ひだまりの事故物件
どこぞの漫画で読んだことがある。
不動産屋は、物件を売るために嘘をつかざるを得ない。
売ってしまえば、そのあと何が起きても金だけは回収できるからだ。
「私は正直者な方なんですよ」
俺の担当をしてくれた不動産屋は、俺にそう言った。
彼の名前はたしか、そう、水戸部だ。
水戸部さん。
そして俺は武内、色々あったが、今はしがない20代のフリーターだ。
「この家はもうリフォームとかじゃ手に負えないんですよ、生活感が抜けなくて」
「以前住んでいた方は結構ストレスかかってたんですね」
柱にはいくつもの切り傷がある。
傷はすべて水平に切られている。
「ストレス……えぇ、まあ、そうですけど……原因はもうひとつ前にお住まいの方です」
水戸部さんはハンカチで額の汗を拭う。
緊張からなのかわからないが、俺と同い年くらいなのに、今の彼はだいぶ老けて見える。
まだ季節は春の中旬だ。
「本当にこの家でいいんですか」
「ええ、いいんですよ」
安いんですしね、と付け加えようと思ったが、やっぱりやめた。
この一軒家は日当たりのよい路地にある。
大通りとは道が一本ほど離れており、車の騒音も抑えてある。
家自体も決して古くはない、ただちょっと、いろんな意味で古臭いだけだ。
フローリングがぎしぎしと音を立てる。
駅までは徒歩8分、途中にコンビニあり。
この好条件で、俺の収入でもぎりぎり手が届く価格で売られているのだ、
「やめておいたほうがいいと思います」
水戸部さんはハンカチをしまいながらはっきりとそう言った。
きっとまだこの業界に来て日は浅いのに、俺のような若者に正直に言ってくれる。
俺がもし心変わりしたら評価につながらないのに、つくづくこの人は不動産業界に向いてないと思う。
俺は柱の角に持ってきたギターケースを置く。
夢を追っているとき、ずっと背負ってきた相棒を柱に預ける。
「幽霊が出るんですよ、ここ」
「あっはっは、それ絶対お客さんに言っちゃだめなんじゃないすか」
古いフローリングに直座り。
このあたりに座布団とこたつを置こう。
俺はフローリングを手でさする。
「武内さんがそうおっしゃるのであれば……あれですか、霊感無いから…ですか?」
「いや、知らないです、霊感とか」
幽霊はこの人生で一度も見たことがない。
だから俺には霊感はない、と思う。
実際、今俺が感じているのは安らぎだけだ。
窓の外から、葉っぱが風で揺れてこすれる音が聞こえる。
いい音だ。
「はぁ……わかりました。じゃあ、契約書類持ってきますね」
水戸部さんはそそくさとドアから出る。
まだ俺はこの家を買ったわけじゃないのに、野放しにしていいものなのだろうか。
それとも、あの反応を見るに、やっぱりこの家には「いる」のだろうか。
「いる……と、いいな」
フローリングにすわったまま、窓の外から差す午後の日差しを眺める。
春の陽気が入り込んでくる。
深呼吸をする。
俺は高校を中退したあと、ミュージシャンを志して家を出た、両親の許可も取らず。
そして一度も連絡することなく、ずっと夢を追いかけてきた。
耳に、ロックミュージックがこびりついている。
夢を追ってきたことに後悔はない。
俺は音楽が好きなんだ。
目を細める。
あたたかい。
まもなくして父が認知症になり、母が看病し続けた。
それを知っても、俺は夢を追い続けた。
正確には、実現した夢を現実に縫い留めるために走り続けてきた。
武内幹仁。
たけうちみきひと。
俺の名前。
両親がつけたこの名前を検索エンジンに打ち込めば、すぐに俺の画像が指し示される。
もっとわかりやすく言うと、俺はロックミュージシャンとして大成した。
俺の作った音楽は、多くの人に愛された。
ファンも大勢いる。
全員の名前なんて知らないが、全員に本気で感謝している。
後悔はない。
両親も俺の夢の実現を、子供の頃から応援してくれていた。
だから、きっと───。
亡くなった今も、両親は俺を恨んでいないだろう。
愛された。
俺は愛されていたのだ。
武内幹仁は愛されていたのだ。
俺は立ち上がって振り返る。
そこには縁側があった。
午後の日差しを受けて、まぶしい光が反射している。
「母さん、父さん」
全国の俺のファンへ。
俺の最初のファン、第一号と第二号を紹介するぜ。
え、どっちが一号かって?
野暮なこと聞くなよ。
ロックじゃねえな────なんて。
「ただいま」