鏡 ――あるいはK駅の女
うん。そうだね。そろそろ話しておいた方が良いかな。
何しろ僕たちも付き合いだしてもう半年だからね。
君が言うことも分かるよ。僕だって僕たちの関係が少し異常だってことは分かってるんだ。なにしろ20代の健康な男女が交際していれば、普通は性交渉の一つもするはずだもんね。それが半年間も付き合って一切無いってのはさすがに異常だと思っても仕方ないことだよ。
何も恥ずかしがることはないさ。そういうことをしたいとか、興味があるっていうのは別におかしいことじゃないんだ。君は何もおかしくない。
おかしいのは僕の方だよ。
24歳で健康な男子なら普通はセックスしまくりたいのは当然だと思うよ。君だってそう思うだろう?
だけど僕は24歳の健康な男子だけど、残念ながら普通ではないんだ。
別にセックスに対して嫌悪感や抵抗感があるわけではないよ。好き合う男女ならやって当たり前のことだし、なんなら映画やドラマで描かれるそういうシーンを美しいとすら思っている。
だけど、無理なんだ。僕にはそれは出来ないんだ。
え?ED?
うーん。そういう病気だったら逆に分かりやすかったのかもしれないけど、残念ながらこれはもうちょっと複雑な事情が絡んでるんだ。主に僕の心の問題でね。ある出来事がきっかけで僕は性にまつわる一切のことができなくなってしまったんだ。
これからその出来事を話して聞かせるよ。
たぶん君にとって面白い話ではないだろうし、ある意味では嫌悪感を催すようなものかもしれない。
だけど聞いてほしい。僕は君のことが好きだし、これからも恋人として付き合っていきたいと思っている。その付き合いをしていくうえで一切の性行為が出来ない理由を話す義務が僕にはあるから。
そしてその話を聞き終わった後で君に判断してほしい。
いったい僕の何がおかしいのかってことを。
●●●
社会人になって最初に思ったのは「夏休みが短かすぎる」ってことなんだよね。
君もそう思わないかい?大学生の頃の夏休みなんて7月の半ばから9月の頭まで丸々1か月半あったわけじゃないか。あの頃はよかったよね。
まあ、1か月半もあればちょっと長めの旅行に行ったりもするよね。海外とか。
僕の場合はもっぱら国内旅行だったけど。それも鉄道旅行ね。
君は「青春18きっぷ」って知ってるかい?聞いたことある?うん。一度使ってみるといいよ。アレは本当に学生の味方だね。何しろ一回分2400円くらいで、どこまででも行けるんだから。
ガチの鉄道ファン以外にも18きっぷのファンはけっこう多くてね。夏や冬の18きっぷ販売期間には国内のローカル線は18きっぷで旅をする人たちでごった返すのさ。彼らは「18きっぱー」とか呼ばれててね。僕も学生の頃はそんな18きっぱーの一人だったわけさ。
鉄道旅行っていうと、だいたい緻密に計画を立てて目的地までの最適な経路を考えるっていうのが一般的な楽しみ方だと思うんだけど、僕の場合はそういう計画的な旅行は性に合わなかったんだ。
まず時刻表も見ずに横浜駅に行く。そして出発時刻が一番近い列車に何も考えずに乗ってしまうのさ。
その時乗った列車が京浜東北線なら東日本、東海道線なら西日本。そんな風に目的地も移動経路もその時々の偶然に任せて何も考えずに電車に揺られて、何だか面白そうな所に着いたら途中下車してみる。
そういう自由で気ままで出鱈目な旅が大好きだったんだ。
背中のリュックには2日分の着換えや歯ブラシ、タオル、寝袋、スマホの充電器、あとは暇潰し用の文庫本が5冊くらい。それだけあれば十分だった。着替えは旅先のコインランドリーで洗ってたしね。
夏休みの半分くらいはそれだけ持って日本中を鉄道でグルグル回っていたんだ。楽しかったよ。何しろ毎日が非日常だからね。次々に新しい町を訪れてはその町の名所を見たり土地の名物を食べたりしてね。
モラトリアムならではの自由と孤独を最大限に満喫していたわけさ。
ただ、こういう無計画旅行の一番の難点は寝床の確保なんだよね。
何しろ自分がどこへ向かっているのか自分でも分からないだろ?
