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一二月一四日。時計塔。六二階。
午睡から醒めると、陽がだいぶ傾いていた。
昏れなずむ空から、西日が部屋に射しこんでいる。
読書をしているうちに、眠ってしまったらしい。隣には、瞼を閉じたレインジールがいた。
眠るレインジールは、美しかった。
少し躰を傾け、長い白銀の髪を肘掛に散らしている。けぶるような睫毛が、神秘的な陰翳を頬に落とし、まるで瞳を閉じた陶磁器人形のようだ。
「……好きだよ」
そっと囁くと、力なく腹部に置かれていた腕が動き、佳蓮の腰へ回された。
「……もう一度、言ってください」
「起きてたの?」
「告白は、私が起きている時にお願いします」
「……最初から起きてたでしょ?」
瞼を開けたレインジールは、佳蓮を見つめ、ゆるやかに瞳を細めた。
「佳蓮。言って?」
大きな掌が、頬をやさしく撫でる。
「……好きだよ」
揺れそうになる視線をこらえ、氷晶の瞳を真っ直ぐ見つめて告った。
身を起こしたレインジールは、宝物に触れるように佳蓮を抱きしめ、頭に頬ずりをする。さらさらと零れる銀糸に茜が煌めき、星あかりのようだった。
「くすぐったいよ」
銀糸の髪を避けようとした手が、陽に透けていることに気づき、佳蓮は口を噤んだ。最近では、一日のうちに何度も、こうして輪郭が霞む。
「……佳蓮?」
訝しむ視線から、透けた手をそっと隠す。
かつては、年を取らないことが、命を棄てた罰だと思っていた。
何も判っていなかった。
本当の苦しみは、これから始まるのだ。
心を捧げた愛しい人は、佳蓮のせいで倒れ、佳蓮は永遠の時のなかを、哀しみを抱いたまま彷徨わなければならない。
「……お傍にいます」
哀しみを掬いあげるように、レインジールは背に隠した佳蓮の手を解いて、優しく両手で包みこんだ。
穏やかな瞳に、泣きそうな顔をした佳蓮が映っている。
胸のなかに優しく引きこまれ、慰めるように髪を梳かれていると、懐かしい既視感に襲われた。
〝羽澄様。私を見てください〟
耳に反響する、不安げな幼い声。
能面のように感情の剥落した顔を、その瞳に映し、必死に心を汲み取ろうとしていた少年――在りし日の、レインジール。
〝羽澄様、手をお放しください。傷になります……羽澄様!〟
左手で右手首を強く握りしめる佳蓮の手を、小さな手が必死にほどこうとしていた。
〝もう、おやめください……このようなこと〟
赤く残る爪痕を見て、泣きそうな顔で癒してくれた。天使のように美しく、優しい少年。緘黙する佳蓮の隣で、穏やかに、優しく声をかけてくれた。
〝今造らせている紅茶庭園は、泉のある美しい庭園で……〟
佳蓮の瞳に光が灯るのを見て、心から安堵したように笑うのだ。
〝お帰りなさい、羽澄様……〟
時が経っても、変わらず、佳蓮の傍にいた。
〝佳蓮、佳蓮。私の女神様。大丈夫ですよ。貴方は、ちゃんとここにいます〟
優しい呼びかけ。
離れゆく魂を引き留めるように、大切そうに、愛おしそうに……感情の抜け落ちた佳蓮に呼びかけ、何度も、何度も、心を繋ぎ留めてくれた。
「……私の、意識がない時……レインは……?」
辛かった?
そう訊こうとして、躊躇った。そんなの当たり前だ。手首を引っ掻いて――自傷行為を繰り返す姿を見せられて、どれほど不安だったろう? 怖かったろう?
「貴方のお傍にいます。いつも、いついつまでも」
「……」
俯く佳蓮の頭を、レインジールは優しく撫でた。
「心を彷徨わせている間に……貴方は、哀しい記憶を零すこともありました」
〝私ね、いじめられてたの……〟
涙声が、耳朶に蘇った。あれは、紛れもない佳蓮自身の声だ。
「私……毎日辛くて、周りが全部、敵に見えて……どうして私ばかり、こんな目にあわないといけないんだろうって、ずっと恨んでた……」
唇を戦慄かせる佳蓮の頭を、レインジールはそっと胸に引き寄せた。
「……その時も、貴方の傍にいてさしあげたかった」
温もりに包まれながら、佳蓮は瞳を閉じた。頬に涙が伝う。再び目を開けると、万感の想いをこめて、レインジールを見つめた。
「……レインの見ている私は、虚構なの。本当の私は綺麗じゃないし、女神でもない。お、汚物を見るような目で、人から見られていたんだよ……っ」
「私の大切な佳蓮は、脆くて儚い、けれど、気高く美しい、誰よりもかわいい女性です。この先どのような言葉も貴方の耳を汚させません。不届き者を寄せつけません。私は貴方の剣であり、盾です。だからどうか、有象無象の言葉に傷つかないでください」
涙が、次から次へと溢れてくる。
「私にとって、レインほど綺麗な人はいないよ。優しくて、強くて、その姿も、心も、どれをとっても、世界で一番綺麗なのは、レインの方なんだよ!」
泣きながら告げると、レインジールは眩しそうに瞳を細めた。
「……天に感謝しなければ。貴方に出会えて、良かった。佳蓮が私の容姿を、好いてくださって……本当に良かった」
嬉しそうに、幸せそうにほほえむレインジール。
終わりが来ると知りながら、どんな想いで、この一〇年を過ごしてきたのだろう。どれほどの覚悟で、佳蓮の傍にいてくれたのだろう。
「……ありがとう。私を見つけてくれて……本当に、ありがとう……っ」
「感謝を捧げるのは、私の方です。貴方の傍にいられて、これほど幸せなことはありません。どうか、どうか……天の慈しみが貴方の上にありますように」
どうして――どうして――これほど善良な人を、どうして天は慈しもうとしないのだろう?
瞳を潤ませるレインジールの唇に、佳蓮は天にかわって、そっとキスをした。




