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 空が、()ちた。

 受け入れがたい現実に、心は深淵へ沈む。世界は暗転し、何も見えない。

 ――宇宙が見える。

 上にも下にも(またた)く無数の星……星幽(アストラル)界。

 プリズムが交錯(こうさく)する世界。異なる光の波長が色を生むように、重力と時間を超越した無限回廊。

 あらゆる時間、あらゆる世界が、同時に視える。

 手を伸ばすと、指先が光の薄紗(ヴェール)に触れた。極光(オーロラ)のように揺らめき、応える。

 今なら、あらゆる次元、あらゆる時へ干渉できる。

 人の身では知り得ぬ宇宙の摂理が判る。姿は佳蓮のまま、けれど存在は、上位の位相へ移ろうとしていた。

 宇宙を()(かん)し、世界の岐路に立っている。

 この先へ踏みだせば、もう只人(ただびと)には戻れない。

 宇宙の秩序を乱すかもしれない。だけど今を逃しては、佳蓮を――レインジールを救えない。

 奇蹟を起こす、唯一の機会だ。

 佳蓮は、銀河へ手を伸ばした。


 あの遠い一二月。

 雪の降る東京。金曜日の黄昏(たそがれ)。解体中の建設現場。

 冷たい鉄筋の上に立ち、暗闇の(ばく)()に目を()らす少女がいた。

 彼女の傍へ、佳蓮は舞い降りた。宙に浮いたまま、もう一人の自分を見つめる。

 制服姿の佳蓮は、あの世を覗いたような顔をしている。冷え切った頬に手を伸ばすと、同じ顔が恐怖に引き()れた。

「落ちたら、駄目だよ」

「え……」

 危うい足場で(おび)える佳蓮を、抱き寄せる。本能的な動作で、彼女は平衡(バランス)を取ろうとした。

 冷えた躰を包み、額を押し当てる。

 これから起こる未来の断片を、思念として流しこんだ。

 泣き崩れる母。呆然と立ち尽くす父。ふさぎこむ妹……暗澹(あんたん)たる光景を(かい)()見た佳蓮は、(すが)りつくような(ひとみ)で、佳蓮を見つめた。

「お願い……(こら)えて。家族がね、壊れちゃうの」

 もう一人の佳蓮は、口元を歪め、(ひとみ)に涙を溜めた。

「……私……っ」

「判るよ。すごく、判る」

 ――貴方は、もう一人の私だから。

 星明かりに()ける掌を、もう一人の私の肩にそっとあてた。

「……でも……私なんか、生きていたって……っ」

「私もそう思ってた。私なんか……って、生きる意味が判らないと思ってた。でもね、生きる意味なんて、考えなくていいんだよ。ただ、生きるだけでいいんだよ、佳蓮」

「……だけど、辛くて……っ」

 佳蓮は、掌に顔を沈め、消え入りそうな声で、呟いた。

「大丈夫、大丈夫だよ。今感じている辛さは、いつまでも続かないから。必ず、生きていて良かったと思う日が来るから。今を生きていれば、それでいいんだよ。何度でもやり直せるんだよ」

 心からの言葉を贈ると、(うつむ)いていた佳蓮は、恐る恐る顔をあげた。

「……いいの? こんな私……生きて?」

 (ほう)けたような呟きに、佳蓮は笑う。

「いいんだよ! 生きていくの、明日も、明後日も……ずっと」

 ゆく時の流れは絶えずして、もとの時にあらず。

 苦しみや哀しみを生んでは消え、時に甘露の日和(ひより)をもたらす。

 オルガノの言葉の通り、苦楽を煎じつめたものこそ人生だ。

 来た道を指で示すと、佳蓮はつられたように背後を振り向いた。

「風邪引く前に、(うち)に帰ろ。ちゃんとご飯を食べて、暖かくして、眠るんだよ」

 再び少女が振り向いた時、幻燈(げんとう)のように佳蓮は消えていた。

「……え?」

 残された佳蓮は、恐る恐る、一歩退いた。

 視線を彷徨(さまよ)わせ、ゆっくり、慎重に鋼鉄の道を引き返していく。

 確かな地面を足裏に感じた時、死地から生還を果たしたような心地がした。

 ――今のは、なんだったのだろう?

