのですからこんなものですわ」
「お、ちびすけが抱いて欲しそうですよ。リュシエンヌ嬢、どうぞ」
「え?」
母猫から離れてこちらに来ようとしていた子猫を一匹、そっと掬い上げてわたくしに差し出してくる。
これは、どうすればよいのかしら。
「リュシエンヌ、手を出して。両手ですよ」
「え、ええ」
ライアンに促されてそっと出した掌に、子猫が乗る。
絨毯のふわふわとは全く異なる、温かい、ふわふわの、柔らかな命。
「みぃ」
「あたたかい」
「みぃー……」
「くすぐったい」
小さな口から出た小さな舌が、私の掌を舐める。
こんなに小さいのに生きている。
すごいことだ。
「二匹はうちで育てるつもりなんですが、残りの三匹は欲しがってくれる家があればと思っているんです。
リュシエンヌ嬢かライアンが引き取ってくれればなんて」
「おいおい、俺は実家に居候なんだから無理だよ。
リュシエンヌも猫を見たのは今日が初めてなんだから、焦らせるなって」
「こういうのは勢いが大事だぞ。
どっちにしたって乳離れした後の話だし、それまで何度か見に来たって構わないしさ」
殿方たちの話を聞きながらも、わたくしは小さな子猫をじっと見ていた。
親指にしがみついてうねうねしている。
そのたびに毛並みが肌に触れてくすぐったい。
「あらあら。その子とリュシエンヌ様は瞳の色が似ていますわね」
「……そう、かしら」
「青くてキラキラしていて、どちらもとても綺麗ですわ」
にこにこと笑う夫人。
「それにリュシエンヌ様は銀髪で、この子も白い毛並みだから似ておりますわ。まるで対のよう」
確かに、色合いは似ているのかもしれない。
けれど、それでこの子猫はわたくしに近付いたわけではないだろう。
どうしてわたくしなどに懐いてくれるのだろう。
片手の掌でも足りそうなほど小さな体躯の子猫を、わたくしはじっと見つめていた。
家に帰るまでの間、わたくしはずっと子猫を手にしていた掌を見ていた。
それを見て、ライアンは叔母に子猫を飼うのはどうか、と、問うた。
叔母は少し考えた様子で、わたくしがずっと掌を見ているのを見て、また考えて。
「リュシエンヌはどうしたい?わたしは、リュシエンヌが子猫が欲しいというのなら屋敷の一室を整えようと思うけれど」
「……わたくしは」
さぁさぁと雨が降る。温かい雨が。
母猫の乳を吸っていたはずなのに、よちよちとこちらに来ようとした子猫。
あの子を、母猫から引き離すのか。
わたくしが気に入った、飼いたい、と言ったら。
「子は、親の元にいたほうがよいのでは」
「でも子猫は何匹かは手放すという話だもの。
リュシエンヌが引き取らなくても、他の家に行くだけよ」
「リュシエンヌ」
そっと、ライアンがわたくしの前に膝をついて見上げてくる。
大きな掌は、わたくしの手の甲から手をくるんでいる。
「難しく考えなくていいですよ。
あの子猫が近くにいたら、と、考えて、その日常が嬉しいかどうか」
よたよたとしか歩けない無力な子猫。
牙さえまだ生えそろわぬ、わたくしが指でつついたら死んでしまいそうなくらい小さな子猫。
あの子が、わたくしの家に。
「一度預かってみましょう。乳離れをしたあとで迎えにいきましょうね。
その辺り、俺が話しておきます。必要なものも聞いておきます。
二十日ばかり預かって、リュシエンヌが一緒に生活できなさそうなら、俺が引き取り先を探しますよ」
ライアンは、わたくしの反応に何を見たのだろう。
どうしていつも先回りが出来るのだろう。
雨が降る。
冷えた雨ではなく、温かい雨が。
ライアンがこの屋敷に通うようになったあの日から、ずっと。
仕事の合間合間に、子猫のための部屋にした一室を覗きにいく。
暴れん坊だったとしたら家具で遊んでしまうというので家具はなくて、床には柔らかい絨毯が敷かれた。
程好くへたってきたというクッションが床に置かれ、カーテンは撤去された。
大工仕事が趣味だと言う下働きの男性使用人が作ったという、猫用の遊び道具――猫の塔なる謎のオブジェは、捨てる予定だった絨毯を切り取って板材を覆っている。
眠るときのためにと毛布を敷いた籠まで置かれて、あの家のあの部屋をそこはかとなく再現している。
部屋の準備が済んだ頃合いで、乳離れが済んだという知らせが屋敷に届いた。
いつでもおいでください、という手紙に、訪問日と時間を伝える返事を出した。
このころには父上の遺した負の遺産はほとんど片付いていて、書類仕事は昼過ぎには終わるようになってきていた。
子猫の家に行くと、ダミアンとリリーは変わらず出迎えてくれた。
そうして案内されながら今になって不安になる。
あの子猫はわたくしを覚えているだろうか?
