4:花嫁になんてならないわ
確かに昨夜、私は彼と一緒に寝ている。
しかし、それは子犬の姿。ただ、子犬を抱いて寝ただけなのよ!
触った責任と言っても、それはただ、肉球で私の胸を押していただけじゃない。子犬だから、抱っこを嫌がっていただけと思っていたわよ。
私だって、一緒に寝ながら、子犬のおててをもみもみして、肉球を堪能していたんだから、おあいこなのよ。
「責任なんてとらずに結構です。あれはお互いに不可抗力なのだから」
「じゃあ、正直に言おう。(肉球で)触った感触を忘れられないんだ」
「忘れてください。(肉球で)触ったといっても、あれは数のうちに入りません」
「アリス。君は着やせするタイプだろう」
「唐突に何ですか!」
「まさか、あんな美しく丸いボールを目の前にして、一般論として(子犬ならば)ボールで遊びたいと思うものじゃないか。しかも二つもあって」
「変態ですか。そんなところをまじまじと見るなんて! 私はただ(子犬を)抱いていただけだと思っていたのに!!」
「(子犬の)僕の視界一杯に、押し付けるように見せてきたのは君だ。目の前に、二つの豊かなボールを見せられたら、(肉球で)触りたくなるに決まっているんだ。
僕はもう一度、(子犬じゃなく)ちゃんと、君と、一緒に寝たい」
「結構です」
「君だって僕(の肉球)を、もみもみしていたじゃないか。もう一度、(肉球に)触りたいと思っているんじゃないのか」
「そりゃあ、肉球は格別魅力的ですよ。でも一緒に寝るとなれは、子犬と男性は違います!」
私たちの会話を断つように、ぱんぱんと手が打たれた。
私たちははっと正気に戻る。
「殿下、痴話げんかは後ほどに」
カラスだった、キース王子のお目付け役が私たちを嗜める。
私ははっと口元に手を寄せる。
今の掛け合いを、えらい人の目の前で繰り広げていた事実に戦慄した。
見回せば、室内すべての生温い視線が私たちに注がれていた。
あああ、なんという失態!!
「ちゃんと話が伝わっていなかったのは、我が国の広報がいたらなかったからです。申し訳ありません、殿下」
苦笑交じりの偉い人が頭を垂れる。
私は取り返しのつかない醜態をさらしてしまった羞恥心に包まれる。
「気にされないでください。彼女は、色々あって、狼狽しているのです。
突然隣国に嫁げと言われて、正気を失うのは、とても正常な反応だと僕は思います。
彼女については僕が誠意をもって応じます。
皆様方は、彼女がつつがなく嫁ぐための準備をお願い致します」
キース王子が頭を下げると、その場にいた全員が立ち上がり、彼よりも深く頭を下げた。
この花嫁探しは、私が嫌だと言って断ることができるようなことじゃないんだ。
目を背けたい事実を愕然と受け止めるしかなかった。
その後、キース王子は魔法使いとともに城に残った。
国に花嫁が見つかったと知らせるためだそうだ。
私は一旦、学業を理由に学園に戻ることになった。
条件は、学園から外に出ないこと。学園周辺には警備網が敷かれることになった。
今さら嫌がっても拒否権はないと自覚したため、キース王子に国に知らせるのは待ってください、王様たちに警備なんていりませんなどと騒ぐこともできなかった。
ここでも、やっぱり、私は蚊帳の外。
外堀が埋められて行く様を指をくわえてみているだけ。
無力感に襲われ、哀しくなる。
私は、どこにいても、そんなものだ。
とにかく、用意してもらった馬車に乗った私は、城から学園に戻る。すぐに学園長室に呼ばれ、なにがあったのか聞かれ、昨日からの出来事を包み隠さず伝えた。
朝からいなくなったことを詫び、放課後の掃除を手伝えなかったことを謝罪すると、気にしないでと慰められた。
私は、寮の手伝いもする気になれず、自室に引きこもった。寮母もそれを許してくれた。
残されたドレスだけが、今朝から起こった一連の出来事が夢ではないと物語る。
くるぶしまで包む、なめらかな手触りのドレスの裾を掴むとため息が漏れた。
この衣装、どうするのよ。
荒々しく脱いで、なげやりに部屋の椅子にほおり投げる。
いつもの寝間着をクローゼットから出し、着替えた私は、ベッドに仰向けに寝転んだ。
一月前、学園に残れるか残れないかの瀬戸際にいた私にとって、隣国の王子の花嫁探しなんて眼中にもなかった。
噂が聞こえてきても、私には関係ないと思っていた。
結婚に夢を見る気になれないから、王子様の花嫁探しなんて興味をそそられなかったのよね。
父の行為を見ていれば、結婚に縋る気になれない。
病気で臥せった実母が亡くなるとすぐに父は再婚した。継母と父の関係は、実母が生きていた頃から始まっていたらしい。
父の行為を許すもなにも、現実はそんなものだと私に印象付けた。
結婚なんて、こんなものだ。
男親は一人で娘を育てあげる度胸もなく、病んだ実母を疎ましくさえ思っていた結果、裏切り、道理を踏みにじり、正道は我にありと周囲を納得させた。もう誰も実母を思い出さない。
現実なんてこんなものだ。
一時の恋情に溺れても、長く続くものじゃない。
私を支えるのは私しかいない。
身につけた教養、度胸、判断力、そして健康。
私を助けるのは私自身であり、そこに救いの王子様なんていないのだ。
どこかのおとぎ話を夢見るより、母の形見の宝石を手放してでも、学園の卒業から職を求める方が現実的だ。
祖母はそのために、私に宝石を持たせてくれたのだから。
もう長くはないと悟った祖母は、私に言った。
『何かあれば、この宝石を使いなさい。私所有の宝石は息子が把握し、なくなればいぶかしむ。アリスに分けてあげたいけど、それは叶わない。
でも、これはあなたの母が残した品。
そして、私の葬儀には顔を出さないこと。
息子は、あなたに愛情を持たない。持っていても、独りよがり。女に学はいらないと、あなたを学園から引き離し、どこかに嫁がせることを目論んでいる。
学園にいれば、息子はあなたに手を出せない。学園を卒業し、職を手にし、ここにはもう戻ってきてはいけないわ。
長子、跡取りと思って、甘やかして育て過ぎたせいね。ごめんなさいね、あなたに苦労をかけるのも、私のせいだわ』
王子様に縋って祖母と母が繋いでくれた道をそれる真似はしないわ。これで楽になったと一時の感情に流されても、痛い思いをするのは私なのよ。
その時、コンコンと窓が叩かれた。
そのリズムには聞き覚えがあり、身を起こす。
窓の向こうにカラスがいた。王子のお目付け役のカラスが翼を広げる。
すると、室内がほのかに光りだし、その光はすぐに収束し始めた。一つの発光体となったかと思うと、あっという間に光が消え、人間の形を成したのだった。
現れたのはキース王子。
窓辺からカラスも消えていた。
「アリス。話をしにきたんだ」
微笑む彼に、私はどういう顔を向ければいいか分からなかった。