表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奇跡のように美しい人  作者: 月宮永遠
4章:聖杯
37/42

35

 時計塔へ戻ると、誰もが顔に喜色を浮かべて首を垂れた。

 人とすれ違う度にほほえみを浮かべながら、佳蓮は六十二階の私室に向かった。

 部屋はきちんと整えられており、蘭のよい香りがした。

 時計塔を飛び出したあの日から、窓から望む絶景も、部屋の様子も、少しも変わっていない。

 浴槽には、湯気の立つ湯が張られていた。召使が気を利かせてくれたようだ。早速、使わせてもらうことにする。

 硝子瓶を傾けて、とろりとした香油を湯船にたらすと、雫がぽつぽつと湯に弾けて、白い波紋を描いた。

 異国の甘い花の香りが立ち昇る。暖かな湯気に溶け込んで、全身を癒してくれる。

 湯に身体を沈めたまま、瞳を閉じた。

 久しぶりの贅沢。旅の疲れを癒されながら、心は引き絞られるような苦しみを訴えていた。

 ほんの数時間前、二人で街を歩いたことを、遠い昔のように感じる。とうとう帰ってきてしまった――


 時計塔での暮らしが、再び始まった。

 残りの日数をかぞえて佳蓮が気落ちする一方、レインジールは落ち着いたもので、穏やかな笑みを絶やさなかった。

 今も、ほほえみを浮かべて、優雅な手つきで紅茶を煎れている。


「……どうして、そんな平然としていられるの?」


 つい、責めるような口調で訊ねると、レインジールはポットを卓に置き、佳蓮の手を取って首を傾けた。


「貴方の傍にいられるのです。これほど幸せなことはありません」


「もうすぐ終わるけどね」


 困ったようなほほえみを見て、佳蓮は視線を逸らした。掴まれた手を振り払うと、宥めるように頭を撫でられ、余計に腹が立った。


「私のこと好き?」


「はい」


「こんなに性格が悪いのに、よく好きになれるね」


「貴方は、かわいいひとです」


「嘘。この顔が好きなんでしょ? 女神人気も凄いしね」


 そっけない口調で応じる佳蓮を見て、レインジールは何もいわず、眼を細めた。まるで、年下の女の子に対して、しょうがないなぁ、と愛でるような眼差しだ。

 頬が熱くなる。至らない我が身に羞恥が込み上げ、佳蓮は俯いた。自分がどうしようもないほど、子供に思えた。


「レインのそういう何もかも判ってます、って顔、大嫌い――」


 一瞬、何が起きたのか判らなかった。

 肩を押されて、身体はあっけなく後ろに倒れた。寝椅子に沈みこみ、顔の左右に囲い込むように手をつかれた。

 見惚れるほど綺麗な顔。垂れ下がる銀糸の髪に、世界を遮断された。

 蒼い瞳に、佳蓮が映りこんでいる。

 端正な顔が降りてきて、佳蓮はようやく我に返った。顔を背けると、耳朶をかたどるように唇が触れてくる。


「……貴方の唇から、嫌いだなんて、冗談でも聞きたくありません」


 かすれた声で囁かれて、佳蓮の鼓動は撥ねた。掌に頬を包まれて、正面を向かされる。

 瞳の奥に熱を灯し、影を落とす美貌はたとえようのないほど艶めいていた。押しのけようとした腕を掴まれ、そのまま唇を塞がれた。


「ん」


 やんわりと唇を食まれて、ちゅ、と濡れた音が立つ。閉じた唇のあわいを舌でつつかれて、佳蓮はふるえた。被さるように唇を押し当てるレインジールの胸を叩く。


「……すみません。とまれない」


 身もだえる両腕をきつく掴まれて、再び唇を奪われる。舌を挿し入れられ、口内を舐められた。


「――んッ」


 脳髄が痺れて、思考がままならない。

 泉を貪るように、何度も舌を吸われた。心臓が壊れてしまいそうなほど。


「佳蓮、貴方を愛している」


 眼を瞠る佳蓮を見て、想いの強さを抑え込むように、レインジールはほほえんだ。


「残された日を、大切に過ごしたい……瞼の奥に、佳蓮の笑顔を焼きつけておきたい。いつでもこの瞬間を、取り出せるように」


 想いの籠った告白に、胸の奥がツキンと震えた。潤みかける視界を、瞬きすることでやり過ごした。彼が望むのなら、彼の前では、できる限り笑顔でいたい。そう思った。

 思ったけれど――

 人前では気丈に振る舞っていても、別れの時を佳蓮は強く恐れていた。

 資料館へ足を運ぶのは以前からの日課であったが、最近は、解決の糸口を探すために通っている。

 知識の宝庫に救いを求めても、答えは見つからない。

 無為に時は過ぎていく。

 陽に透ける手を空に翳しては、一人で泣いた。

 その日もどうしようもないほど気が落ち込み、誰もいない木陰に隠れて泣いていた。

 そっと肩を叩かれ、レインジールかと怯えたが、そこにいたのはリグレットだった。


「……貴方は、そんな風に泣くのですね」


「レインにはいわないで!」


 咄嗟に叫ぶと、リグレットは小さく頷いた。涙を流す佳蓮を痛ましそうに見つめて、そっと肩を抱き寄せる。その手に慰めしか感じられず、佳蓮は大人しく身を任せた。


「どうして、私は聖杯を満たせないの……どうして……」


「何もかも承知した上で、長官は契約を結んだのです」


「レインを失うなら、契約なんてしたくなかったッ」


 優しく頭を撫でられて、佳蓮はリグレットにしがみついた。新たに盛り上がった涙が、紺地の制服に染み込む。

 辛い。

 想いの行き場がどこにもなくて、胸が張り裂けそうなほど苦しい。

 一度は棄てた命を、レインジールが救いあげてくれた。彼の傍で羽を休め、少しずつ傷を癒していった。彼がいてくれたから、佳蓮は絶望の淵から戻ってこれたのだ。


「ッ……ふ……」


「貴方は、本当に長官が大切なんですね……」


 それなのに、あんなにも清らかな人が、佳蓮の代わりに死ななければならないなんて!


「あぁ……レイン、ごめん……ごめんなさい……ッ」


 涯てしない悔悟から抜け出せない。呪わしいことに、この苦しみは、かつて佳蓮が家族に与えたものなのだ。

 やり直せるのなら、もう一度、あの夜に戻りたい。矛盾に満ちた過去と未来をねがい、佳蓮は涙を流した。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=171048670&s
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