鏡よ鏡
鏡よ鏡、不思議な鏡……僕とソール、優れているのはどっち?
「もちろん、あなたの方が優れておりますよ。ルナ王子。」
「そうだよね、もちろんそうだよね。そう……そう。」
こんな下らない一人芝居を演じるのも今夜で何度目だろう。よく毎晩こんなことができるものだ。そう思いながら僕は鏡の前で深くため息をついた。でも、こんなことでもやらなければやってられないのだ。あいつがいなければ、ソールがいなければ、こんなくだらない遊びもしなくてすむのに。
どうしてソールばかりが皆に愛されているのだろう。知恵だって剣の腕だって、それに器量だって僕と同じくらいなのに、どうしてあいつばかりが愛されているのだろう。そう思うと無性に腹が立って、涙が出てくる。
泣くな馬鹿、僕はもう十五歳、子供ではないんだぞ。これくらいのことで子供みたいに泣くんじゃない。涙をこらえて、泣かないようにしようとしても、そんな自分があまりにも惨めで、余計に声が漏れ、涙が溢れてくる。そんな惨めな僕の姿を、目の前にある鏡は冷たく、まっすぐに、偽ることなく映し出していた。
……どうして僕は泣いてしまうほどソールに嫉妬していたのだろう。悩むことなんかない。考えてみれば、僕があいつよりも優れた王子になれば良いだけじゃないか。そうすればきっと、皆も僕のそばに集まってくれるはず、僕のこともきっと愛してくれるはず。
ひとしきり泣いたおかげか、なんとなく心が軽くなってきた気がした。窓から吹き込む夜風が心地よい。町はまるで時が止まったかのように静まりかえっている。大分、夜も更けてきたらしい。そろそろ眠くなってきた。僕は寝室へ向かい、ベッドにもぐりこむ。明日からは頑張ろう。あいつよりも、ソールよりも優れた王子になる為に。おやすみなさい。
どうしてだろう。突然、目が覚めた。まるで、スイッチを入れられたからくり人形の様に、パチリとまぶたが勝手に開いたのだ。まぶたを閉じて眠ろうとしても眠れない。眠れなくなるようなことを昼にしたのだろうか。いや、していない。いつもと同じように食事をとって、勉強し、剣の稽古をしていただけのはずだ。でも、だったらどうして、こんな時間に起きてしまったんだろう。
「……寒い。」
体を縮こめて毛布にくるまる。思わず口走ってしまったが、今夜は異様に寒い。けれどもこの寒さは病気にかかったときのような寒さとは違う。それはまるで真冬の夜の空気のような、張りつめた冷たさ。体に突き刺さるような寒さだ。確かに、夏が過ぎ、朝晩は寒くなってきている、とはいえ寒すぎる。どうしてこんなにも寒いのだろう。学者達のいっていた異常気象と言うやつなのだろうか。しかし、そんなことを考えたところで理由が分かるはずがなく、寒さも和らぐはずもない。とりあえず、僕は何か上に羽織るものを取りに行くことにした。
僕は寒さのあまり縮こまって固まってしまった体を頑張って動かしてベッドから出る。衣装棚は隣の、鏡のある部屋だ。僕は寒さに震えながら、隣の部屋へのドアを開ける。すると突然、僕の視界は眩しい光に覆われた。思わず目をつぶるが、それでも少し眩しい。ほんの少しだけ目を開いて部屋の様子をうかがった。
最初に目に入ったのは、窓の向こうに浮かぶ普段より一回りも二回りも大きな銀色の月だった。目に入ったとは言っても、それが月だと言い切れる自信はないのだが。それが輝きながら、夜空に浮かんでいるから月だと判断しただけだ。少なくとも僕は、月の他にそんなものを知らない。つまり、それが僕の知らない別の何かなら、それは月ではないのだろう。ただ、そんなことは今、全く関係のない話で、それが眩しい光を放っている方が大事な話だ。どうやら、この部屋を満たす銀色の光はその物体から放たれているらしい。
そこまで考えた時、体が思わずよろめいた。長い間、あの強い光を見つめすぎたからだろう。僕は光から目をそらすように部屋を見回した。服を収納している衣装棚、蘭の花を活けた花瓶、大切な物を入れてある宝箱、どれもおかしな様子は無い。ただひとつ、壁にかかった鏡を除いては。
まず第一に、この鏡は光を反射している様子がない。鏡と言う物は光を反射するものだ。それなのに、この鏡は光を反射するどころか、吸収しているようにさえ見える。鏡面はぼんやりと光っていて、何が映っているのかはよく見えない。第二に、鏡面が揺れている。窓から冷たい夜風が吹き込む度に、水面の様に鏡面が揺れている。一体これはどういうことなのだろう。
