これが、報いなら
私は何のために生きているんだろう?
最近、そんな事をよく考える。
何か嫌なことがあったわけじゃない。
ただ、ずっと嫌だったんだと思う。
生きるということが。
ごく普通の家に産まれて、特別大きな苦労も、挫折もないまま大人になった。
いじめに会うことも無く、経済的に苦しいということも無く、何不自由なく学校にも通わせてもらった。
周りの友達が進学するから、高校にも大学にも行った。その時の自分の学力で合格できる所を選んで、大した努力もしないまま進学した。
自分の学力に合わせて適当に決めた学校だ。選んだ理由なんてそれ以外に無いし、その学校でやりたいことなんて何も無かった。
もちろん、友達と遊んだり、部やサークルの活動は楽しかった。けれど、学生生活を通して、私の中には残ったものなんて何も無かった。
その場の空気に合わせて、周りの人達に合わせて、自分では何一つ選んで来なかったんだから当然だ。私の手には、自分の手で掴み取った物なんて何も無い。
何も無い私は、空っぽのまま時間を浪費して、空っぽのまま大人になった。
大学の先生に勧められるまいくつかの会社で面接を受けて、受かった所に就職した。
今まで『何も選ばない』という事を選択し続けてきて、その選択が間違っていたと気付いていたはずなのに、私はまた、同じ選択を繰り返した。
私にはずっと自分の意志なんか無くて。
やりたいことなんか無くて。
それでも周りは未来を向いて進んでいくから、私もただ同じ方向を向いて漫然と進んできた。
どこかへ向かっているフリをして、私には目的地なんて無かった。
本当はずっと、どこかで分かっていた。
自分が他の人たちとズレているってことくらい。
夢も希望も、目標も目的も無い私は、普通じゃないってことくらい。
みんなは前を見て進んでいくのに、私は周りを見て浮かないようにするので精一杯で。
私だけずっと、水底で生きているみたいだった。
息苦してくて、胸が苦しくて。
やりたいことも無いくせに、やりたくも無いことをやり続けて……私は一体、何のために生きているんだろう。
そんな疑問を抱きながらも、私は今日ものうのうと生きている。
無意味な時間を積み重ねて、与えられた命を使い潰している。
仕事にも人間関係にも疲れてしまった、そんなときだった。
何の気なく整理をしていた洋服の中からそれを見つけたのは。
「あれ、何でこんな所に……?」
見つけたのは、大きなリボンを首に着けた茶色い毛のクマのぬいぐるみ。
こどものころはよく一緒に遊んでいたぬいぐるみ。
実家を出て一人暮らしを始める時に連れて来たはいいものの、何となく傍に置いておく気にはなれなくて、もっと奥深くにしまい込んでいたはずなのに。
自然と抱き上げ、その顔と向き合う。
真ん丸な黒い瞳。純粋でつぶらな瞳を見つめていると、こどものころの思い出がおぼろげによみがえって来る。
この子と遊んでいたころの私は、他人の事なんか気にせずに、自分の好きな事に夢中だった。
友達なんかいなくても、この子がいればそれで充分だった。
それだけで笑顔になれたし、それだけで毎日が楽しかった。
あの頃の私は『幸せ』だったのだろうか。
そう考えると、在りし日の自分自身が恨めしく思えてきて。
何の憂いもなく、ただ楽しいだけの日々を送っていた自分の事が憎らしくなって。
私は、衝動的に手近な机のペン立てからハサミを抜き取り、振り上げる。
そしてーー
ーーぬいぐるみの胸に突き立てた。
その瞬間、全身に力が入らなくなり、私の体は前方へと倒れていく。
目の前に迫った床と衝突する直前で、私の意識は途絶えた。
……。
…………。
……………………。
次に目が覚めた時、私は部屋の床に転がっていた。
自分の部屋で意識を失ったのだから当然なのだけれど、それにしては不可解な物が目に映った。
人がいる。
一人暮らしの私の部屋に、もう一人、倒れている人物がいた。
さらには、その人物は日ごろからよく見慣れた、自分自身の姿によく似ていた。
目覚めたばかりの頭では状況の整理が追い付かず、まずは目の前の人物の正体を確かめようと反射的に起き上がろうとするが、何かに引っ張られるように私の体は床へ吸い寄せられる。
その『何か』が何なのかは、体を見下ろせばすぐに分かった。
とは言え、その事実は簡単には受け入れがたい物だったけれど。
私の体には、巨大なハサミが深々と突き立っていた。
いや、そもそもこれは本当に私の体なのだろうか?
大きなハサミは完全に私の胸を貫いて、きっと背中まで貫通しているだろうに、一切の痛みを感じない。
それどころか、実際に見るまではハサミが刺さっている事にすら気付かなかったんだから。
そして、それ以前に。
私の体は、ふわふわの茶色い毛に覆われていた。
これは、一体どういう事なのだろうか。
首元には赤いリボンまで見えるし、これじゃあまるで……。
頭の中を過った推論を確認しようにも、動けないことにはどうしようもない。
まずは、私の自由を封じている重たいハサミを抜こうと手を掛ける。
その手も、もはや人間の物ではなく、指も無く、物を触った感覚すらない。
まともに物を掴むことすら苦労するふわふわの手で、何度も手を滑らせながら、ようやくハサミを体から取り除くことに成功する。
感覚の無い体を何とか動かして立ち上がる。
まるで自分の体では無く、画面の中のキャラクターでも動かしているみたいだ。
立ち上がった……はずなのに私の視線の位置は低いまま。近くにあった椅子の座面すら見上げるほどだ。見慣れたはずの部屋もずいぶんと広く感じる。
先ほどの推論が、私の中でより真実味を帯びてくる。
思い描いた通りに体が動いているのを確認しながら、一歩一歩ゆっくりと踏み出し、部屋に置かれた姿見の前まで移動する。
鏡に映った私の姿は――確認した今もとても信じられないが――うっすらと感じていた予感の通り、意識を失う前まで私が手に取っていたぬいぐるみそのものだった。
私は今、夢を見ているのだろうか?
