7
ここへ来てから三ヶ月。佳蓮は、時計塔の芸術区画に足繫く通っていた。
地上六六階の時計塔は、エレベータより便利な塔内星路陣が各階に設えられており、上下左右、塔という垂直都市を結んでいる。
二七階から三九階にかけては、星導機関が管理する、芸術と知識の集積域である。書物、絵画、標本、植物、人の営みと世界の記憶が、階層ごとに折り重ねられた宝庫だ。
時計塔は、一階から天へ貫く吹き抜け構造で、遥か頭上から、秒針を刻む金の振り子が垂れている。
壁面に配された採光窓から射しこむ柔らかな光が、床へ落ちては刻々と形を変え、星図のような模様を描いていた。
書架は各階に点在しているが、二七階より上は、天へ伸びる壁面を埋め尽くしており、視線をあげるほどに息を呑む。
幸いなことに、佳蓮はこの世界の文字を読むことができた。
活字といえば、親から与えられる自己啓発本ばかりで辟易していたが、ここの書架は別格だ。
とにかく、広い。宇宙みたいに。
蔵書の量も、質も、桁が違う。
梯子が一つも見当たらないのは、空飛ぶ椅子が用意されているからだ。
手の届かない高所の書物も、椅子に腰をおろしたまま宙へすうっと浮かび、そのまま手に取ることができる。
最初は、浮かびあがる感覚が怖かったが、すぐに慣れた。
座り心地は抜群で、今では、飛び降りた時よりも高い位置まで、すいすいと移動できる。
この芸術区画に通うことをやめられない理由の一つは、間違いなく、この空飛ぶ椅子の存在だった。
塔から一歩も出ない、引き籠りに近い生活を送っているが、不満はない。図書館と展示回廊、そして六二階の贅沢な居館がある限り、一生ここで暮らせる。
三九階の図書館は、四〇階の風景式空中庭園に通じている。静謐な硝子温室は、佳蓮のお気に入りの場所の一つだ。
展示回廊もまた、圧巻である。
レインジールの家系は、代々、熱心な蒐集家で、数多の美術品を塔に寄贈しているという。
油絵、彫刻、素描、版画、彫像、レリーフ、モザイク画。その数は、優に一〇万点を超える、と案内板は淡々と告げていた。
見上げれば、金箔を塗した豊麗荘厳な天井画。精緻な装飾を施された壁と柱。
時計塔は、底の知れないびっくり宝石箱だ。
一日では到底見て回れない。
観光名所になりそうなものだが、塔の関係者以外の立ち入りは厳しく制限されているため、人影はまばらだった。
その静けさも、佳蓮は気に入っている。
生前(?)、美術館とは縁がなかった。けれど、この世界に来てからは、殆ど毎日のように展示回廊を巡っている。
絵画を眺めるのは、楽しい。
この世界の美しいものに日々感動している。しかし、こと人間に関しては別だった。
繊細な筆遣いで描かれた女神像は、どれも驚くほど平凡な顔立ちをしているのだ。
一枚だけなら、画家の好みかと思っただろう。
違うのだ。うら若き乙女も、妙齢の女性も、古い絵も新しい絵も、描かれた人物は、例外なく地味な一般人の顔をしている。男性も同様だ。素晴らしい美男として描かれた絵は一つもない。
写実であれ水彩であれ、男女ともに驚くほど凡庸なのである。
最初は強烈な違和感を覚えたが、それも次第に薄れ、今では眺める楽しみの一つになっていた。
とりわけ宗教画は、構図が壮大で興味深い。
人々を先導する英雄や女神が、周囲の群衆よりも、明らかに劣った容姿で描かれているのだから。
人物に限って、逆さまの美を蒐めた不思議な展示回廊。
そうした作品の数々を眺めるうちに、佳蓮の胸の奥に、小さな好奇心が芽生えた。
――本物の夜会を、見てみたい。
本や絵に描かれた華やかな世界。実際は、どんな光景なのだろう?
想像と期待は膨らみ続け、ある日部屋を訪れたレインジールに、佳蓮は幽かな恐れと共にその願いを口にした。
「良ければ今度、皇城の夜会に出席したい」
「もちろん構いませんが……」
これまで、誘われても断ってきたため、レインジールは少し驚いた表情を浮かべた。
「展示回廊を見ているうちに、本物の夜会を見てみたくなったの」
「ちょうど、舞踏会の招待状が届いております。出席なさいますか?」
「いいね、舞踏会」
佳蓮が目を輝かせると、レインジールは柔らかくほほえんだ。
「それでは、出席の御意志を伝えておきましょう。宮廷行事の中でも、特に華やかな春の舞踏会です」
「うん、ありがとう」
「皇太子殿下も、きっとお喜びになるでしょう。あの方は、何度も羽澄様への招待状を、私に託しておられるのですから」
なぜか、レインジールは儚げな微笑を浮かべた。佳蓮が首を傾げても、その理由を打ち明けてはくれなかった。