そのとき、鏡の向こうで何かが動いた。像の大きさからして僕と同じ位の人型をした何かだろうか。手招きしているように見える。でも、誰を呼び寄せようとしているのか。多分、僕なんだろうけど……。僕が考えている今も、鏡の向こうの何かは誰かを呼び続けている。……呼びかけに応えた方が良いんだろうか。僕は少しの間考えてから、部屋を見渡した。もし、呼ばれているのが僕じゃなかったら恥ずかしかったからだ。もちろん、この部屋には僕以外、誰もいなかった。
とりあえず、僕は鏡の向こう側に手を振ってみた。すると、向こう側の何かは少し動きを止めてから、より身振りを大きくして呼びかけはじめた。よほど自分のいる方へ来て欲しいらしい。行った方が良いのだろうか。いや、そもそも行くとか行かないといった話じゃなくて、鏡の中には行けないじゃないか。そんなことは子供にだって分かる。けれども、光を集めたり、鏡面が波の様に揺れる鏡がこの世にあるのだろうか。鏡の前の風景を映さない鏡があるのだろうか。もしかすると、僕の目の前にあるのは、鏡ではないんじゃないか。例えば、城の住人たちでも殆ど知らないような秘密の通路とか。……いや、そんなことはどうでも良い。行こう。
深呼吸をして、体をほぐす。鏡の向こう側をまっすぐ見つめて、体に力を入れる。向こう側にいる何かは相変わらず僕を呼び続けている。……風が止んだ。
「今だっ!」
僕は小さく叫んで力いっぱい、鏡に向かって跳びこんだ。鏡に体がぶつかるかと思った瞬間、視界がまぶしい光に包まれて、水の中に飛び込んだ時の様な冷たさと感覚に体が包まれた。どうやら、僕は鏡の中へ入っていったしい。時間が経つにつれて、冷たさが消えていって、ふわふわと体が軽くなっていく。今、僕の周りでは何が起こっているのだろうか。なんだか気持ちが良い。そこまで考えたところで、僕は意識が段々と薄れていくのを感じた。
それから再び目を覚ましたとき、僕は城下町から少し離れた野原の上で転がっていた。太陽は既に昇ってしまった後のようで、雲ひとつない青空がまぶしく、空気は少し冷たい。この様子から考えると、まだ午前中のようだ。でも、どうして僕はこんなところにいるんだろう。僕は野原に寝そべりながら考えた。そして僕は、あるひとつの結論にたどり着いた。
昨夜の僕はどうやら寝ぼけていたらしい。きっと、あの月の様な何か奇妙な鏡は僕の夢の中での話だったのだろう。こんなところまでフラフラと来てしまうあたり、よほど疲れていたんだな、僕。そうと決まれば早く城に帰ろう。きっと皆も心配しているし、朝ごはんの時間もとっくに過ぎているからかお腹も空いた。
そんなことを考えながら、僕は城下町の入り口にやって来た。キャラバン隊は談笑しながら街の中へ入っていき、警備隊は隊列を少しも崩すことなく町を出て行く。町と外を仕切る壁のそばでは犬が眠そうに寝そべっている。その隣では、番兵達がこれまた眠そうに立っている。いつも通り、賑やかな場所だ。しかし、ひとつだけおかしなことがある。誰も僕に気がついていないようなのだ。仮にも、僕はこの国の王子なのだから僕のことを知らない人はいないはずだし、それに僕は昨夜から城を抜け出して行方知れずになっているはず。だから、皆僕のことを捜しているはずだろう。それなのに、皆僕がここにいると言うことに気がついていないようなのだ。それどころか僕のことを捜しているような様子もない。一体これはどういうことなのだろう。僕は不思議に思いながらも城へ帰ることにした。
町に入ると、通りや家々が色とりどりの花や鉱石で飾り付けられている。どうやら何かおめでたいことがあったらしい。秋祭りはこの間終わったはずだから、今頃は特に何もなかったはずだが。町には歌や音楽が溢れ、色鮮やかな格好をした人々が、町のいたるところで自由に物を食べたり飲んだりしている。よほど最近めでたいことがあったらしい。もしかすると、誰も僕に気がつかないのは、これのせいかもしれない。これだけ騒がしかったら僕だって目立たないだろう。そんなことを考えながら僕は城へと続く大通りを歩いて行った。