だからその日最後にたどり着いた町で宿を探したりするわけだけど、夏休みの繁忙期で観光地の旅館とかホテルとか民宿とかはだいたい予約なしではどこも泊まれないんだ。たまに運が良いと部屋に空きがあって泊まれたりするんだけど、それは本当にたまにだったね。
一番悲惨なのはその日最後にたどり着いた駅が何もない山奥だったりしたときさ。乗り継ぎや終電の関係で、一日の最後にそういう所で足止めを食らうことは何度かあったよ。
そうはいっても僕だって無計画な旅はしても無謀な旅をしているわけじゃない。ちゃんと野宿や一夜を安全に過ごすノウハウは持っているつもりさ。現に旅の間はほとんど野宿だったけど、身の危険を感じたことはほとんどなかったね。
その日、最後に訪れた町は西日本のK町という海沿いの町でね。駅の名前もそのままK駅っていうところだった。到着したのはだいたい22時過ぎだったかな。地方だと終電が早いんだよね。
マイナーな観光地だし泊まれるような所はそんなに無い。有ったとしてもどこも満室だった。まあ、ハッキリ言ってそこまで屋根のある場所で一晩過ごすことにこだわりがあるわけじゃないし、その時もさっさと野宿に頭を切り替えて寝床になりそうな場所を探し始めたのさ。
大抵の有人駅では終電後にシャッターを閉めきっちゃって人が入れないようにするんだけど、幸いなことにK町の駅は昔ながらの建物で解放式になってたから待合室で一晩過ごせそうだった。
駅にはトイレもあるし、一晩過ごすには最適な場所だった。以前にも駅の待合室で一夜を過ごしたことは何度もあったし、この時も特に難しいことは考えず、ここで一夜を明かそうと思ったんだ。
ただ、駅員さんがいるうちはさすがに遠慮するからね。駅員さんが駅からいなくなるまで町をうろついて時間を潰すことにしたのさ。
その時に駅のすぐそばで24時間営業のコンビニも見つけて、ますますこの町が気に入ったよ。コンビニは一夜を凌ぐための大事な拠点だからね。そこで軽食を買って海岸の方まで歩いて行ったのさ。
街中は人気が絶えて寝静まっているように見えた。まあ、地方の小さい街だと娯楽もロクにないし、仕方ないかもね。
夜の海岸は素敵だったよ。遠くに見える灯台の明かりや漆黒にたゆたう夜の海、それになんと言っても空一面に広がる満天の星。田舎だと明かりが少ないし空気が清浄だから星が綺麗に見えるんだ。
僕はその星空を眺めながら海岸にあった流木に腰かけてコンビニで買った軽食とコーヒーで腹を満たしたんだ。
そのあと、しばらくは星を見ながらボーっと過ごした。
そして日付が変わる頃のタイミングで駅の方に戻って行ったんだ。
駅には誰もいなかった。
まあ、当然だよね。電車は動いてないし、用がある人もいないだろうしね。
僕は寝床の確保の前にトイレを確認することにした。小さい駅だったけど、ちゃんとトイレは男女別になっていて個室の便座も和式でなくて洋式だった。これは地味に嬉しかったね。
待合室も寝袋を広げて十分に足を延ばせるような空間があったし、今夜の寝床として申し分のない場所で僕は満足したんだ。
トイレで歯を磨いて駅前の自販機で買った水で口をゆすぐ。貴重品は念入りに身に着ける。リュックを枕にして寝袋の上に横になれば、あとは朝を待つだけ。
その日も僕は何度も繰り返してきた手順通りに一夜を凌げるはずだった。
ただ、この日はなんだかなかなか寝付けなくってね。寝る前にコーヒーなんか飲むんじゃなかったなあ、とか何とか色々考えて後悔してるうちに、時間は深夜2時を回っていた。
6時の始発に乗るつもりではあるけど、出来るだけ睡眠時間は確保したい。さっさと眠りにつきたいのに、そう思うほどなかなか寝付けない。
突然だけど、君には寝つけない夜のルーティンってあるかい?