 佳蓮と同じ顔をしていた。|Doppelgängerドッペルゲンガー? 守護霊? あの世から、思い留めにやってきたのだろうか?

 心臓が早鐘を打っている。生きている。強烈な実感がこみあげた。

 靴を履き、コートを羽織る。階段を下りようとして、最後にもう一度、空を仰いだ。

「ありがとう……」

 白い息と一緒に呟く。

 さっきまで胸に巣食っていた重苦しい絶望が、驚くほど軽くなっていた。心のなかに、小さな明かりが灯っている。

 暗闇の彼方に輝く街明かりを、今は暖かく感じる。あの場所へ帰るのだ。

 涙に濡れた頬を掌で押し(ぬぐ)い、握りしめていた遺書を、びりびりと切り裂いた。

(帰ろう……)

 自分には、生きる意味がないと決めつけていた。

 だけど、もう一人の自分が、ただ生きるだけでいいと言ってくれた。意味なんて考えなくていい。今を生きていれば、それでいい。何度でもやり直せるのだと。

 ……それなら、生きてみよう。

 まだ起きていない未来に(おび)えるのではなく、今を見て、今を生きてみよう。今を、受け入れよう。

 そう考えると、心がすーっと楽になった。

 今度こそ屋上に背を向ける。暗い足元を確かめながら、佳蓮は降りていった。


 その様子を、(はる)かな次元から眺めて、佳蓮はほほえんだ。

 (すく)いあげた命は、星の数ほどある未来の一片(ひとひら)。新たな希望の(ほう)()だ。

 そして同時に、佳蓮の贖罪(しょくざい)は成された。深い(ごう)から()(だつ)したのだ。


 プリズムの世界。次元が極光(オーロラ)のように混じりあい、揺れる。


 屋上から飛び降りる運命に干渉したことで、時計塔で過ごした時間は宙に浮くように、次元の(わだち)から切り離された。

 星幽(アストラル)界の浄化作用――パラレル因子の淘汰が始まろうとしている。

 どのように修復するか逡巡し……やめた。

 平衡世界の制御は神の領域だ。ただ、佳蓮としての意識があるうちに、想いの因子を残しておきたかった。

 (おぼろ)に揺れる次元の一つに意識を繋ぐ。

 群青の夜を落下し、レインジールの待つ天文宮に降りていく。

 (まぶた)を開くと、驚愕の表情を浮かべた幼いレインジールと目が()った。

 佳蓮は両手を伸ばし、彼のもとへと舞い降りる。

「わぁ、懐かしい。小さいレインだ」

「女神さま……」

 変わらぬ第一声に、佳蓮はほほえんだ。

「レインのおかげで星杯(せいはい)を満たせたよ。本当にありがとう」

 小さな躰を抱きしめると、レインジールは激しく狼狽(ろうばい)した。腕のなかで慌てふためく様子が愛おしくて、胸が暖かくなる。佳蓮は秀でた額へ唇を落とした。ぱっと額を手で押さえる少年を見つめ、優しく笑みかける。

