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新星歴二〇〇〇年。一一月五日。
時計塔へ帰る日がきた。
穏やかで、満ちたりた自給自足の生活を惜しみながら、佳蓮はレインジールの手をとった。
これまで知らなかったが、オルガノの屋敷の地下には、高価な広域星路陣があり、皇都にも通じているという。ここへ辿りついた長い道のりが嘘のように、一瞬で皇都へ戻れるのだ。脱力した佳蓮を見て、オルガノは愉快そうに笑っていた。
いつでも会いにこれるとはいえ、オルガノと別れるのはとても寂しかった。別れの朝、彼女は石鹸や茶葉などの手土産を持たせ、二度も抱擁を交わし、互いの姿を認識できる間は、佳蓮に向かって優しく頷きかけていた。
時計塔へ直行せず、皇都を少し散策してから帰ることにした。楽しいことをすれば、星杯も満ちるかもしれない――そう提案したのは佳蓮だ。
都会の娘のように変装し、レインジールと手を繋いで街へ出る。帽子を目深に被った佳蓮に、周囲は気づいた様子もない。
「こんな風に、歩けるなんてね」
笑顔の佳蓮を見て、レインジールもほほえんだ。彼も星導師の制服ではなく、学者風の軽装に着替えている。
「せっかくですから、旧市街を歩いてみましょう。きっと佳蓮は気に入ります」
そう言って、レインジールは佳蓮の肩を抱き寄せる。これまでとは違う、恋人の距離に胸が高鳴った。
ふと星杯のことが脳裡を過り、胸に刺すような痛みが走る。それでも今は、無理やり捻じ伏せた。楽しい気分に、水を差したくなかった。
皇都ヘカテルの城下町は、芸術の街でもある。
一〇年、一〇〇年前の建物も十分に現役。天井は高く、窓や壁に施されたレリーフが美しい。
小径の切り取られた青空に、鮮やかな緑が映えていた。
茂みが路地を跨ぎ、岐れた幹が煉瓦塀に沿って這い登る仄暗い闇の中に、騎馬のまま通り抜けることのできそうな門が、ぽっかりと口を開けていた。
「あそこ、行ってみよう」
小径を見つけると、覗きたくなる性分なのだ。目を輝かせる佳蓮を見て、レインジールは優しくほほえんだ。
「奥に、古い旅館がありますよ」
「そうなんだ」
不揃いな石畳の上を、暖かな風が吹き抜けていった。
トンネルの先には、趣のある旅館があった。白い光に満ちた中庭、生い茂る蔓のところどころに、散り遅れた藤の花が残っている。
「今度、泊まってみたいな」
「ええ、そうしましょう」
小さな約束が嬉しくて、佳蓮はほほえんだ。
ただ手を繋いで歩くだけで、こんなにも心が弾むなんて――とても幸せだった。
変装していても、佳蓮を見て振り返る者は少なくなかったが、佳蓮の瞳にはレインジールしか映らなかった。
すれ違った若者が佳蓮を見て口笛を吹くと、レインジールは露骨に眉を顰めた。
「きゃっ」
暗がりへ引き寄せられ、嫉妬に燃える瞳を見つめて、佳蓮は息を呑んだ。
端正な顔がおりてくる。瞳を閉じた瞬間、唇が燃えあがった。甘い口づけに、心も躰も蕩けていく。
「……はぁ……貴方が、もっと平凡な女性であれば良かったのに」
「平凡だよ?」
おどけて答えつつ、内心では嬉しかった。
レインジールなら、佳蓮がどこにいても、どんな姿をしていても、きっと見つけてくれる気がする。
「誰もが貴方を見る……判っていても、腹立たしい。塔に閉じこめてしまえたらいいのに」
熱を帯びた視線に、佳蓮は俯く。心臓が壊れそうなほど暴れていた。
「……閉じこめていいよ。レインなら」
そっと顔をあげると、氷晶の瞳に狂おしい色が浮かんだ。
「貴方という人は……」
言葉は途切れて、綺麗な顔が再びおりてくる。
「……赤い唇を見ていると、キスしたくて堪らなくなる」
耳元で囁かれ、佳蓮は真っ赤になって俯いた。迫ってくる躰に手をあてると、彼の鼓動も佳蓮と同じくらいに速かった。
「佳蓮。こちらを向いて」
恥ずかしくて、首を振ることしかできない。何も言えずにいると、顎に指をかけられた。そっと、上向かされる。
満ちる青――
唇を塞がれて、甘く貪られた。
いつまでも、こうしていたい。
二人は同じことを思っていた。
今は、お互いのことしか目に入らない。どんな素敵な景色よりも、貴方を見ていたい。
この一瞬が、永遠であればいいのに……
願っていても、陽は傾いていく。
茜が射し、やがて街は黄金色に染まった。
遥かな尖塔は、陽を反射して煌めいている。
美しい光景だ。
星教区に続く、どこまでも真っ直ぐなマロニエの並木道。
遥か遠くから渡ってきた風が、草木の爽やかな香りを運んでくる。寄り添うように可憐に咲くクロッカスの花が、妙なる美しさを醸していた。
とても美しい光景なのに、終わりゆく一日を意識して、佳蓮の心は沈んだ。日常に戻るのが懶い。
「帰りたくないな……」
ぽつりと零すと、レインジールは佳蓮の顔を覗きこんだ。
「また遊びに来ましょう」
「うん……」
「佳蓮。そんな顔をしないで」
抱きしめられ、佳蓮もしがみついた。少しも離れたくなかった。
幸せで。幸せで。幸せ過ぎて――この時間が、もうすぐ失われるなんて。
思った瞬間、胸に鋭い痛みが疾った。
「佳蓮」
両頬を包まれて、潤んだ視界が持ちあがる。涙に濡れた眦に、そっと口づけられた。
「愛しています。全身全霊をかけて愛しています。私の全ては佳蓮のもの。だからどうか、心の片隅に住むことを許してください」
その甘美な囁きは、佳蓮の心を激しく乱した。
「……どうすれば、星杯を満たせるの?」
「必ず満たせる時がきます」
「今じゃなきゃ……レインが……」
「佳蓮」
「置いていかないで……耐えられないよ、私も連れていってよ……っ」
すすり泣く佳蓮を、レインジールは強く抱きしめた。
「私は、佳蓮を悲しませてばかりですね……貴方が笑ってくれるなら、何でもするのに」
「どこにも行かないで。傍にいて、他には何もいらないからッ!」
震える声で縋ると、レインジールの瞳から雫が零れ落ちた。
この胸の苦しみは、彼も同じなのだ。佳蓮を想い、置いていくことを哀しみ、とても心配している。
(ああ、レインッ!)
言葉ではいい尽くせないほど、哀しかった。
懸命に自分を落ち着かせ、喚き散らしたい衝動を必死に堪えて、迸りそうになる悲鳴を呑みこんだ。
「……好き。レインが大好き。ずっと、ずっと好き」
背伸びをして唇にキスをすると、レインジールは強い力で佳蓮を抱きしめた。
運命がひたひたと迫ってくる。
こんなに想っているのに。どうして、星杯は満ちないのだろう――




