差し伸べられた手
「ママ、この子をなおしてあげて!」
私を拾った女の子は、そのまま家に持ち帰り、母親に対してそう言った。
「え、何?っていうかどこで拾ってきたのよ、そんなもの?」
突然のことに戸惑う母親が口にした疑問に、女の子は食い気味に言葉を返す。
「公園の近く!」
「誰かの落し物でしょ?だったらちゃんと交番に届けないと」
母親の指摘はもっともだが、残念ながら交番に預けられても、持ち主が現れることは無い。
加えて、女の子が必死に訴えかける。
「そんなの、かわいそうだよ。こんなに……ボロボロなのに」
「うーん。それは確かにそうだけど……」
「だれかが交番にこの子を取りに来たとき、きっとかなしむよ?」
なんとか意識を繋ぎ止めている私には、自分がどんな状態になっているのかは分からないが、女の子の主張に、しばらく考えた母親は頷いてみせた。
「わかったわ。でも、直したらちゃんと交番に連れていくのよ?」
「うん!ありがとう、ママ!」
「じゃあ、まずはキレイにしてあげないとね」
女の子から私を受け取ると、母親は私の体に手をかける。
すると、朦朧としていた私の意識が、グッと現実世界から遠ざかる。
母親の手には白い何かが握られてるのが見えた。
……ああ、綿を抜かれているんだ。
ぼんやりとそう気づいた時にはもう、私の意識は、私の手を離れていた。
……。
…………。
……………………。
「…ら、も……ぐよ」
濃い霧に包まれたような、ぼんやりとした意識の中で遠くから声が聞こえる。
「やっ……あ!よか……ね、…まさん!」
声が少しづつ近づいてくる。
この体になってからまばたきさえしたことが無いが、パチリ、と目を開くように視界と意識が繋がる。
もう二度と目覚めることはないと思っていたが、どうやら体の中に綿を詰め直されているらしい。
「よし、後はここを縫ってあげるだけね」
私の正面には、女の子の嬉しそうな笑顔。母親の姿は見えない。
縫われているのは背中側のようだ。
最後の傷口を塞ぎ終わり、結んだ糸を切る。
「これで、くまさんも元気になったわね」
針をしまい、私の姿を女の子に見せながら母親が言った。
「わぁ!ママすごい!だいすき!!」
飛び跳ねて喜ぶ女の子を見て、母親も微笑みを浮かべる。
母親は優しい調子で続ける。
「この子、ちゃんと交番に連れていくのよ」
「あ……うん」
一転、悲しそうな顔になる女の子に私を抱かせて、ポンポンと頭を撫でる。
「まあでも、今日はもう晩ごはんの時間だし、連れていくのは明日の朝にしようか」
パッと明るい顔に戻った女の子が私を抱きしめる。
「うん!わたし、今日はこの子といっしょに寝ていい?」
『仕方ないわね。優しくしてあげるのよ?』
・
その夜、私は女の子に抱かれてベッドに入った。
眠りについた女の子の横で、私の意識はどこかへ吸い寄せられるように薄れていく。
この体になってから意識を失うことはあっても、眠ったことなんて一度も無かったのに……。
気が付いた時には、私は見知らぬ場所に立っていた。
様々な色が敷き詰められた地面。赤や青、黄色のグラデーションに彩られた空。周りには大きな花が咲いていたり、遠くの空にはクレヨンで描いた落書きのような物が見えたり、その風景はとても現実の物とは思えなかった。
そして私の目の前には、女の子が屈んで私を見下ろしていた。
「くまさん……?」
「あれ、私……」
動ける。話ができる。
当然、私の体は茶色い毛で覆われたままなのに。
「良かったね、くまさん!元気になって!」
女の子の方はこの状況に疑問を抱いていないようで、明るい声色で話しかけてくる。
「うん。ありがとう。……あなたのおかげ」
私はまだ状況を飲み込めていないが、せっかくの機会だし、聞いてみたかったことを聞いてみることにする。
「ねえ、あなたはどうして、私を助けてくれたの?」
「『どうして』?」
女の子は、意外な質問、とばかりに首を傾げ、さも当然というふうに答える。
「だって、かわいそうだったから」
「かわいそう?私が?」
母親に私を直すよう訴える時も、この子はそんなふうに言っていた。
「うん。あんなにボロボロになるまでがんばって来たのに、だれにも気づかれないままなんて。最後の最後までひとりぼっちのままなんて、かわいそうだって思ったから」
なぜだろうか。
その言葉は『私』にではなく、女の子が拾ったくまのぬいぐるみに対して掛けられた物だったけれど。
その一言で、私の人生はほんの少しだけ救われたような気がした。
だけど。
私は、その言葉を素直に受け入れることはできなかった。
首を横に振って、言葉を吐き出す。
「頑張ってなんか、ないよ。私は……何も頑張ってなんか来なかった」
不思議そうな顔をする女の子に、私は言葉を続ける。
「私は、ずっと辛くて、苦しくて……ずっと逃げ続けて来ただけ。逃げて、逃げて、逃げて……気が付いたら、こんなとこまで来ちゃってただけなの」
「くまさん、今もつらい?」
問われて、考えて、頷いた。
「……うん、辛い」
どうしてかな?
