バイバイ。殺人事件。
舞台の緞帳は上がり、決まりきった役を演じるだけの悪夢のような一日が始まろうとしていた。
役所も、もう決まっている。
俺は殺される方で、もう一人は殺す方。以上。
実にシンプルでいいね。
なるべくなら、うまく殺されてやりたいもんだ。
そして、できればそいつも、うまい役者であって欲しいね。
じゃなけりゃ、殺される甲斐がない。
男はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
そして、雑居ビルの屋上から街を眺める。
車は予定通り、このビルの前に向かっていた。
都市特有の朝の交通渋滞に巻き込まれながら、ゆっくりゆっくりと。
男はそんな光景を目を細めて観察する。
そして、時が来るとまだ半分も吸っていないタバコをその辺に投げ捨て、ビルの非常階段をゆっくりと降りた。
―――
コンコンコン。
「ヘイ。彼女」
その赤いスポーツカーの持ち主の女は、いきなり男に窓を叩かれて驚いた。
当然無視する。
こっちは今、出勤途中で忙しいのだ。
変な男に付き合っている暇などない。
コンコン。
「ねぇ、気づいてよ。ちょっと話があるんだ」
女は再度無視する。
気づいてないとでも思ってるの?
春になったから、朝から頭のおかしい奴が湧くわけ?
コンコンコン。
「ねぇ、彼女ってば。こっち向いてよ」
女は助手席側のパワーウインドウを開けた。
そうして、怒鳴り散らしたい衝動を抑えつつ、
「しつこいわね。何の用?」
と睨みつけた。
「ワオ。怒った顔も、とびきりの美人だねぇ」
「ナンパ? なら、間に合ってるから。とっとと失せて。今、忙しいのよ」
「忙しい? けど、渋滞してるじゃない。暇でしょ? デートしようよ」
「はぁ? 頭、腐ってんの? だれが月曜の朝っぱらから、あんたみたいな怪しい男とデートしたいと思うっていうの?」
女はパワーウインドウを閉めた。
が、男はいつの間に鍵を開けたのか、助手席のドアを開け、車内に滑り込んできた。
女は今度こそ、大声をあげた。
「あんた、マジ何考えてんの!? 警察を呼ぶわよ!?」
「まぁまぁ……落ち着きなって。ちゃんと前見ないとぶつかっちまうぜ?」
「これが、なんで落ち着いていられるのよ!? 何する気!?」
「何って……言ったじゃん? デートだって」
男はそう言うと、リクライニングを少し倒し、律儀にシートベルトを装着する。
女は鳥肌が立つほどの怒りを感じたが、どういうわけかこの男、かなり顔がいい。
少々タバコ臭いが、服装もセンスがあるし、何より全体的に金がかかっている。
それでいて、自然にそれらを着こなしているのだ。
十中八九、金持ちね。
ナンパ慣れした、ボンボンかしら?
なんか、あんまりがっついた雰囲気もないし……
ここで車を止めて、警察を呼ぶのは簡単だけれど、会社に着くまでの暇潰しくらいなら、口車に乗ってやってもいいかな……
そう女は思い直した。
「デートって……なんで私なのよ。もっと暇そうなの、街にいっぱいいるでしょ?」
「君じゃなきゃダメなんだ。ところで、お名前は?」
「教えない。それに、まずは自分からでしょ?」
「俺はリョウ。で、君は?」
「……アサヒ」
「アサヒ。いいね。爽やかな感じ」
「あっそ。ありがと」
「ところで、アサヒ。これから海にでも行かないか?」
「……はぁ。やっぱマジ、あんた頭おかしいわ」
アサヒは遅々として進まない渋滞にイライラしながら言う。
これでは30分経っても会社には着きそうにない。
ああ、くそ。私もどうかしてるわね。
「ねぇ、やっぱり降りて? 警察は呼ばないでおいてあげるから。あんたと、これ以上話したくなくなった」
