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新星歴二〇〇〇年。一二月二二日。
一〇年経った今も、あの夜を忘れられない。
上位次元へ還るその直前、佳蓮はレインジールに、宝物のような記憶を授けてくれた。
それはほんのひとときの邂逅でありながら、幼いレインジールの胸に不滅の火を灯した。
日中は勤めを果たし、読書や散歩をして、夜は女神の姿が瞼に浮かんだ。安らぎの聖域へ誘ってくれた。心の神殿に、一日たりとて欠かさず参拝した。
婚約を解消し、かといって周囲の勧める縁談には耳を貸さず、変人とさんざん陰口を叩かれたが、全く気にならなかった。
心のなかに、愛を捧げ、崇拝する女神がいる。
日々の生活は霊感に満ち、神秘の薄紗に包まれた。敷かれた轍と決別し、いつか巡り逢えると信じて、ひたむきな努力を重ねた。心に巣食う邪悪なものを取り除き、女神の前に跪いて光に包まれたい一心で日々を過ごした。
遠い記憶は不滅の霊魂となり、時を経ても翳ることなく、今もなおレインジールの裡で静かに燃え続けている。
そうして、二〇歳を迎えた。
遠い約束の通り、紅茶庭園を築いた。
佳蓮が殊のほか愛した、ルルーシュナ紅茶庭園もそのひとつだ。
時間を見つけては足を運び、佳蓮を想う。
記憶のなかの佳蓮は、いつもここで、レインジールと紅茶を楽しんでいた。
与り知らぬ記憶の欠片に、ひたすら恋焦がれている。
長い間、星に訊ねても想い人の顕現は詠めなかった。
けれど心身が成長すると共に、星の奥に、わずかな輪郭が見え始めた。予感に満ちた預言者のように、レインジールは歓喜した。
星導師としていっそう勤勉に励み、同僚には隠者のようだと言われたが、かまわなかった。天文宮に通いつめ、宇宙の深淵に立ち、星脈の流れや囁きに耳を澄ませ、魂の用意を整えて、神羅万象や宇宙の調和の響きを聞き取ろうとした。
それこそがレインジールの青春であり、心は昼も夜もいつでも、美しい女神を思い、激しい喜びに溢れていた。彼女と邂逅するために、思想と情熱のエネルギーの全てを注いだ。
そうして、星象位層理論を完成させた。
星象は一枚の未来ではなく、幾重にも重なった〈層〉として存在しているのだ。今夜、その理論は証明される。奇蹟の顕現を予見することができたのだから。
星明かりに照らされたルルーシュナ紅茶庭園。
どうか……そう祈るように空を仰いだ、その瞬間、天より光の柱が降り注いだ。
清冽な霊気が満ち、光の奔流から、焦がれ続けた女神が姿を顕した。
「レイン」
夢にまで見た女神に名を呼ばれ、笑みかけられる。
嗚呼……どれほど、この瞬間を待ち望んでいたことか。
感情が溢れ、レインジールは一瞬、膝を折りそうになった。
星幽界の残照を払いおとし、佳蓮は確固たる肉体を伴って、大地に足を降ろした。
「……お待ちしておりました」
差し伸べられた手を、震える手で取り、唇を落とすと、佳蓮は嬉しそうに笑った。
「……お待たせ」
眩い笑顔に、眩暈がする。
尊さに跪きたい一方で、強く抱きしめたい。相反する衝動が、同時に胸を満たした。
逡巡の末、素足に気づいて抱きあげる。懐かしい甘い香りに、頭がくらりとした。
錯覚ではない。記憶のなかの佳蓮が蘇ったのだ。圧倒的な存在感で、目の前にいる。
「レイン?」
はにかむ佳蓮は、心臓を打ち抜かれそうなほど美しく、かわいらしかった。
「ようやく……お会いできました。私の女神様」
「……ただいま、レイン」
頬に触れる柔らかな手。暖かな体温。潤んだ黒玻璃の瞳。月光のような微笑。夜の河のように流れる美しい黒髪。信じられない。こんな奇蹟があるのだろうか?