あんなに嫌だった人生からやっと逃げ出せたのに。
「だったら、くまさんは今もちゃんとがんばってるよ」
その言葉に思わず顔を上げる。
「だって、苦しいのは一生懸命がんばってるからでしょ?つらいのは、どんなにがんばっても上手くいかないから……それでも、あきらめずに続けてるからでしょ?私だったらきっと、途中で投げ出しちゃうもん」
そう言って女の子は微笑んだ。
そんな女の子の純粋な言葉に、胸が締め付けられる。
私は、この子の思うほど立派な人間じゃない。
必死に生き続けて来た訳じゃない。
とっくに、生きることなんて諦めてしまっている。
生きるのをやめる、という選択を出来ないまま、立ち尽くしているだけだ。
とても生きているなんて言えない。
私はただ、死んでいないだけだ。
黙り込んだ私に何を思ったのか、女の子はそっと私を抱き寄せる。
優しく、力強く抱きしめる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
無根拠で無責任な言葉と、私を包み込む両腕の、感じるはずもない温もりに、流れるはずもない涙を堪えているうちに、私の意識はどこかから漏れ出した白い光に溶けるように消えていった。
・
目の前を覆っていた光が晴れると、私の体は女の子に抱かれるベッドの上に戻っていた。
その日、そのまま女の子に抱かれたまま交番まで連れていかれた。
「この子の持ち主、見つけてあげてね」
おまわりさんに私を手渡しながら、女の子がお願いする。
その声は震え、目も潤んでいた。
「うん。ここでしっかり預かっておくから」
けど、と、女の子の様子を見てか、おまわりさんはこう続ける。
「落とした人が取りに来られない事もあるんだ。もしも、誰もこの子を受け取りに来なかったら、君がもらってあげてくれるかな?」
「うん!ぜったい大切にするよ!!」
女の子の表情は明るく転じたが、すぐに我に返って言った。
「あ、でも。この子は元の持ち主が来てくれた方がうれしいよね」
「君は優しい子だね。もちろん、そうできればそれが一番だけど、どうしても取りに来られない時は、君が大切にしてくれたら、この子も落とした人も嬉しいと思うよ」
「うん、わかった!」
「持ち主が取りに来ても、来なくても、必ず君に連絡するから」
「ありがとう!やくそく!」
女の子は母親に手を取られ、交番から離れていく。
「ばいばーい、くまさーん!」
立ち去りながらも、何度も振り返りこちらに向かって手を振る。
「ばいばい!ばいばーい!!」
少しづつ遠ざかりながら、何度も何度も振り返り、声を張り上げる。
やがてその声は、泣き声へと変わっていった。
こんなにも別れを惜しまれたのは、きっと生まれて初めてだ。
複雑な気持ちになりつつも、路地を曲がって2人の姿が見えなくなるまで、おまわりさんの腕の中で彼女たちを見送った。