そんなわたくしの手を、ライアンは握ってくれていた。
あの不思議な扉を開いてもらうと、そこには少し大きくなった子猫たちと、父猫と母猫が両方がいた。
そのもつれあう子猫の一匹がしっぽをぴんと立てた。
そうして、まだよちよちとした動きでこちらに向かってくる。
「おや、覚えているのかな?」
「そうね、白い毛並みに青い目だもの。あの時の子だわ」
そんな声を聞くともなしに聞きながら、自然とわたくしは膝をついて、両手を差し出した。
子猫はすっぽりと掌に収まって、甘えるような声を出す。
胸が温かい。
てのひらも。
「その子猫でいいですよね?」
「……ええ」
「ダミアン、約束通り二十日ほど預かってみるよ。
リュシエンヌとの相性を見て、問題ないようならこちらで飼うことにする。
ダメでも俺が引き取り先を探すから安心してくれ」
「ああ。…リュシエンヌ嬢、困ったことがあったら相談してくださいね。
俺も何匹も猫を飼って育ててきたので、子猫の扱いは知ってますから」
こく、と頷いて、子猫をしっかり支えたまま立ち上がる。
ぺろぺろと赤い舌が指を舐める。
それを大事に抱えた。
雨はまだ温かい。
子猫は、二十日を過ぎても部屋にいる。
わたくしは毎朝必ず子猫の部屋にいき、まだゆったり眠っているところを見る。
昼食の前にも、見に行く。
夕食の前後にも。
眠る前にも。
子猫は起きている間に行くと、よたよたと寄ってきて、甘えた声を出す。
給餌や掃除のために侍女が入ってもそっけないそう。
ライアンもついてくる事があるけれど、子猫はわたくしのほうにだけ来る。
それを面白そうに見てくるものだから、鼻先に子猫を突き付けてみたことがある。
子猫は「フシッ!!」とくしゃみをして、ライアンは苦笑いしながら顔を拭いていた。
胸がくすぐったくなるような日常が始まった。
執務室で仕事をするだけの生活に、ライアンが加わり。次に子猫が加わって。
仕事の山を切り崩す時間は随分と減って、余裕が出てきた。
屋敷の中の、少しひんやりとしていたような空気が、温かい春のような空気になったのを感じる。
「子猫に名前を考えませんか?ずっと子猫と呼ぶわけにもいきませんよ」
「…………なまえ」
「ええ。ダミアンの家の猫も名前があったでしょう?」
頭の中の辞書をめくる。
白い子猫。
「ブランシュ」
「ああ、ブル国語で白。分かりやすくて可愛いから似合いますね」
ライアンはにっこり笑って、艶のあるリボンを差し出してきた。
「首輪のかわりに。まだ子猫で小さいうちは首輪の大きさがすぐ変わってしまいますし」
「苦しくないかしら」
「毎日確認してあげればいいんですよ。
リュシエンヌは毎日ブランシュと会うんですから」
子猫はブランシュになった。
毎日、お昼前にブランシュのリボンを結び直す。
首がしまっていないかどうか。苦し気な様子じゃないか。きちんと確認する。
時々、五日に一度程度、秤に乗せて重さを確認もする。
毎日見ていると気付かないけれど、少しずつ大きくなっている。
食べる餌だって、少し柔らかくしたものから、噛みごたえのありそうな乾燥餌になった。
飲むものは母乳に似ているのか、ミルクが好きだけど、水だってかまわず飲む。
そして、変わらずわたくしを求めて歩み寄ってくる。
それがなんだか時たまライアンと似ていると思ってしまう。
あの時、近付いたのはわたくしからだったのに。
ライアンと出会った季節は初夏だったけれど、気が付けば冬が始まっている。
雪が積もることもあって危ないからと、ライアンには冬の間客室に泊まってもらうことにした。
既にオルガ家に馴染んでいるように思う。
時々、騎士たちと訓練をして体の調整をしているのを見かける。
そういう時、侍女たちがわたくしにタオルを持っていってみては?と、手に握らせてくる。
確かに汗をかいただろうし、と、届けると、頬を少し赤くして受け取ってくれる。
その時の笑みに、いつも胸がくすぐったくなる。
病気なのだろうか。
でも病気とは怖くて嫌で痛いものなのではないか?
