2話「ノエルとヴィア」
ここは王都からは程遠いランカルス領。険しいウェーダス山脈に阻まれ、王都への行き来は難しい。主だった特産物も特にない。故に、外の情報はあまり入っては来ない。つまり、戦や政などとは全く縁の無い所だ。
目立った名所などは無いが、自然豊かな地風や穏やかな気候から貴族たちの避暑地として人気のある場所だ。月に二度開かれる蓮月市では、王都から多くの行商人が集まり、物資や人の交流が繰り返されている。
正面にはレキレル海が臨め、背後にはグルネリ山脈。その麓には湖があり、自然豊かな、穏やかで活気のある街だ。この地方は、海から吹く風と山脈から降りてくる風がぶつかり、雪が多く降る。
その所為もあり、通りに並ぶ家々の屋根はとても急斜に作られており、家の前には二十cmほどの溝が設けられていた。その溝の所為で、通りと家とを結ぶように、どの家にも、小さな橋が掛けられていた。
溝にはさほど深くない程度の水が流れており、冬場はあそこに屋根から落ちてきた雪を入れ、溶かすのだろう。
けれど、使用法はそれ以外にもあったらしい。よくよくみると、籠に入った果物や、ビンなどが浸けられているのが見える。
どうやら、春先から秋までの間は何かを冷やすために使われるらしい。
今は春。長かった冬も終りを告げ、自然の木々達が芽吹く季節になった。当然ながら、どちらから吹く風も、温かで頬に心地よい。
溝がある所為か、通りの幅はとても広かった。そして、石畳のそこかしこには、布を広げ、物を売り買いする人々が見受けられた。
市場は人で賑わい、広げられた布の上には、周囲の山々から採れる果物や珍しい植物。リョウレキ海から捕れる、新鮮な魚介類が所狭しと並べられている。それらを横目に見ながら青年は名も知らぬ少女の後をついてゆく。
街の様子を眺めつつ、豊かでのんびりとした場所だと、ふと思った。
この土地を治めているのは確かランカルス・フェンリィという人物で、文武に長け聡明で、領民からの信頼も篤いと聞く。元は王宮仕えの官だったそうだ。聞く所に寄れば高官の位に就任が決まっていたのに、それを退き、敢えてこの辺境の地に来たらしい。
その理由は最後までいわなかったらしく、それを知るものは誰一人としていない。
そういえばあいつが、今は60も過ぎて、実質街を治めているのは、その息子のルークだとどうでもいい事をつらつらと述べていたな、と思い出す。
石畳の続く道を、少女に連れられて下って行く。
立ち並ぶ店先には草木で染めたのか、淡い色の反物が並べられている。通りを歩いているとよくよく眼にする。どうやらこの街の特出品であるらしい。
ばっちり青年と目の合ってしまった恰幅のいい女が、手に持っていた染め物を見せてくる。一緒に歩いている女の子にどうか、といういらぬ事を言いながら。どうやら勘違いしているらしい。
青年はそれを微苦笑で、断った。女は残念そうにしていたが、すぐに新しい相手を見つけ、そちらへと行ってしまった。
そんな事をしていると、いつのまにか目の前を歩いていた少女の姿が消えていて、青年はビックリした。慌ててきょろりと辺りを見渡すと、少し坂を下った所を歩いているのが見えた。少し早足になり、少女に追いつく。追いついて来た青年を、振り返って見遣り、少女は小さな小屋を指さした。
「あそこがあたしの家」
少女に案内されたのは木で出来た小さな家だった。家の壁には蔦が這い、淡い色の花を咲かせている。
「裏に井戸があるから」
少女が、パン籠に被せていたタオルを手渡しながら、家の裏手を指差す。
「おう」
それを受け取り、ふらふらと青年は歩いて行く。それを見届けてから少女は家の中へと入った。
パンの入った籠を机に乗せ、竈に薪をくべる。火のついた紙を、竈の中に放り込む。火は、よく乾かした木に、燃え移る。そこまでを終えると、戸棚から二人分の食器を取り出した。
程なくして、髪を洗い、服についた埃を払い落とし、幾分すっきりした感じの青年が部屋に入ってきた。少女は入ってきた青年を見、驚きに眼を見開いた。
黒い髪に、蒼い眼。左耳には、銀のピアスが揺らめき、陽光を反射してキラキラと輝く。まくった袖から覗く腕は、細くしなやかだが、程よく筋肉がつき。今更だが、随分と背が高かった。
借りたタオルを肩にかけ、まだ湿っている髪を煩そうにかきあげる。一連の動作が、異様なほど様になっている。見ればなるほど、随分な美男子であった。先ほどまでのボロ雑巾のような様相とはまるで違っている。
青年は部屋をぐるりと見まわした。部屋のほぼ中央には少し大きめのテーブルが一つと、椅子が二つ置かれている。竈はその斜め前にあり、今は何かを温めているようだ。
けれど、一番青年を驚かせたのは家の屋根を突き破り生えている、大木だった。これは丁度家を分断するように生えており、狭く感じられる原因であると思われた。
「何よ・・・狭い家で悪かったわね」
まじまじと眺めすぎたらしい。むっつりと呟かれた台詞に、青年は少女に眼を向ける。
「いや、いい家だ」
苦笑してそう告げると、
「座って、すぐ出来るから」
照れ隠しのためか、青年と顔を合わせないように作業を進める。それに気付かぬ振りをして、青年は示された席に腰をおろした。
やがて、食卓の上にライ麦のパンと、卵のスープが並べられた。湯気の立ち昇るスープを見ながら、青年の喉が上下する。
彼にとっては、久方振りの食事だ。
「どうぞ。おかわりはあるから」
向かいの席に腰を下ろしながら少女が言う。青年は行儀よく手を合わせ、食事を開始する。
1杯目のスープをスプーンも使わずに、あっという間に飲み干すと、それに気付いた少女が苦笑しながらおかわりをついでくれた。
青年は食事の最中は一言も話す事なく、黙々と食べ続けていた。
「・・・おいしい?」
少女が聞くと、青年は首を縦に振った。青年の反応に、少女は嬉しそうに笑う。
食後のお茶に、乾燥させておいたミントを合わせ、お茶を淹れる。カップを受け取った青年は、慎重に冷ましながら口を付ける。どうやら猫舌らしい。
「貴方、なんていう名前なの?」
お茶を一口飲んでから、少女が口を開いた。
「オレ?―――ヴィアかな?」
「ヴィア?」
一拍置いた後、青年の告げた名前を、もう一度反芻する。
「あぁ。友達はそう呼ぶな」
「そう。じゃあ、私もヴィアと呼ぶわ。なんといっても、命の恩人ですもの。私のことは、ノエルと呼んで。よろしく、ヴィア」
室内に明るい笑い声が響いた。