通りを歩いていると、酔った男の会話が聞こえてきた。
「いやいや、平日の朝っぱらからこうやって酔っ払えるなんて、ソール殿下のおかげだな。」
「おいおい、殿下じゃなくて陛下だろ。でも、好きなだけ飲めるんだからどっちでもいいか。」
そのとき、僕の中で何かがグラグラと音を立てて揺らいだのを感じた。陛下……ソール陛下。どういうことだ。あいつがこの国の王様になるのか。この僕を差し置いて。父様が亡くなったのだろうか。でも、どうしてソールが。王位を継ぐのなら兄である僕の方が先だったはずだけど。これはどういうことか確かめないといけないな。そう考えながら、僕は何が起こっているのかを確かめるに、城へ向かって走り出したのだった。
不安な気持ちで城にたどり着くと、門前を三人の番兵が見張っていた。相変わらずの生真面目そうな顔をしている。しかし、町の人々と同じように、目の前にいる少年が、この国の王子だということには気がついていないようだ。
「おうい。帰ってきたぞお。僕だ、ルナだよ。」
そう呼びかけてみたが、番兵達は全く気がついていないようだ。手を大きく振って呼びかけてみても番兵達は反応しない。まるで僕がここにいないかのようだ。……本当に僕はここにいないのかもしれない。いや、まさか。そんな訳がない。現に僕は太陽の光も、朝の空気の冷たさも感じているじゃないか。でも、それだけでは僕の存在を証明することが出来ない。太陽の光も、空気の冷たさも僕が感じているだけにすぎないのだから。存在を証明したいのならば、僕が周りのものに何かを感じさせられないとだめだ。
そう考えた僕は、試しに目の前にいた番兵を殴ってみることにした。お願いだ、どうか痛がってくれ、僕を叱ってくれ。目をつぶりながら振り上げた拳が番兵の顔に叩きつけられる。が、何の反応もない。目を開けて拳の在りかを確認すると、たしかに番兵の顔の上に乗っていた。乗っていたのは確かだったのだが、拳はそこでピタリと止まっていたのだった。こぶしを押し込んでやろうとしてもびくともしない。まるで僕の拳と番兵の顔の間に、限りなく薄く、それでいて、とてつもなく硬いガラスの膜があるかのように、僕の拳は彼の顔を殴ることが出来なかったのだ。どうやら、事態は僕の考えた通りの状態に陥っていたようだ。つまり、僕はこの世界に存在しないということだ。僕は思わず、その場に座り込んでしまった。これから僕はどうやって生きていけば良いんだ。
そう僕が悲しみに暮れていると、沢山の荷物を積んだ、身なりの良い団体がやって来た。おそらく近くの国の使節団だろう。見たところ、ソールが新しく王位に就いたという知らせを聞いて、お祝いにきたといったところか。座り込んだまま、そんなことを考えていると、番兵達が城門を開き、使節団を城の中へ通しだした。使節団が城の中へと入っていく。ひとまず、城の中へ入ろう。今がチャンスだ。そう思った僕は立ち上がり、使節団の中にまぎれて、城の中へと入っていったのだった。
城は、宴の真っ最中だった。色とりどりに飾り付けられた大広間では、沢山の人達が色とりどりの料理や酒を楽しんでいる。城中に美しい楽の調べが響き渡り、美しく着飾った人達が優雅に踊っている。誰も彼もが幸せそうな顔をしている。しかし誰も僕には気づかない。人ごみの中、僕は城中を歩き回った。新たな王になったという弟、ソールを捜しながら。誰か僕に気づいてくれる人が現れることを願いながら。
僕がソールを見つけたのは、僕が庭園にやって来た時のことだった。誰にも気づかれないまま城中を歩き回っていた僕の前に、大きな人だかりが出来ているのが目に入った。
「とても立派でございますわ、ソール陛下。」
「これなら先王陛下も安心して隠遁生活を送れることでしょう。」
「ソール陛下万歳!」
……どうやら、ソールはあの人だかりの中にいるようだ。僕は走って人だかりの方へ向かった。
人だかりをかき分けていくと、そこには凛々しく着飾ったソールがいた。微笑みながら周りの人々と話している。光を受けて黄金色の艶やかな髪は輝き、髪と同じように黄金色をした瞳は朝の日差しの様に透き通っている。鮮やかな衣服に包まれた身体はまるで物語に描かれた少年のそれの様だ。そして、未だ幼さの残る柔らかな表情は、男である僕でさえ胸の高鳴りを覚えるほどだ。悔しいが、今日のソールは綺麗だ。僕だったら、こんなにも綺麗になれるとは思えない。