到底、現実として受け入れることは難しい事実。
だけど意識ははっきりとしているし、ただの夢だとも思えなかった。
……いや。
本当は、そんなことはどちらでも良かったのかも知れない。
ただの夢ならそれまで。目を覚ませば、また無意味な日常が待っているだけ。
これが現実なのだとしても、別に人間の体に未練なんかない。元々、生きている理由も意味も無かったんだ。何の罪もない思い出の品に八つ当たりをした報いだというのなら、抗う理由は何もない。
もし、これが本当に現実なら。
私の人生がここでお終いなら。
それはそれで、悪くは無い。
重たい部屋の窓を開けてベランダへ出る。
冬の空気の冷たさでさえ、今の私には感じられない。
私の部屋はマンションの4階にある。
綿の詰まった柔らかな頭を柵の間に押し込み、マンションの駐車場を見下ろす。
小さな体のせいで、普段よりもだいぶ高く感じる。
今までも何度も考えたことがある。
ここから飛び降りたら、と。
真綿で首を絞められるような苦しみがずっと続くなら、一瞬の痛みで全てが終わるなら……と。
今なら。
感覚の無いこの体なら、きっと何の痛みもなく楽になれる。
そうは思っても、やっぱり遠くに見えるアスファルトには足がすくむ。人間の体のままでは、今回も実行に移すことは出来なかっだろう。
頭に続いて、腕、胴体を順番に柵を通して、最後に足が通り抜ける。
ベランダの床を離れた私の体は地面へ向かって落下していく。
空中で回転しながら、地面が急速に近づいてくるのを感じる。
そして自身のくだらない人生を振り返る間もなく、私の体はアスファルトへ衝突した。
数回バウンドしたのち、乱暴に地面に投げ出された私は、うつ伏せの姿勢で内心ため息をついた。
精密な機械ならまだしも、布と綿でできたぬいぐるみがそう簡単に壊れるはず無かった。
人生、そんなに甘くは無い。
仕方なく起き上がろうとするが、どういう訳か体が動かない。
困惑する私に向かって足音が近づいてくる。音から察するに、その主はハイヒールを履いているようだ。足音が私のすぐ横まで来て止まったかと思うと、動かなくなった体が地面を離れる。
「……落し物?」
私を拾い上げた女性は、しばし思案してから駐車場脇にある花壇の縁石に座らせた。
ここを通る人や車の妨げにならないように、そして、私の『落とし主』が探しに来た時に目につきやすいようにだろう。
私を花壇の隅に置いて彼女が去ると、私の体は再び自由を取り戻した。
動けなくなったのは、あの人がいたせい?
疑問を抱きながらも、今度は駐車場の外を目掛けて歩き出す。1度落ちた程度では駄目でも、道路に出て何度も車に轢かれでもすればその内壊れるはず。
歩道に出ようとしたところで、またしても体が硬直し、私はアスファルトの上に転がることになる。
「あれ、何あれ?」
声とともに接近してきたのは、学生服を着た女子2人組。
「くまのぬいぐるみじゃん?」
「ホントだ!何でこんなトコに落ちてんの?」
「誰かが落としたんでしょ」
「それだ!」
その内1人が私を持ち上げ、近くにあったポストの上に置き直した。
「これで見つけやすいっしょ」
「うわ、天才!神かよ」
満足気な2人組が笑いながらどこかへ行くと、また、体が僅かに動けるようになる。
もしかして、人が近くにいると動けなくなるってこと?
人目のあるところでは、ぬいぐるみはぬいぐるみらしくしていろ、ということか。
私が座らされている場所も、人通りは多くないが、車道にはそれなりに車がいるせいか完全に自由に動ける訳では無い。
金縛りのような状態で何とか足を蹴り出すと、私の体は傾き、ポストの上から車道へと転がり落ちた。
そこへ走り込んできた自動車が私の体を撥ねる。
地面を転がったところを、今度は別の車に攫われる。
何度も。
何度も何度も。
車に轢かれたり、野良犬や野良猫のおもちゃにされたり。
日差しにさらされ、風雨にさらされ。
どのくらいの間そうしていたか、もう分からない。
何回も朝日を迎えたし、夕日を見送った気がする。
だんだんと意識もハッキリしなくなって来た。
そろそろ、終わりかな。
やっと終わりにできるのかな。
こんな時になっても走馬灯の一つも見えないような薄っぺらな人生を。
ごめんね、お母さん。せっかく産んでくれたのに、こんな人生しか送れなくて。
ごめんね、お父さん。頑張って育ててくれたのに、なんにも返せないままで。
ごめん。……ごめんね。
そうして、世界との繋がりを失いかけた私の意識を、降り注いだ声が繋ぎ止めた。
「くまさん、大丈夫?」
1人の女の子が、私のことを心配そうな顔で見下ろしていた。