この、温かくてくすぐったいものはなんなのだろう。
不思議と、嫌じゃない。
ブランシュの遊び道具に、毛糸の毬が加わった。
侍女たちのする編み物の余りで作ったというそれは、色鮮やかで面白い。
最近は時間があるから、編み物をやってみようと思って尋ねたら、叔母も得意だと言うので教わることにした。
初めて編むにしたって思い出になるのだから好きな色を、と言われて、橙色が頭を過ぎった。
商家の者が持ってきてくれた数々の毛糸玉から、一番近しいものを選んだ。
出来上がったのは少し不格好なマフラー。
外につけていくことは難しいけれど、家の中でつける分には問題ない。
寒さの厳しい朝の時間に執務をする時に巻いていたら、ライアンに青い毛糸で編んで欲しいと頼まれた。
なので、また商人を呼んで、色を選んでもらった。
それを出来るだけ丁寧に、けれどそれなりに早くと編んだマフラーを、ライアンは満足そうに着けている。
なんとなく、使用人たちの目が柔らかく感じる。
春が来た。
ライアンは、帰らなかった。
わたくしが、嫌でないならここに住んでおけばいいと言ったから。
婚約者から、伴侶となってもいいと思ったから。
だから、そう言った。
ライアンならわたくしがどれほど信頼しようと裏切らないだろうと、そう、思ったのだ。
だから。
結婚しましょう、と、伝えるべきなのに、どうしてだか言葉が詰まって出てこない。
早く伝えないと、一年が経ってしまう。
もしそれで、ライアンが期限切れだと出ていってしまったら。
そう思うと胸が痛いのに、口の中で言葉が絡まる。
「ブランシュ、どうしたらいいと思う?」
「みぃ」
随分大人びてきたブランシュは、不思議そうに鳴く。
もう私の掌には載せられなくなったブランシュ。
猫用のブラシで毛並みを手入れしてあげながら、外を見る。
あの日、ライアンから感じた夕暮れがそこにある。
温かくて、柔らかくて、心地のいい夕暮れ。
「わたくし、失いたくないと思っているのに。
なのに、何も言えないのよ、ブランシュ」
ブラシを動かす手が止まってしまう。
じわじわと瞳にこみ上げるものがあって、手で目元を覆う。
「この時間が終わらなければいいのにと思っているのにね。
どうしてかしら。
言葉にしたいのに、引き止めたいのに、何もできない」
「じゃあ、俺からねだっても?」
聞こえるはずのない言葉に、硬直する。
そっと、背から覆うように触れた少し硬い、けれど壁などではない柔らかみのある温かさ。
「リュシエンヌ。俺はこの家にずっと住んでいたい。
あなたが嫌でないなら、俺を伴侶にしてくれませんか」
「本当に、いいの」
「ええ。あなたがどんな風に育ったかはね、叔母君に聞きました。
だからあなたに恋や愛を積極的には求めずにきました。
でもあなたの心にはその感情があるのだと知って……ブランシュに嫉妬しました」
目元を覆った手を外して、お腹に回された腕に触れる。
「ブランシュは、ライアンが連れてきてくれたわ」
「ええ。そのくせ俺より先にリュシエンヌを魅了なんてして。悪い子なものです。
でもそのお陰でリュシエンヌは俺をもっと意識してくれるようになった。
複雑ですね。メスでなかったら恋敵にしていたところです」
笑ったのだろう、体の揺れが背中に伝わってくる。
男の人というのはこんなにがっしりしていて、わたくしを覆うように広い胸板を持っているものなのか。
なんとなく不思議に思う。
「あなたの中に喜怒哀楽が育って、俺との愛も育っていくように、一緒にやっていきませんか。
……もう、育ちかけているとは思いますけど。
その後の色鮮やかな人生も、出来ればご一緒したい」
その言葉に、わたくしは腕に触れるのをやめて、指先を添えるようにして手を握った。
それが、返事だった。
ライアンとの日々は、穏やかな夕暮れ。
わたくしの心にもう雨は降らない。
いつでも柔らかな空気がわたくしを満たし、この胸を温め、くすぐったくする。
きっとこの温かさはいつまでも続くだろう。
この温もりを、いつか授かる子にも伝えようと思う。
わたくしなりのやり方で。