僕は思わず溜め息をついてしまった。そして溜め息をついた後、激しい嫉妬心を抱いた。どうして、ソールだけが、これほど美しく着飾ることができるんだ。器量は僕とそれほど変わらないはずなのに。どうして、どうしてソールだけが美しくなれるんだ。それだけじゃない。どうしてソールの周りにはこれほど人だかりができるんだ。僕の周りにこれほどの人だかりができたことはあったか。いや、ない。それに、いつだってソールは人気者だった。男も女も、子供も年よりも、鳥や獣でさえソールの周りに微笑をたたえながら集まっていた。それに比べて僕はどうだっただろうか。あいつと一緒にいたとき、僕の周りに集まってた人はソールのそれらよりも一回りも二周りも少なかったではないか。人々に囲まれて笑うあいつの知らないところで、何度僕は淋しさを募らせて泣いたことだろう。。まるで太陽に隠された月のように。
ああ、このままでは気が狂ってしまいそうだ。そう感じた僕は溢れだす嫉妬心を懸命に押さえつけながら人だかりから離れた。気持ちを落ち着けようと、壁にもたれかかって深呼吸をしていると、人ごみの中で誰かが手を振っているのが見えた。きっと付き添いの人とはぐれてしまって、付き添いに居場所を知らせようとしているのだろう。これだけ人がいれば、こんなことが起こらないはずがない。そんなことを思いながらその様子を眺めていると、突然、僕の頭の中に声が響いてきた。声の主は僕のようだ。
「どうして僕の事を無視するのさ。見えているんだろ、僕が手を振っているのを。」
僕は驚き、向こう側を見ると、一人の少年が悪戯っぽい笑みを浮かべてそこに立っていた。やっと僕に気づいてくれる人が現れたと僕は喜びたかった。しかし、その少年の姿を見ると、その喜びも打ち消されてしまった。十五歳くらいだろうか。光を受けて輝く銀色の髪、光の具合で銀色にも青色にも見える瞳、そして少し冷たい、大人びた表情。目の前の少年の顔は、まるきり僕と同じだったのだ。
驚き、戸惑う僕をみて、少年は目を細めて話しだした。
「信じられないだろ。今、君の目の前に君そっくりな僕が立っていることが。何も話さなくてもいいさ、君の考えていることはよく分かるよ。まるで、自分自身が考えていることのようにね。」
「誰だ、君は……僕はルナ。この国の第一王子、だったはず。」
「奇遇だね。僕もルナって言うんだ。この国の第一王子かは知らないけどね。と言うか、僕はこの国の王子じゃない。この国には今、王子様はいないよ。王様のたった一人の子供、ソール王子が王位を継いじゃったからね。」
「馬鹿なことを言うな!」
あまりに信じられない言葉に、思わず僕は怒鳴ってしまった。
この世界に僕はいない、そんな馬鹿な。ソールだけが父様のただ一人の子供、そんなことがあるか。銀色をした僕の髪は、父様譲りのものなんだ。父様自身がそう言ってたんだ、父様が僕に嘘なんかつくはずがない。あいつは嘘をついているに決まっている。僕は紛れもなく父様の子供、この国の第一王子だ。僕は心の中でそう呟いて心を鎮めようとしたが、その気持ちとは裏腹に僕の心はどんどん揺らいでいく。その一方で、そうしている間にも、滝の様に汗は流れ、心臓は壊れた目覚まし時計の様に脈打っている。涙がぽろりとこぼれた。体中がかあっ、と熱くなっていく。僕は今にも狂ってしまいそうなほどにまで気を取り乱していた。
そんな僕の様子を、ルナと名乗った少年は面白そうに眺めていたが、しばらくすると溜息をつき、僕に向かってこう語りかけた。
「もう、やめなよ。そんな風に自分を誤魔化したって無駄さ。君はもう気づいているはずだ。僕達は捨てられたんだ、ソールさえいれば全て事足りるからね。知恵も、剣の腕も、器量も、全てにおいてあいつは僕達と同等か、それ以上だ。それどころか、あいつは僕達にはないもの、人望まで兼ね備えている。あいつは一人で上手いようにやっていけるよ、何もかも、全部。あいつが、ソールさえいれば僕達は要らないんだ。だから僕達はもう、この世界には存在することはできない。皆、僕達がここにいることを望むこともないから、大人しく消えるほかないのさ。」