人によって色々だと思うけど、寝付けない夜にする習慣とか癖みたいなものって誰にでもあると思うんだよね。例えばホットミルクを飲むとか、眠くなるまで深夜ラジオを聞いてるとか。
僕の場合も寝付けない夜にそれをやると一発で寝られるっていうルーティンが一つだけあったのさ。
それがね……恥ずかしいんだけど、僕のルーティンっていうのは、自慰行為をするってことなのさ。
まあ、ありきたりといえば、ありきたりかもしれないけど、実際に人に言うと結構恥ずかしいもんだよね。
それでね、その夜も僕はぐっすり眠るために自慰行為をしようと思ったんだけど、生憎と場所が悪い。
駅の待合室なんかでそういうことをするのはさすがに憚かられる。いくらなんでも非常識すぎるってことくらいは僕にも分かるさ。
その時ふと思いついたのは駅のトイレの個室だよ。
あそこなら鍵が掛けられるし、人も来ないだろう。それに洋式だから便座に腰かけてコトを済ませられるってわけだ。
そこまで考えてから僕はK駅のトイレで自慰行為をする決心をしたのさ。
まず、僕はさっき発見したコンビニでエロ本を買って来た。スマホでエロ画像を見れば手っ取り早いんだけど、生憎その時はスマホの充電を切らしていたんだ。こういう旅だといつでもスマホの充電が出来るわけではないからね。
店員からは「さっき買い物に来た奴が今度はエロ本買って行ったwww」とか思われたかもね。まあ、旅の恥はかき捨てってよく言うし、その時はあまり気にしないことにしたんだ。
エロ本を持って個室に入り便座に腰かけてから鍵を掛けた。準備は万端だし、さあ、しようってね。
最初は一発抜けば、ぐっすり眠れると簡単に考えたんだけど、なかなかコレが上手くいかないんだ。
上手くいかないっていうのは……つまり……僕のナニがエロ本に載っている写真に反応しなかったってことなんだけどね。
ついでに言うと駅のトイレは電気も薄暗いし、その電気に羽虫たちが集まってきていた。お世辞にも衛生的とは言えない環境だったっていうことも影響していたと思う。
エロ本の中では様々な女たちがあらゆる恰好で痴態を披露していた。シチュエーションも様々で、コスプレ物だったりSMみたいな拘束をされているやつだったり……。ただ、そのどれにも僕の股間は反応することなく、萎れたままだったんだ。
その日は一日中移動していたこともあって疲れていたし、勃たないのも無理はないかもしれないけど、その時の僕はとにかく焦って焦って仕方なかった。そのうち何でもいいから早く抜かないとって強迫観念に囚われてしまって余計に萎れていったんだ。
僕は一度個室を出て顔を洗おうと思った。もう自慰行為なんて諦めてさっさと寝てしまえばよかったのに、このときは意地になっていて何が何でも一発は抜かないと気が済まない状態になっていたんだ。
そして個室を出てトイレの手洗いで顔を洗ったんだ。蛇口から吐き出される水は生温くてなんだか余計に顔がベタベタするような気がした。
その時だよ。
僕が顔を洗って、ふっと目の前の鏡を見たとき、そこには僕ではない別人の顔が映っていたんだ。
着ている服装は間違いなく僕のものだった。だけどその首から上は見慣れた自分の顔ではなかった。
それは女の顔だった。
髪は長く肩の先まで垂れている。顔の輪郭は細く顎に向かってシャープな印象を受ける。それでいて唇はぷっくりと肉感的だ。鼻筋は通ってメリハリがある。その上の目元は長い前髪に隠れて見えなかったけど、一目で美人だということが分かった。
僕は驚いて声も出なかったんだけど、不思議と恐怖は感じなかった。
ただただ目の前の鏡に映る女の顔に見惚れていたんだ。
しばらく鏡の女に見惚れた後で、僕は後ろを振り返った。当然のようにそこには誰もいなかったし、辺りに人の気配はまるでない。
そして僕が再び鏡を見た時、そこに映っていたのは見慣れた僕の顔だった。
いったい今のは何だったんだろう?
