君が大事な人だから
カヴェは床に這いつくばり、私は彼に何があったのかと心配どころじゃない。
そんな彼は私には理解不能の単語を放ったのだ。
ラットになってしまった?
「ラット?」
「オメガの発情に当てられると、アルファも発情になってしまうんだ。だから嫌なんだ、オメガは。ここぞという時に俺をケダモノに戻してしまう。俺はやりたくない相手とやりたくはないし、やりたくない相手に発情なんてしたくはないのに!」
つまり、彼は発情しているということね。
それでもって、床に這いつくばって耐えるしかないぐらいに、やりたくてたまらない性欲に飲まれているという状況ということ?
発情なんか私だってするけれど、ムラムライライラするぐらいで、そんな風になるなんて異常だわ。
確かに彼が言う通り、人ではありえない獣のような状態だ。
「カヴェ。どうしたらあなたは楽になるの?」
どどどん。
「開けやがれ、このくそが!」
「逃げられると思うなよ!」
どん、どおん。
扉を叩く音と宿の用心棒の太い怒鳴り声が響き、カヴェは私に答えるよりも、早く逃げろという風に手を振った。
「行ってくれ。君が逃げられるうちに逃げてくれ。」
どおん、どおん。
「うるさいな!私達を邪魔したらこの部屋に火をつけて死んでやる!」
あ、ドアの向こうが静まった。
私は会話を邪魔する煩いものが消えた今のうちにと、カヴェに取りすがった。
「カヴェ。」
私が彼の肩を掴もうとしたが、彼は私の手を撥ね退けた。
その払いのけ方は私が尻餅をつくぐらいに強いものだったが、私を転がせた彼こそ暴力に抗う子供みたいにして体を団子虫のように丸めた。
「行ってくれ。俺が自慰する姿なんか見せたくない。そっちに夢中になって敵にぶち殺される情けない姿なんか見せたくない。」
「えっと。出せば落ち着くってこと、なのかな?じゃ、じゃあ。」
「いいから行けって。」
「私とやりたいって嘘だったの!」
私はカヴェこそが可哀想な状況なのに、自分の感情だけで怒鳴っていた。
だって、本当の発情している状態で私を遠ざけるなんて、彼は本当は私としたいとは思っていなかったって事じゃない?
オバサンとやるのって辛かったって~。
私がやっても良いって言った時、カヴェは明日ぐらいにって流したわよね。
それって私とはやりたくないってこと?
やりたくなくなったってこと?
私の実年齢を知ったから?
「私が三十一だって知ったから嫌になったの!」
「違う!君とはこんな状態でやりたくない!こんな誰とでもやれる変な状態で抱きたくない!初めて抱きしめたいと思った人なんだ。」
私はどおおんと転がった。
天変地異にあったみたいにして、ぐらっとなってどおおん、だ。
実際はカヴェに転がされてから床に座りこんでいるままだけど、私の心は大きく大きくぶちのめされて転んだのだ。
カヴェに。
だから私はカヴェの元に行くと、カヴェの猛った下半身に向かって両手を伸ばしていた。
「マネリ!」
「こんな状態だからこそ私に任せて。私は一人で窓枠なんて登れないわよ。」
彼は私から逃げるように身を引いたが、彼自身こそ私の両手に入ってきた。
私は両手の中にある彼を大事に包み込んだ。
カヴェは悔しそうに唇を噛んだ。
だが彼は私を突き飛ばすどころか、両腕で私を大事に抱きしめて、私をさらに自分へと引き寄せた。
私達は唇を重ね合っていた。
カヴェの唇は重なるや私に喰いついて来た。
甘さなんて何もない貪るようなキスで、私はキスに感じるどころか唇が痛いばかりだ。
そんなキスはそのうちに涙の味がした。
「すまない。君を、君を乱暴に扱ってはいけないのに、俺は。」
彼は獣になった自分の身の上に悔し涙を零していた。
でも、彼の涙は私を大事にできないからだという涙なのだから、私はこの上なく幸せだった。
こんなに大事に想って貰える事が無性に嬉しかった。
「カヴェ。あなた自身にキスをさせて。」
「え?」
涙顔のカヴェはこれ以上ないぐらいに可愛らしく、真っ赤に上気した頬に切ないぐらいの吐息だって愛おしく感じていた。
いいえ、私こそ、心の底から発情してしまったのかもしれない。
「ま、待って!それは君にはさせられない!」
「私がしたいのよ。」
「だめだって。本当に待って。」
カヴェは私を遠ざけようと私の胸に手を当てて、私の胸のふくらみを感じてさらに顔を真っ赤にさせた。
ちょっと、あなたは可愛らしすぎない?
自分は上手いとか百戦錬磨なセリフを言っていたわよね。
それだけ私を大事に思ってるのね。
「マネリ!!」
私はこの上なく大事なもののように、恥ずかしがり屋の彼にキスをしてた。