「あんたじゃない。リョウだよ?」
「うざっ。じゃあ、いいから降りて、リョウ。ほら、バイバイ」
「ふーっ……ま、仕方ない。じゃあ、またね」
「はいはい。またねー」
またとか。絶対ごめんだし。
リョウは車を降りると、アサヒの車が見えなくなるまで見送った。
アサヒはバックミラー越しに目が合って、そんなところも気持ち悪いと、心底思った。
―――
「やぁ」
アサヒが会社の昼休みにファストフード店の列に並んでいると、リョウが後ろに並んで言った。
アサヒは言葉も出ないくらいゾッとした。
「あんた、マジで? 超引くんだけど……もう犯罪の域だよ?」
「たまたまだよ。たまたま」
「よく言うわよ……あんたみたいのが、人を殺すのね、きっと」
「ははは。それはあんまりだなー」
アサヒは列を離れようとした。
けど、リョウが追う素振りを見せたので、結局そのまま並ぶことにした。
「いよいよ、警察を呼ぶべきかしら?」
「俺は呼んでもらっても構わないけど、あれって呼んだ方もかなり時間取られるよ? 今日、仕事なんでしょ?」
「わかってるわよ。変態」
アサヒはフィッシュバーガーのセットを頼んで、席で食べる。
リョウは当然のように、その向かいでベーコンレタスバーガーを齧っていた。
はたから見たらカップルに見えるだろうが、アサヒの目は怒りに満ちていたから、喧嘩中だと思われるだろう。
「ねぇ、あんた、いつまでつきまとうつもり?」
「あんたじゃない。リョウだよ?」
「死ね。質問に答えろ」
「死んだら質問には答えられないなぁ」
「じゃあ、質問に答えて、それから死んで?」
「まぁ、それができたらね?」
「はぁ? 答えになってない」
アサヒはフィッシュバーガーを食べ終わると、包み紙をグシャグシャと丸めた。
「とにかく。もうついてこないで。いい?」
「わかったよ。ついてはいかない」
「引っかかる言い方ね? 待ち伏せるつもり?」
「ワオ。アサヒは美しいだけじゃなくて、頭もいいね」
「……言っとくけど。次、私の前に現れたら、マジで殺す」
アサヒはドスをきかせて言った。
リョウはひとつ息をついて、アイスコーヒーを飲む。
「わかった。その時は殺してくれ」
「ええ。そうする。じゃあ。さようなら」
「ああ。さようなら」
リョウはファストフード店を足早に出て行く、アサヒをいつまでも見送っていた。
―――
夕方。
アサヒは駐車場から自分の車がなくなっていることに気がついた。
「あれ? おっかしいな……?」
確かにここに駐めたはず。
勘違い?
でも、駐車場全て探しても、どこにもアサヒの車は見当たらなかった。
トラブルがあって、レッカー移動された?
いや。そんなこと……
その時、アサヒはもうひとつないものに、ようやく気がついた。
鍵だ。
キーホルダー。
家の鍵と車の鍵が両方ついてるやつ。
今日、私はあれをどうしたっけ?
デスクに入れた?
いや、そんなはずない。
鞄に? けど、ちゃんと昼食の時はポケットに……
「あっ……」
おいおいおいおい……
まさか、あり得ねぇだろ?
あの野郎……
だとしたら、絶対に許さねぇ……
言い知れぬ恐怖と怒りにアサヒは全身を震わせた。
そして、駐車場の管理人に防犯カメラをチェックしてもらい、決定的な証拠を得るに至ると、もうどうにかなりそうだった。
「これはもう立派な窃盗……いや、もうそんなことじゃ、到底おさまらない……! それ以前の問題よ!」
アサヒは警察に電話をするよりも先に、社用の自転車を拝借すると、街道を飛ばしに飛ばした。
ミニスカート? 関係ねぇ!
絶対あいつは、ナビの履歴とか見て、私の家に行く!
でも、今の時間帯は渋滞してるはず!
これで行けば、途中で追いつける!