しばらくそんなことを考えていたが、すぐに僕の体にある変化が現れていることに気付いたんだ。
股間が今まで経験したことがないくらいに怒張していたんだ。
さっきまではどんなエロ写真にも反応しなかった僕のモノがさっきの鏡の女によって最高潮にまで高まっていた。
そこからはさっきの個室に駆け込んで、狂ったように自慰行為に耽ったよ。
頭の中にはさっきの鏡の女の顔があった。
結局そのあと、僕は朝が来るまで一睡もしないで何回も何回も射精し続けた。
その後、僕は特に何事もなく旅を続けて、大学で後期の授業が始まる1週間前には、かつての日常に復帰していた。
●●●
実はこの話はここからが本番でね、ここまでは前置きだったんだ。
ここからの話を君には是非聞いて欲しかったんだ。聞いてくれるかい?
そう?ありがとう。じゃあ話すよ。
それから9月になって大学の授業が再開されると、僕は自然にかつての日常に埋没していった。
平日はどうでもいいような授業を聞いて放課後にはサークルに顔を出す。休日には次の旅の資金を貯めるためにバイトに勤しむ。
ごく普通のどこにでもあるつまらない男子大学生の日常さ。
ただ僕の日常には以前とは変化したことが一つだけあったんだ。
僕はその後の生活の中で、あるものを幻視するようになったんだ。
そう。K駅で見た鏡の女さ。
最初にK駅の女を幻視したときのことはよく覚えているよ。街の雑踏であの女とすれ違ったと思ったんだ。思わず追いかけて肩を掴んだよ。だけど、そこにいたのは全くの別人で、あの女とは似ても似つかないような高校生くらいの女の子だった。その女の子はだいぶ怖がらせちゃったみたいだし、悪いことをしたと思うよ。その時はあっさりと「人違いでした」って謝ってすぐに別れたけどね。実際は頭の中はものすごい興奮していたんだ。
幻を見てしまうくらいに僕はあのK駅の女に夢中になっていたのかと、その時は思った。
あの夜、鏡の中に映った不思議な女の姿に恋焦がれているのではないかとね。
それからさ。あの鏡の女の幻覚が毎日のように見えるようになったのは。
街の雑踏の中や通学の電車の中、講義中の教室でもあの女の姿が見えるようになったんだ。
まったく気が狂いそうだったよ。もしくはもう既に狂っていたのかもしれないけどね。
だけどね、あの女の顔が見える時っていうのはある法則性があったのさ。
その法則性が何かっていうとね、女の顔を幻視する時は必ず僕が性欲を催した時なんだ。
街中でスタイルの良い女とすれ違った時、満員電車の中でOLの体と背中合わせに密着している時、大学の講義中に前の席に座っている女の子が髪をかき上げた時、そういうふとした瞬間に感じる些細な性欲と連動してあの顔が見えるようになっていったんだよ。
そう。僕の精神は性欲とあの女とを同一視していたんだ。K駅の女を理想の女性性として偶像視していたと言っても過言ではないかな。
ところでその当時、僕にも付き合っている女の子がいたんだ。
彼女はサークルの後輩で口数は少ないけど、よく気が利く、丸顔で可愛らしい感じの女の子だったよ。
見た目はK駅の鏡の女とは似ても似つかないような真逆のタイプだし、決して美人とは言えないような容姿ではあったけど、僕は彼女の顔を好ましく思っていた。端的に言ってしまえばタイプだったし、僕は彼女の事が好きだったんだ。
それがある日、僕の下宿で彼女と何回目かのセックスをしようとしていた時の事さ。
