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工房で独りになると、レインジールは窓辺に歩み寄り、夜空を仰いだ。
星の瞬く天空を眺めて、佳蓮を想う。
澄み透った黒玻璃の瞳。豊かな黒髪。まろやかな頬、艶やかな唇――見る者すべてを惹きつける笑顔。
時折、佳蓮は自分の笑顔が気に入らないなどと言うけれど、理解に苦しむ。
あれほど魅力的な笑顔が、他にあるだろうか。
彼女が笑うだけで、世界は光り輝く。息をすることも忘れて、ただ惚けたように見つめてしまう。彼女さえよければ、一日中でも見ていたいくらいだ。
月明かりに照らされ、伏せられた睫毛。
一つひとつの仕草が可憐で、目で追わずにはいられない。暖かく、優しく、天真爛漫な女神。
あの遠い十二月。
数えきれぬ夜の涯てに、流星の女神は天空から舞い降りた。
ひと目で、心を奪われた。
全身の血が沸騰し、冷めた心に忽ち火を灯したのだ。これまでに経験のない、熾烈な感情が芽生えた。
初めて交わした視線を、今も忘れない。
神秘的な黒い瞳は、確かにレインジールを映して煌めいていた。
斜陽を浴び、まろやかな肢体を鹿毛色に縁どられていた女神は、幼心に、眩暈を覚えるほど魅惑的だった。
柔らかな手に、唇で触れたあの一瞬。抑制の利かない衝動というものを、生まれて初めて知った。
流星痕を捧げることに一片の躊躇もなかった。彼女を守る契約者になれたという甘美な誇りに満たされ、心臓は制御不能なほど高鳴り、その夜は一睡もできなかった。
――初恋だった。
彼女の一挙一動に、感情は激しく揺さぶられた。
澄んだ黒玻璃の瞳に映るだけで至福を味わえる日もあれば、視線をもらえずに憂鬱になったり、他の誰かに笑みかける姿に、耐え難い嫉妬を覚える日もあった。
それでも佳蓮は、誰よりもレインジールを気にかけ、外出する際は傍から放そうとしなかった。
家族を立て続けに喪い、家督を継ぐと共に、星導五塔総監の後継に選ばれ、自分でも早熟な人生を歩んでいると思っていたが、そうではなかった。
恋を知り、魂の躍動と同じ分だけの苦しみを知り、本当の意味で自分はもう何も知らぬ少年ではないのだと自覚した。
出会った時、佳蓮は七歳年上の女性だった。一〇歳のレインジールにとって、その七つの歳の差は、決して越えられない海溝のように思えた。
手の届かない女神だと諦めていたが、出会ってからの日々は眩しくて、楽しくて、佳蓮の新たな側面を知る度に、大きな喜びがあった。
時折、全身鏡の前で、不安そうに女神は訊ねる。
「……私、綺麗?」
あの問いだけは、今でも理由が全く判らない。
飾らなくても、特別な演出がなくても、そのままの佳蓮で息を呑むほど美しいのに。
絶世の美女には、奔放だけれど無垢、大胆だけれど臆病、溌剌としているが繊細……相反するものが同居しており、瑞々しい美しさからは計り知れない深淵さを秘めていた。
退廃的な美しさを併せ持つ難しい女ではあるが、そうした複雑さこそ、彼女の所以であり、情熱的で幽幻的な魅力なのだ。
夜をとじこめた玻璃の瞳を煌めかせて、レインジールに〝あなたは綺麗〟と笑いかけてくれる。暖かな眼差しに偽りない、心からそう思っているのだと、レインジールに教えてくれた。
寂しさを癒し、生きる喜びを教えてくれた。あんなに素晴らしい女は、世界中のどこを探したっていやしないだろう。
最愛の人。
我が命の全て。
許されるのなら、いつまでも傍にいたい。
願わくば、唇を許して欲しいけれど……天にも昇る心地でいられるから。
盲目的に恋をするレインジールを、佳蓮は優しい瞳で見ていたけれど、どこか侮っていて、悪戯な子猫のように頬や額に口づけることがあった。それだけで、飛び回りたいほどの歓喜に襲われていたレインジールは、やはり子供だったのだろう。
頬に触れる柔らかな唇の感触を思いだす度に、心が震えて、躰が熱くなる。
残酷で美しい女神は、思わせぶりな態度でレインジールを燃えあがらせる時もあれば、急に人が変わったように冷たくなり、傍へ寄せつけないこともあった。心を飛ばして、一切視界に映さない日が、永遠のように続く日もあった。
清廉無垢で奔放な佳蓮は、愛されることを望み、同じ分だけ、愛されることを恐れてもいた。
十二歳。
未熟な躰が大人に近づくにつれて、葛藤は強くなっていく。
夢のなかで佳蓮をかき抱き、甘い唇に何度も口づけた。
匂い立つ香りに陶酔して、まろく柔らかな躰に欲が疼く。夜に想うだけで、熱が滾るのだ。
敬愛すべき女神に、初めて劣情を催した時には、己のあまりの矮小さに項垂れた。
一五歳になると、殆ど毎晩のように苛まれるようになった。
想いは募り――
一七歳になると、抑えきれない想いがとうとう溢れて、夢のなかのように、甘美な唇を貪った。
星導の心理を熱望するのと同じくらい、佳蓮を崇拝し、憧れを抱き、愛を欲していた。
塔を出ていくことを許可したのは、佳蓮の強い意志と、星杯の懸念もそうだが、堰き止めている理性が崩れる前に旅立って欲しかった事情もある。
日々強くなる想いをもてあまし、そう遠くない未来に、刹那的な衝動に負けて、強引に奪ってしまいそうだった。
――九杯も空けたが、まだ酔えない。
窓を開くと、冷えた夜が流れこんできた。火照った肌に、冷たい空気が心地よい。
叶うことなら、いつまでも佳蓮の傍にいたいが、彼女との時間は有限で、レインジールに残された時間はもう長くはない。
何百、千、万と星導を繰り返したが、絶望的な未来しか視えなかった。
佳蓮は、刻限までに星杯を満たせない。
時が満ちれば、レインジールは消滅する。この身を燃焼して、佳蓮の糧となれるのなら本望だ。
ただ、佳蓮の涙を想うと辛い……
最後まで、流星痕の真実を明かさなかった。この先も、知る必要のないことだ。
レインジールの死を、佳蓮は悼んでくれるだろう。その感情は佳蓮を揺さぶり、きっと心の芯にまで響く。
その時こそ、星杯は満ちる。
堰き止められていた時間も、大洋に向かって流れていくだろう。
彼女は、うてなをひらいて、月光すら魅了する蓮の花だ。花開く姿は、どれほど美しいのだろう? どんな風に、年を重ねていくのだろう?
想像するだけで、涙が溢れそうになる。
傍で見ていたいけれど……
隣にレインジールがいなくても、彼女が笑っていてくれるのなら、それでいい。
一生に一度の恋をした。
愛する喜びを教えてくれた。人生の素晴らしさを教えてくれた。それで十分だ。
美しい黒玻璃の瞳に、永遠に焦がれている。恋い慕う姿を夜空に想い描き、囁いた。
「佳蓮、愛しています……」