「お帰りなさい、佳蓮。本当に、お待ちしておりました。私の女神様……っ」
唇が戦慄いて、涙が溢れた。
「私も、会いたかったよ」
佳蓮も涙を流しながら、レインジールに手を伸ばしてきた。柔らかな肢体を抱きしめ、温もりを全身に感じながら唇を寄せた。
――なんて、甘美な唇なのだろう……
多幸感に包まれて、また涙が溢れた。ようやくめぐり逢えた恋人を、レインジールはきつく抱きしめた。
*
一ヵ月後。
二人はあらためて、夜のルルーシュナ庭園を訪れた。
本当はすぐにでも来たかったのだが、遠い宇宙を旅してきた佳蓮の躰は衰弱しており、懐かしい時計塔の六二階で、療養生活を余儀なくされたのだ。
地球での記憶も、星幽界での摩訶不思議も、今となっては朧だ。
けれど、レインジールとの記憶だけは、語らうたびに鮮やかに蘇った。
今ここに在る佳蓮は、地球で生きた佳蓮であり、時計塔で過ごした流星の女神であり、或いは全く別の存在であるようにも思う。
消えかけた意識を繋ぎ留めたのは、切なくなるほどの恋心だった。
〝この円環を絶やさないで〟
〝貴方を想い、紅茶庭園を造りましょう。いつまでも、私は、お待ちしていますッ〟
耳に残る、切実な祈り。
その願いに引き寄せられ、一片の想いの因子は、この物質界に顕現したのだ。
一〇日も経てば、佳蓮はすっかり回復したが、レインジールはなかなか佳蓮を寝台から離そうとしなかった。
さらに二〇日が過ぎ……今日、ようやく外出できた次第である。
人の訪いのない庭園は、美しい夜のすがたで安らっている。
朱金の火を灯した角灯が樹々のあちこちにかけられ、雨上がりの石畳に灯影を幾すじも投げかけている。
空は雨雲が引いて、月と宇宙が見えていた。暖かい風が、優しく吹き抜けていく。果樹の枝やポプラの梢を愛撫するたび、心地いい葉擦れの音を立てた。
「いい香り……」
かぐわしい紅茶の香りに、佳蓮は笑みを浮かべた。
「季節の茶葉ですよ」
熱い湯のなかで、葉がじっくりと広がっていく。何でも器用にこなすレインジールは、紅茶を淹れるのもとても上手だ。
薔薇の花びらを添えたカップを差しだされ、自然と笑みが零れる。
「この一時のために、生きてる気がする」
しみじみと呟けば、レインジールも静かにほほえんだ。
「もう元気になったし、今度オルガノさんに会いにいこうよ」
「そうですね。師も喜ぶでしょう」
「リグレットさんも誘おうよ」
明るく佳蓮が言うと、レインジールはわずかに眉を顰める。
「どうして、他の男を誘うのですか?」
「嫌? リグレットさんもオルガノさんに会いたいんじゃないかと思って」
「私は、佳蓮と二人きりがいいです。心が狭いと呆れるかもしれませんが、できることなら……佳蓮を誰の目にも触れさせたくないのです。男は特に」
じっと見つめられ、佳蓮はくすぐったいような、甘い気持ちにさせられた。
「えっと……」
「今の佳蓮に言っても仕方ありませんが、私は貴方の奔放さに、ずっと苦しんでいました。いつだって、貴方を一人占めしたくてたまらなかったのです」
熱烈な告白に、とうとう佳蓮は俯いた。顔から火がでそうなほど熱い。
時を越えて再会を果たしてから、レインジールはずっとこんな調子だ。記憶にあるよりも独占欲が強く、感情を真っ直ぐに伝えてくるように思う。
同じように、佳蓮も言葉にできたらいいのだが、どうも照れ臭さが先立つ。
「……好き」
小声で囁くと、沈黙が流れた。
「……もう一度、お願いします」
「え……」
「よく聞こえませんでした。どうか、もう一度」
狼狽する佳蓮を見て、レインジールは甘く微笑した。
「佳蓮。言って?」
腕をとられ、暖かな胸のなかに抱き寄せられた。押し当てた頬に、すごく速い鼓動が伝わってくる。
あまりの速さに、驚いている佳蓮を見下ろし、レインジールは赤くなった。
「……貴方に触れられて、平静でいられるはずがありません」
上目遣いに見つめると、レインジールは表情を消した。
「……貴方は、とても魅力的だから」
形の良い長い指が、佳蓮の耳の輪郭をなぞる。背筋をぞくぞくさせながら、佳蓮は笑った。
「レインも、とっても素敵だよ」
面映ゆそうにレインジールは笑った。
「ありがとうございます」
「ううん……」
「佳蓮。星杯を満たしたのは、私を想ってくださったからだと思っていいですか?」
「星杯……」
胸に手を当てながら、そういえば、と佳蓮は気がついた。
かつて苛まれた心の虚は、今はもうない。暖かな火が心に灯っている。一段と高い暖かい生命が、躰の裡を循環しているのを感じる。
「万の星導も、佳蓮の起こす奇蹟には敵いませんね」
暖かな手で、頬を撫でられた。長い指は頬を滑り、零れた黒髪を耳にかける。そのまま離れていかず、耳の輪郭をなぞる。おかしな声がでそうで、佳蓮は慌てて唇を噛みしめた。
「私を想って、星杯を満たしてくれたのでしょう? お願いです。もう一度、聞かせて……」
甘く請われて、佳蓮の胸は破裂しそうなほど震えた。
「……好き」
小さな声で呟くと、抱きしめる腕の力が強くなった。
頬を大きな手に包まれて、上向かされる。絡んだ視線が唇に落ちると、胸の奥をぎゅうっと掴まれたような甘い痺れが全身に走った。
そっと唇が重なる。触れるだけの、優しいキス。世界で一番幸せなキスだ。
少しだけ顔を離すと、どちらからともなく笑みが零れた。ふと、レインジールは何かに気づいたように、瞳を細めた。
「佳蓮、前髪を切ってさしあげましょうか?」
不思議そうに瞳を瞬く佳蓮を見て、レインジールは幸せそうに笑った。
「少し、髪が伸びましたね」
その言葉の意味を理解して、佳蓮の胸に、ゆっくりと喜びがこみあげた。表情を綻ばせる佳蓮を、レインジールは優しく見つめている。
止まっていた時が、コトリ、音を立てて進み始めた。