K駅の女の幻視と僕の性欲が連動しているっていうのはさっきも言ったけど、彼女との性行為に関しては例外だった。彼女との性行為をする時にあの女の幻視を見ることはそれまで一度もなかった。それは要するに僕が彼女を愛している証拠なんだと僕は勝手に思っていた。もちろん鏡の女の事なんか彼女には言うはずもないし、その日も穏やかに愛おしい時間が流れると思っていた。
ただ、その日はなんだか上手くいかなかったんだ。うん。つまり勃たなかったんだ。
それで彼女は機嫌が悪くなっちゃってね。僕は一人洗面所に退散したんだ。
その時さ。洗面所の鏡にあの女の顔が映っていたのは。
例の前髪で目元を隠した美しい女。K駅のトイレで見た幻が再び再現されたんだ。
あの時と同じだ。僕はそう思ってゆっくりと自分の股間へと視線を降ろしていった。それはこれ以上ないくらい怒張していた。
それから後は自分でも信じられないくらい凄かったよ。彼女もすっかり機嫌を直してくれてね。とても素敵な夜だったよ。
ただ一つだけ気がかりなことがあった。
そう。もう分かるだろ?僕には愛しい彼女がもうK駅の女にしか見えなくなっていたんだ。
その時は、今回だけで次からは大丈夫。ちゃんと彼女の素顔を愛せる。そう思って僕は彼女と抱き合いながら一つのベッドで眠りについたんだ。
翌朝からだったよ。彼女が鏡の女にしか見えなくなってしまったのは。
それ以来、僕は彼女の素顔が見えなくなってしまったんだ。思い出そうとしてもぼんやりと靄がかかってしまって、うっすらと見えたと思ったら、あの鏡の女なんだ。写真を見てもそうだった。僕と彼女の二人で撮ったはずの写真なのに、写っているのは僕と前髪で目元を隠したあの美しい女なんだ。表情の分からない女の横でニヤけている自分の表情がひどく虚ろに感じられたよ。
彼女にはもちろん黙っていたさ。言ったとしても気が狂ったと思われるだけだしね。それからというもの、彼女と二人で過ごす時間は常に鏡の女と一緒にいるような気分になった。
それは自分で言うのもなんだけど、倒錯した恋愛だったと思う。僕は間違いなく彼女を愛していたし、彼女だって僕に似たような感情を持っていたはずだ。だけど僕には彼女の素顔が分からないんだから。
そして、それだけでは済まなかった。だんだん僕は鏡の女の幻視を見る回数が増えていった。
最初は1週間に2,3回だったのがほぼ毎日になり、徐々に1日の内でも幻視を見る回数がどんどん増えていった。
……そしてそのうちにおよそ全ての人が鏡の女に見えるようになってしまったんだ。
もう自分でも何が何だか分からなかった。最初は自分の性欲と連動していると思っていた女の幻視は24時間常に見え続けるようになってしまったんだ。男とか女とか関係なく、全ての人が鏡の女に見えるんだよ。
もはやその顔を美しいとは思えなくなっていたよ。ただただ恐ろしい。
鏡の女以外の顔を、僕の愛する彼女の素顔を見たい……と、ただただそれだけを考えて気が狂ったような毎日を過ごしていたさ。
それでね、ある時気付いたんだ。やっぱりこの幻覚は自分の性欲と連動しているんだって。
老若男女を問わず、男だろうが婆さんだろうが関係なく、全ての人間に対して欲情していたというわけではないんだ。僕は僕の幻覚に欲情していたのさ。ドミノ倒しの最初の一枚から次々に連鎖して倒れていくように、最初に欲情した一人から次から次へとK駅の女の幻覚が連鎖していき、最終的に全ての人間が同じ一人の女に見えてしまう。そういうドツボにハマった状態になっていたんだ。
当然のように僕の生活は荒んだよ。何しろ家に籠りきりで、誰とも顔を合わせようとしない。家族や彼女からの連絡も一切見ようとしなかった。もはやその時の自分の性欲に対して僕は疑心暗鬼になっていたんだ。電話で彼女の声を聞くだけで欲情する気がした。LINEの文字列にも劣情を催すような気がして怖かった。