そう話す少年の目は細められたままだったが、浮かべられていた笑みは知らないうちにその姿を消していた。少年はひとしきり話し終えた後、一息ついて、こう言った。
「これは僕の考えじゃない。君の考えだ。君がずっと、ずっと長い間考えていたことだ。君が考えては今まで誤魔化し続けてきたことだ。」
少年の言葉に、僕は今までにないほどの衝撃を受けた。そうか、そういうことだったのか。僕は今まで、自分自身のことながら、ソールにあれほど、正気を疑うほどに強い嫉妬心を抱く理由が分からなかった。その理由が彼の言葉で分かった。僕はソールのことを恐れていたのだ。いつの日か、僕の居場所を全てあいつに奪われてしまうのではないかと怖がっていたのだ。いや、既にあいつは僕の居場所を着々と奪っていっていたではないか。このままでは、本当に僕の居場所がなくなってしまう。世界から捨てられてしまう。
「どうすればいいんだ……」
「どうにもできるよ。君次第さ。」
ぽつりと漏らした僕の言葉に、少年はそう答えた。
「僕次第、か。でも、何をしたって無駄に決まっている。僕があいつに勝てることなんてひとつも無いんだから。」
しかし、少年は僕の反論を聞いている様子は無く、
「まあ、つべこべ言わずについておいでよ。」
と言って、どこかへ向かって駆け出していった。僕も少年を追って駆け出す。色鮮やかな大広間を、美しく着飾られた客人達の間を、賑やかな音楽の間を、少年と僕は駆け抜けて行く。僕は彼がどこへ行くのかも分からないまま、廊下を走りぬけ、階段を駆け上がり、少年の後を追い駆け続けたのだった。
僕と少年の追いかけっこが終わったのは、僕達が塔の中の、ある部屋にたどり着いたときのことだった。
「さあ、着いたよ。」
少年が僕を待っていたその部屋は、鏡がひとつ、壁に掛けられていただけだった。よく見慣れた、あの鏡だ。毎晩の様に、僕のソールに対する恐れを聞き続けていた鏡。この鏡があると言うことは、どうやらこの部屋は僕がいたはずの部屋だったらしい。
「鏡の向こうに行くんだ。これから先、君やソールがどうなるかは君次第さ。頑張れよ。」
少年はそう言うと突然、銀色に輝きながら、霧の様になって鏡の中に入り込んでしまった。そして、少年が入り込んだ鏡は、ぼんやりと光りだし、鏡面が揺れだした。まるで、あの夜と同じように。
「僕次第、か。」
僕は、少したりとも悩んだりすることもなく、鏡の中へ飛び込んだのだった。
気がつくと、僕は真っ暗な部屋の中、鏡の前に立っていた。鏡は寝間着姿の僕をまっすぐと映し出している。外を見ると、普段どおりの大きさの月がぼんやりと輝いているのが見える。どうやら、僕は現実の世界に帰ってきたらしい。これまで僕が見てきたのは何だったのだろうか。幻覚だろうか。それとも妄想。よく分からない。けれども、そんな事はどうでも良い。今日のところはもう寝よう。
これでやっと眠れる。僕はそう思っていた。しかし、寝室に入った僕は目の前の光景に愕然とした。僕の部屋の、僕のベッドで、あいつが、ソールが眠っていたのだ。どうして。ここは僕の部屋のはずだぞ。どうしてソールがここにいるんだ。気づかない間にソールの部屋へ入り込んでいたのだろうか。いや、そんなことはない。あの鏡はソールの部屋には無い。つまり、ここは僕の部屋で間違いないのだ。
僕はベッドに詰め寄った。ソールは僕にも気づかずにスヤスヤと寝息をたてている。毛布が暑いのか、少し汗ばんでいて、黄金色をした髪が額に張り付いている。そんなソールの寝姿を見ていると、なんだか無性に腹が立ってきた。この野郎、僕の気持ちも知らないで。お前なんかには一生、僕の気持ちは分からないのだろうな。全く、良い身分だ。そんな風に思いながらソールの寝顔を眺めていると。ソールの目が開いた。そして、ぼんやりと一言。
「……君は、誰?」
その時、僕の中で何かが壊れる音がした。
「鏡よ鏡、不思議な鏡……僕とソール、優れているのはどっち?」
「もちろん、あなたの方が優れておりますよ。ルナ王子。」
……なんてね。当たり前じゃないか。ソールはもう、この世界にはいないのだから、ね。
「鏡よ鏡、不思議な鏡……月が綺麗だね。」
鏡にそう語りかけ、鏡を通した銀色の満月を眺めながら、僕は熟れた林檎を一口かじったのだった。