33
泣き疲れて眠ってしまった佳蓮は、朝まだきに目を醒ました。
空はまだ暗かったが、厚手のストールを羽織り、静かに外に出た。水平線を望める崖へと、足を向けた。
切り立った崖上には、空の半分だけ雨雲が重く垂れて、不思議な明暗を醸していた。
やがて、空の裳裾が色づいていく。
水平線の彼方から、巨大な金属盤を巻きあげるようにして、朝陽がゆっくりと昇った。
清らかな陽射しを浴びながら、心を決めた。
――時計塔へ帰ろう。
レインジールに、会いに行こう。
強い風が吹き、舞いあがる髪をおさえて躰がよろめいた。
次の瞬間、唐突に腰へ回された腕に、心臓が口から飛びだしそうなほど驚いた。
「なんて場所に立っているのですか」
「レイン⁉」
幻聴かと思った。
信じられない想いで振り向くと、そこには強張った表情のレインジールが立っていた。
「どうして、こんな危ない場所に一人で来たのですか?」
「え……」
言葉が続かない。あまりにも出来すぎた再会に、佳蓮は自分の願望が見せた幻なのではないかと疑ってしまう。
「聞いていますか?」
「……久しぶり」
「久しぶり、じゃないでしょう」
最後に見た時から少しも翳らぬ、いっそう冴え渡るような美貌が、呆れたように言う。
大人びた顔立ちに、流れた月日を思った。
夢にまで見た氷晶の瞳が、佳蓮を映して細められる。胸がいっぱいになり、目頭が熱くなった。泣くのを堪えて瞬きをしたが、涙は雫となって零れ落ちた。
「佳蓮」
美しい顔が、涙でぼやける。
恐る恐る両手を伸ばすと、レインジールは苦しげな表情を浮かべて、佳蓮を抱きしめた。
「佳蓮。自分を責めないで」
「ごめんなさい……」
「貴方が謝ることなど、何一つありません」
「ごめん……ッ」
その先は言葉にならなかった。
むせび泣く佳蓮を、レインジールは黙って抱きしめ続ける。
「ずっと、ずっと、会いたかった」
絞りだすように呟くと「私もです」と、レインジールが切なげに応えた。
愛おしむように頭を撫で、赤くなった瞼へそっと口づける。
優しい慰めに、涙はとめどなく溢れた。
どうして、この人はこんなにも優しいのだろう? 自分勝手に塔を飛び出した佳蓮を、少しも責めず、ただ温かな胸に抱きとめようとする。
「私が星杯の役目を終える時まで、傍にいてくれますか?」
いつまで、一緒にいられるのだろう――不安な気持ちを読んだように、レインジールはほほえんだ。
「大丈夫です。貴方を死なせはしない。そのために、私がいるのです」
「全然、大丈夫じゃないよッ」
声を詰まらせる佳蓮を、レインジールは包みこむように抱きしめる。胸に押し当てた頬に、少し速い鼓動が伝わり、胸が締めつけられた。今こうして、生きているのに。生きているのに!
「どうすればいいの? 私にできることはないの?」
「傍にいてください」
「いる。一緒にいよう。もう離れたくない……!」
この決断をするために、この世界へ降りたのかもしれない。
あの夜から始まった悲劇に、ようやく一つの答えを見つけた気がした。
胸に縋りつくと、レインジールは耐えかねたような表情を浮かべ、佳蓮の指先をそっと取る。そっと、恭しく唇を落とした。
「もう限界です。もし次に、貴方がどこかへ行ってしまったら……私は何をしでかすか判らない」
「離れないよ。私はレインに会うために、この世界へ来たんだもの」
レインジールは小さく息を呑んだ。
佳蓮は瞳を閉じ、胸へ頬を押し当てた。早鐘を打つ鼓動を聞きながら、広い背中に腕を回す。
「ずっと待ってた。もっと早く、会いにきてくれたら良かったのに」
腕をそっと外され、レインジールは佳蓮の手を白皙の頬に押し当てた。
「私を遠ざけたのは、貴方でしょう」
「……うん」
「責めるつもりはありません。私自身の問題です。会ってしまえば、二度と離れられないと判っていたから。次に拒まれたら、貴方を閉じこめてしまいそうで……それが怖かったのです」
佳蓮は首を振った。
「私も、やっと判った。レインが好き。心変わりしていないか、ずっと怖かった」
美しい瞳を覗きこんで告げると、花開くように、レインジールは表情を綻ばせた。
「私もです、佳蓮。嬉しい……とても」
「もう離れるのは嫌。一緒にいる方がいい!」
「……想像以上に、嬉しいものです。ここへ来るまで不安ばかりでしたが、今はただ、嬉しい」
佳蓮の手を自分の頬に押し当てる彼の手の甲には、朱金の双翼が刻まれている。翼は大きく開き、今にも羽ばたきそうだ。
「私にできることがあるなら、何でもする。お願い……死なないで……っ」
涙が頬を伝う。嗚咽を堪える佳蓮を、レインジールは強く引き寄せた。
「泣かないで、佳蓮」
「星杯契約を解くことは、できないの?」
「……できません。魂に刻まれた誓いです」
「どうしても? 何か方法はないの?」
緩やかに首が振られる。
「ありません。どうか苦しまないでください。私は少しの後悔も、恐怖もないのです。ただ、佳蓮の負担になることだけが、怖い」
「嫌だ、一人にしないで。私も連れていってよッ」
頬を大きな掌に包まれて、上向かされた。狂おしい光を湛えた瞳に、涙に濡れた佳蓮が映っている。
「今すぐ消えるわけではありません。明日も明後日も、佳蓮と一緒に過ごせます」
顔中に優しいキスが雨と降る。濡れた瞼、熱を持った頬、鼻の頭、唇にも……
「お願いです、泣かないで。今、悲しむのはやめましょう?」
そう言うレインジール自身も、今にも泣きだしそうな顔をしている。
涙を拭って、どうにか笑みを拵えると、レインジールもほっとしたように口元を緩めた。
「ここにいては、風邪を引いてしまいます。オルガノ様のところに戻りましょう」
「……うん」
腰を力強い腕に支えられ、佳蓮は大人しく身を委ねた。
道すがら沈んだ空気でいたが、屋敷に戻り、楽しげなオルガノの顔を目にした途端、二人とも肩の力が抜けた。
「不器用な男だと思っていたけど、レインジールもなかなかやるじゃないか。流星の女神の心を、本当に射止めるとはね!」
「オルガノ様……」
「でも、まだまだ女心が判っちゃいないよ。私に感謝するんだね」
反論もせず黙って席につくレインジールを見て、佳蓮は新鮮な気持ちを味わった。
冷静で明晰なレインジールが、オルガノの前では年相応の若者に見える。本当に、師とその弟子なのだ。
「これを飲んで、二人で時計塔にお帰り」
「はい。ありがとうございます、オルガノさん……」
優しい紅茶の味が喉を伝い、自然と涙が溢れた。
オルガノの傍は、本当に居心地が良かった。彼女がいなければ、レインジールが傍にいない月日を、耐え忍ぶことはできなかっただろう。
「……また、会いに来てもいいですか?」
涙声で訊ねると、オルガノは破顔した。佳蓮の頭を、変わらず優しい手つきで撫でる。
「当たり前じゃないか! 遠慮なんていらないよ。いつでも遊びにおいで。待っているから」
目尻に皺を寄せて、磊落に笑う。
この素敵な女性に、どれほど救われたろう――佳蓮は涙に濡れたまま、心からの笑顔を浮かべた。