―――
アサヒのその予想は的中した。
アサヒは見慣れた赤いスポーツカーを渋滞の中に見つけると、自転車を道端に放置して、駆け寄った。
中を覗き込む。
そこには当然のようにハンドルを握っているリョウの姿があった。
リョウはアサヒに気がつくと、運転席側のパワーウインドウを開けた。
「やぁ。早かったね……」
と、リョウが言い終わるより前に、アサヒの拳がリョウの顔面をジャストミートした。
「いいフックだ。アサヒは美しいだけじゃなくて、強い」
「うるせんだよ! さっさと降りろ! このサイコ野郎が!」
「まぁまぁ、落ち着いて。道の真ん中だよ?」
「関係ねぇ! お前が降りて、私が乗る! それで済むことだろうが!」
「まぁね。でも、俺が降りたら、誰が俺を捕まえるの? そのまま逃げちゃうかもしれないよ?」
「大丈夫。私が後ろから……轢いてやる!」
「その手があるか。まぁ、でも俺は逃げも隠れもしないけどね」
リョウは車を道端に寄せると、ハザードを点け車を降りた。
そこで、アサヒはもう一発、リョウを思い切り殴った。
すると、緊張の糸が切れたのか、アサヒの瞳からボロボロと止めどなく涙が溢れた。
「もう、どっか行って」
「ああ。そうする」
リョウが言うと、アサヒは車に乗り込み、渋滞の中へと消えて行った。
―――
アサヒは涙と震えを抑えることができなかった。
そして、今日は知り合いの家に泊まろうと決意する。
家は絶対に危ない。
あいつに知られたはず。
あそこには、もう、帰れない。
―――
リョウはアサヒが残して行った、自転車に乗り、アサヒの家の前に来ていた。
辺りはもう真っ暗だ。
「まさか。これで帰ってはいないよな?」
自転車を適当に駐め、リョウはマンションの中に入る。
オートロック式の内扉がないタイプのマンションだ。
この時代でも珍しい。
「女の子はこういうところに住むのは控えましょうねぇ」
リョウは迷いなく階段を登る。
部屋番号は車の中にあった、車検証で確認済みだ。
合鍵も昼間のうちに作っておいたし。
あとは……
うまくやるだけだ。
リョウはアサヒの部屋の前まで来ると、自然な動作で鍵を差し込み、上下とも開けた。
たぶん両方しているのではないかと思ったが、予想通りだ。
ドアを開けた。
中は真っ暗だ。
が、そこに人影があった。
その人影はリョウが半身だけドアに滑り込ませると、躊躇なく突進して来て、リョウの脇腹に包丁を突き立てた。
「ぐはっ……」
リョウが声を漏らす。
その声を聞いた、相手は
「えっ……?」
とおののいた。
「お、男……? ク、クロガネさんじゃ……」
「へへっ……あんた、アサヒの元カレか?」
「いや、わ、私はそんなんじゃ……あんたこそ、誰なんだ……?」
「俺はただの……殺され役さ……」
リョウの腹から血が流れ、ドアの前に血溜まりができていた。
それを見た相手は急に焦り始めた。
やっと事態を飲み込めたかのように。
そして、わなわなと手を震わせ、包丁を玄関に落とした。
「わ……わ……わたしは……う、う、うわああああああああ」
男はリョウを押しのけ、走り出した。
廊下の電灯に照らされ、男の後ろ姿が見えた。
「あれは確か……アサヒの会社の取引先の社員じゃなかったか? 容疑者リストから、真っ先に外された男だ」
リョウは男が逃げ去ったのを確認すると、腹に仕込んでおいた血糊袋を取り出し、念のため、腹に傷がないかを見ておく。
案の定、少し刺されていた。
「まったく……とんだ大根役者だったな……今回のやつは」
リョウは止血するためにドアを閉め、玄関の電気を点けた。
そして、軽く手当を済ますと、依頼人から貰った古い新聞の切り抜きを取り出す。
見ると、記事の内容が殺人事件から横領事件のものに変わっていた。
「一応は任務完了かな……」
リョウはほっとして、足元を見る。
そこには血糊が大量に残っていた。
けど、これを掃除するのは流石に時間がない。
そろそろお迎えが来る頃だ。
それにアサヒがここに警察を呼んでいる可能性も高い。
「お迎えと、警察、どっちが先かな?」
リョウは喉の渇きを感じ、土足で部屋に上がり込むと、アサヒのグラスを借り、そこに氷を入れ、キッチンにあったブラックニッカを注いだ。
そして、一息に飲み干す。
すると、ほどなく迎えが来た。
「お。助かった……さて、と。じゃあ、達者で暮らせよ。アサヒ」
リョウの姿がすーっと消える。
そして……
誰もいなくなった部屋で、グラスがカラン、と小さく鳴いた。
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では、またどこかで。
降瀬さとる