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一人になると、佳蓮はぼんやりと部屋を見渡した。
なんて、素敵な部屋だろう。
天井は高く、室内は驚くほど広い。高い窓の向こうにテラスがある。
飴色の調度で整えられており、カーテンに漉された自然光に優しく照らされている。上品で贅沢。そしてどこか郷愁を誘うような異国の香りが漂っていた。
あの少年――レインジールは、ここはアディール新星皇国だと言っていた。見当もつかないけれど……
死後の世界なのだろうか? 或いは、ただ夢を見ているだけなのか……
――もし、病院の白い天井の下で見ている夢だったら?
死に損ねて、管に繋がれたまま眠っているのだとしたら。
(やだ、最悪……絶対に嫌。永遠に目覚めたくない)
静寂のなかじっとしていると、碌な考えが浮かばない。憂いに浸り、過去や自分を蔑んでいると、ノックの音がした。
レインジールが戻ってきたのかと思ったが、品の良い群青色のお仕着せに身を包んだ侍女達が部屋に入ってきた。どうやら、佳蓮の身支度を整えてくれるらしい。
彼女達は寡黙で、粛々と、礼拝の儀式でも行うように佳蓮の支度を進めていく。
裾の長い美しい衣装を纏い、結いあげた頭髪にブルーベルの生花を飾る。耳と首には涙滴型の宝石。
(なんで着飾らせるの?)
理由を訊いても教えてくれない。四方から佳蓮を眺めては、至極満足そうにしていた。意味不明である。
――鏡は嫌いだ。
醜い容姿を直視するのが嫌で、化粧を施される間、壁紙ばかり見つめていた。会話したくても、彼女達は必要最小限の返事しかしてくれない。支度を終えると、そそくさと退出してしまった。
「何してるんだろ、私……死んだよね?」
呟きに応える者はいない。
やがて日は暮れて、窓から茜が射しこんだ。
夢と現の境界が曖昧になり、昏い追憶に耽っていると、控えめなノックが響いた。
「羽澄様、お待たせいたしました」
銀鈴を転がすような声音と共に、レインジールが現れた。
腰まで届く白銀の髪が、歩みにあわせて月光の欠片を散らす。手も触れずに部屋の硝子照明を灯す姿は、まるで魔法遣いだ。
彼は、着飾った佳蓮を見つめて、心を奪われたと言わんばかりに胸を手で押さえた。
「本当に……貴方ほど美しい女を見たことがありません。天上の星々すら嫉妬してしまうでしょう。困りました……心臓が静まりそうにありません」
「はぁ?」
大袈裟な賞賛の真意が判らない。訝しむ佳蓮の傍に、レインジールは慎重に近づいてきた。
「窓の外をご覧になりましたか? ここは塔で一番景観の良い室です。気に入ってくださると良いのですが」
「見た……綺麗なお部屋だね」
「良かった」
嬉しそうに頬を染めるレインジールを、今度は佳蓮が賞賛の眼差しで見下ろした。
こんなにも綺麗な少年を、見たことがない。とても同じ人間とは思えない。気品と透明感があり、物語に登場する天使みたいだ。
ふと見つめ合っていることに気がついて、視線をそっと逸らすと、レインジールも我に返ったように瞳を瞬いた。
「失礼いたしました。とても……お美しくて、つい」
さっきから、何の冗談なのだろう? もじもじしているレインジールを、佳蓮は冷ややかに見下ろした。
「やめて。そういう風にからかわれるの、死ぬほど嫌いなの」
冷たく尖った声に、レインジールはさっと青褪めた。
「申し訳ありません」
「ここはどこなの?」
「は、はい。北アルル大陸の宗主国、アディール新星皇国です。ここはその皇都ヘカテルの星教区。そして、この塔は星導機関管轄の五つ塔の中央塔――時計塔です」
淀みない説明は、何かの呪文のように聞こえた。
「それは……つまり、天国じゃないの?」
「はい、天界ではございません」
「……」
「羽澄様の尊い献身で、禍霊は遠のき、皇都に蔓延る猖獗は消え失せました。国中が羽澄様の御業に感謝の祈りを捧げております」
呆気に取られていると、勘違いしたのか、レインジールは焦ったようにつけ加えた。
「どうか哀しまないでください。これからは私が、羽澄様の翼の代わりになります」
片翼の流星痕が刻まれた左手を胸に押し当てる姿は、真摯に誓いを立てる、清廉な聖職者のようだった。
夢より奇天烈な展開に、佳蓮の思考が停止しかけたその時、華奢な指が佳蓮の髪の一房をそっとすくいあげた。
「羽澄様は全てと引き換えに、この国の柱になってくださいました」
「いや、何がなんだか……私、飛び降りたはずなんだけど」
「そうです。尊い御身を捧げて、天から舞い降りてくださいました」
「天から……?」
「アディールは他国よりは安定していましたが、それでも破滅へ向かう轍を辿っていました。羽澄様の御降臨により、天地開闢の運命が定まったのです」
「ちょっと、ごめん。全然判らない。私、デパートの屋上から飛び降りたはずなんだけど……」
「苦しい選択を強いたこと、どうかお許しください。羽澄様の堕天の苦痛に、今度は我々が報います。生涯を懸けてお仕えさせていただきます」
氷晶の瞳に決意を灯して、レインジールは告げた。恭しい手つきで、うねる黒髪の一房に、形の良い唇を落とす。
その様子を、佳蓮は呆然と眺めていた。
噛みあわぬ話の内容は頭から消え失せ、レインジールの唇に目が釘づけになる。相手は少年で、ましてや性的に触れたわけでもないのに、なまなましい抱擁や官能より、よほど甘美で艶冶に感じられた。
「……やめて」
我に返って髪を取り返すと、レインジールは恥じ入るように視線を伏せた。
「ここは天国なんでしょ?」
「いいえ、羽澄様。ここはもう、天界ではありません」
首を振るレインジールを凝視しながら、佳蓮は考えた。
天国ではない……だとすれば、次に目を醒ました時、どこにいるのだろう?
――病院?
考えた途端に、ぞぉっと全身の肌が総毛立った。
自殺を図ったことは、覆しようのない事実だ。
遺書に詳しいことは書かなかったが、佳蓮を知る人間なら、佳蓮が何を苦に飛び降りたのか、想像に余りあるだろう。
クラスメイトは今頃どうしているだろう? いらぬ詮索を受けて、面倒に思っているだろうか。
家族は……家族は、めちゃくちゃになってしまっただろう。
心の細い母は、責任を感じて寝込んでいるかもしれない。父は、妹は……呆れ果て、冷ややかな眼差しを向けるのか、憐れみの目を向けるのか――
(嫌だ。あそこへ戻るのは嫌!)
全てを棄てたのに。あのまま死ねたら良かったのに――連れ戻されたくない‼
(嫌、嫌、嫌、嫌……)
表情の剥落した幽鬼のような顔を、レインジールは痛ましげに見つめた。膝の上で固く握りしめた手を、小さな手で労わるように包みこむ。
「大丈夫。私がついております」
言葉も、温もりも、佳蓮には届かなかった。
今わの際の煉獄に繋がれていた。腐敗寸前の林檎のような、甘く饐えた香りが幽かに漂ったような錯覚。
現実世界を見失い、意識は混沌とした深海へ沈んでいった。