ありとあらゆる全ての情報をシャットアウトして耳を塞ぎ目を閉じていた。
だけど無駄だった。目を閉じてもあの顔が僕の脳裏に浮かんでくるんだ。そして僕は否応なしに性欲を刺激され、ありとあらゆる全てのものが鏡の女に見えてしまう。
それだけじゃなかった。僕のナニはそれ以来ずっと勃ちっぱなしだったんだよ。ずーっとそれが続いていたんだ。何回射精しようとそれは硬いままで、一切治まる気配がなかった。
もうその時点で僕の精神は限界だった。僕は自分の欲情に耐えられなくなっていた。もうあの鏡の女の顔を思い出したくもなかった。
そんな時だよ。ふと気付いたんだ。
全ては僕の性欲が原因だ。ならばその性欲を断ち切ってしまえば、この幻覚からは解放されるんじゃないかって。
そう思ってから僕の行動は早かった。
台所に行って出刃包丁を手に取ると、一瞬の躊躇もなく、それで自分の………………
その日、タイミングよく彼女が僕の部屋に様子を見に来てくれなかったら、僕は今ごろ出血多量で死んでいただろうね。僕が命を取り留めたのは彼女のおかげさ。彼女にはいくら感謝してもし足りないね。
僕が病院で目を覚ました時、側にいたのはやはり彼女だった。僕が目を覚ましたことに気付くと目に涙をいっぱいに溜めて僕に抱き付いてきた。その顔は丸顔で決して美人ではないけど、僕の愛したあの彼女の顔だった。
まあ、そんなわけで僕はその日以来、性的には不能者となってしまったんだ。
だけど、彼女は良く出来た人でね。僕が不能者だとしても一生側にいるって言ってくれたんだ。僕もそんな彼女を一生幸せにしたいって思ったよ。
それから月日は流れて、僕は大学に復学した。周りの人間には病気療養で休んでいたって言ってね。幸い留年もなく卒業出来て、僕は晴れて社会人となった。
そのころには彼女とは同棲するようになっていたし、そろそろ結婚も考えるようになっていた。
だけどね、やっぱり駄目だったんだ。元々僕たちカップルはセックスが好きな方だったし、それが出来なくなったことで些細なことでイライラが募って衝突も多くなった。本当は他にも不満は色々あったと思うよ。けどやっぱり一番は僕が性的に不能だったからじゃないかな。
同じ家にいても彼女とすれ違うような日々が増え、寝るときも彼女とは別々になり、そんな日常にも慣れてきたある日の事さ。
僕はふとあのK駅の女のことを思い出したんだ。自分で自分を去勢して以来、僕は性欲を感じることが無くなっていたので、あの鏡の女のことを考えることもなかったんだ。
そして気付いたんだ。あんなに幻視した鏡の女の顔を僕は思い出せなくなっていることに。
あの女の顔に憑りつかれていた時には忘れたくて堪らなかったはずなのに、今となっては思い出せなくなった女の顔が気になって仕方ない。僕はどうしてもあの鏡の女の顔を見たくて堪らなくなったんだ。
それからというもの、僕は鏡を眺める時間が増えていった。
当然のように彼女からはまた頭がおかしくなったと心配されたよ。だけどそんなことどうでもよかった。あの鏡の女に会いたい。それだけを考えていたんだ。
結局、僕は一時は結婚も考えた彼女の顔を愛せなくなっていたんだ。それから彼女と別れるのに大した時間は掛からなかった。もうこんな女なんかどうでもよかったんだ。
会いたい。鏡の女に会いたい。それだけ考えて街をさまよったんだ。仕事もやめた。家にも帰らなかった。本当に僕は街という街をさまよい続けてここまで来たんだ。
そして、半年前さ。やっと君に出会えたのは。
君はやっぱりこの駅にいたんだね。