「あ、あのっ……」

 琺瑯(ほうろう)のように小さな白い左手をとり、傷一つない甲に唇を落とした。

「流星(こん)をありがとう」

 そっと額を押し当て、記憶を流しこんだ。時の大海原に溶けた、愛しい日々の追憶を。

「……佳蓮?」

 困惑気味の声に、いっそう愛しさがこみあげる。

 薔薇色に染まる頬を撫で、唇へ、触れるだけのキスを落とした。

「好き。いつまでも、ずっと。大好き、レイン」

 幼いレインジールは真っ赤になったが、佳蓮が離れようとすると、慌てた。

「お待ちください、どこへ?」

 離れようとする佳蓮を、小さな手が引き()める。

 不安そうにしているレインジールの頬を、佳蓮は両手で包みこんだ。

「……ごめんね。もう、行かないと」

 星幽(アストラル)界に干渉してしまった以上、この身も心も、間もなく上位次元に融合してしまうだろう。

「どこへ? お会いしたばかりですのに」

「きっと、また会えるよ」

「今すぐ契約を結べば――」

 形の良い唇に、佳蓮は指を押し当てた。後悔はしないと決めていたのに、レインジールを前にすると哀切が胸にこみあげた。

「……ありがとう。だけど、今の私に(あと)はつかないの。気持ちだけ、もらっておくね」

「では、どうすれば……っ」

 レインジールは泣きそうな顔をした。

「私を忘れないで。レインの想いが私を繋いでくれる。そうすれば、いつか戻ってこれるかもしれない」

 魂はあらゆる世界を凌駕(りょうが)する。想いの因子は宇宙を越え、いつの日か奇蹟を起こすだろう。

「……戻って、くださいますか?」

「うん」

「ほ、本当ですね?」

「約束する。私を、覚えていてくれる?」

 ほほえむと、レインはほろほろと涙を(こぼ)した。

「私は永遠に佳蓮の(しもべ)です。忘れるはずがありませんッ」

 強い感情の発露に、次元の足場は定まった。

 佳蓮が霊気を注ぐと、(まばゆ)光芒(こうぼう)が夜空を貫いた。

 夜闇は真昼のように輝き、宙に浮く大陸はゆっくり海面に近づいてゆく。海底から盛りあがった大地と結合しようとしていた。

 崩壊と創生。宇宙数億年の時間をかけて行われる大地の誕生が、今、この瞬間に凝縮されている。

 (てん)()開闢(かいびゃく)の奇蹟を目の当たりにし、驚愕に目を見開くレインジール。

 佳蓮はその横顔を見つめ、ほほえんだ。

 ――大丈夫。この世界は、きっと安定する。

 佳蓮の知る世界とは似ていて異なる発展を遂げながら、きっと庭園喫茶の文化を(おう)()するのだろう。

「また、レインと紅茶庭園に行きたいな。月夜のお茶会をしよう。覚えていてくれたら、嬉しい」

 レインジールは、こくこくと必死に頷く。

「貴方を想い、紅茶庭園を造りましょう。いつまでも、いついつまでも、佳蓮を、お待ちしています」

「ふふっ、楽しみにしているね!」

 ――ああ。星幽(アストラル)界に呼ばれている。

 引き()める愛しい声を聞きながら、佳蓮の魂は上昇した。

 流星のように無限の宇宙を飛び越え、魂はより純粋な念へと昇華してゆく。

 次元が交錯(こうさく)する()(なか)、消えゆく魂を見つけて、思わず近づいた。

 淡く、弱々しい光……誰かの、(はかな)い命だ。

 無数に枝別れした世界のどこか――生きることを諦めてしまった、悲しい魂……

 副作用を考えるよりも先に、直感が、手を差し伸べさせた。


〝さぁ、星の雫をお飲み。どんな傷もたちどころに癒えるから。ただし、効果は永久ではないよ〟

(これは……?)

 希望の欠片を、消えゆく魂に分け与えた。光の球状は、人の輪郭を(かたど)り始める。

〝星の雫だよ。哀しい魂……君はこれから、命を()てた(とが)(あがな)わないといけない〟

(誰?)

 (いぶか)しげに(たず)ねられ、彗星のように(ひらめ)いた。

 あの時(・・・)、声をかけてきたのは、佳蓮だ。いや――正確には上位次元(アストラル)に融合しかけている魂だ。

星幽(アストラル)界の意志だよ。君を試し、導くもの。高位次元から交感できるのは今だけだから、よく聞いて〟

(……?)

〝本当の幸せは、自分のなかにあるもの。それを見つけて……大切な人に、分け与えて。そうすれば、君も満たされるだろう〟

(……)

〝星の雫の効果が切れる前に、心を満たすんだ。時がくれば判る。この円環を絶やさないで。そうすれば、大切な人にまた、会えるんだよ〟

(……心を?)

〝そうだよ。覚えていて。君は、一つだけ奇蹟を起こせることを〟


 魂の輝きは、次元をも凌駕する。星幽(アストラル)界にだって干渉できるのだ。

 想いの因子が織りなす平衡世界――奇蹟の円環。

 最初に佳蓮を見つけたのは、レインジールを見つけたのは、果たしてどちらが先だったのだろう?

 あの夜があったから、レインに出会えた。

 あの夜があったから、()(たん)を越えられた。

 あの夜があったから、今がある。

 命を()てた日が、始まりだった。

 想いは時を越え、いつかまた――宇宙を飛び越えて、レインジールを探しにいくのだ。

 宇宙に(あまね)く星々に意識が溶けてゆく……

 最後に残った一片(ひとひら)の恋心が、優しい銀色の光へ手を伸ばした。

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