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 (まぶた)の裏に、淡い燭光(しょくこう)のような明滅が触れた。

 (ひとみ)を開くと、(せい)()な彫刻の円蓋(えんがい)が見えた。絹織の(しゃ)が幾重にも垂れ、蘭の香りが(かす)かに(ただよ)っている。

「……?」

 どうやら、豪奢な寝台に(ぎょう)()しているらしい。

 (しゃ)の向こうに、広々とした部屋が()けて見える。壁一面の大窓から陽が射し、部屋を明るく照らしている。

 袖机には青い蘭が、凍る宝石のように活けられていた。

 躰を起こすと、見覚えのない洋服……たっぷりした袖と襟飾りのついた白絹の寝室着(ネグリジェ)を身に(まと)っていた。

(……なんで?)

 一瞬、病院かと思ったが、こんなに豪華な病室に心当たりはない。

(もしかして、天国?)

 飛び降りたはずなのに、どこも痛くない。むしろ躰が軽い。

 傷一つない手首を見て、一瞬、思考が止まった。極楽浄土には老いも怪我もないのだろうか?

 大きな寝台を降りて窓辺に寄り、外の景観を目にした瞬間、思わず声が漏れた。

「うわ……」

 地上は(はる)かに遠い。

 見渡す限りの雪景色。栄えし荘厳な都は白銀に覆われ、屋根も塔も、静かな光を(きら)めかせている。

 空を見上げると、あえりえないものが視界に入った。

 黄金に縁どられた雲間を、はばたいていく巨大な何か……優美な竜が悠然(ゆうぜん)と泳いでいる。

「……すごい」

 本当に天国かもしれない。

 少なくとも、現実ではない。茫漠(ぼうばく)の空に、可視光で惑星状星雲(せいうん)が見えるのだから。

 真鍮(しんちゅう)の鍵を外して窓を開けた途端、凍えるような冷気が入りこんできた。

「さむ……」

 風が頬を(なぶ)り、白い息が(こぼ)れた。

 冷たい空気が肺に流れこみ、五感が目覚めていく。死後の世界が、これほどリアルだとは思わなかった。

 空気は冷たいが、肌を照らす黄金の(こう)()は暖く感じる。妙な感覚だった。陽の暖かさを心地良いと感じるのは、いつぶりだろう?

 どこか遠くへ行きたかった。

 家族の顔を見ずに済むなら。

 学校へ行かなくていいなら。

 佳蓮を知る人間のいない場所なら、どこでも……

 コンコン。

 不意のノックに、心臓が大きく()ねた。

「お目覚めでしょうか?」

 扉の向こうから、澄んだソプラノが聞こえた。少年の声だ。

「あ、はい」

「入ってもよろしいでしょうか?」

「……はい、どうぞ」

 佳蓮は、手櫛(てぐし)で黒髪の()ねを撫でつけながら、身なりを確かめた。

 上品な寝室着(ネグリジェ)は、生地も縫製もしっかりしていて、丈は足首が隠れるほど長い。このまま人前にでても恥ずかしくはない……はずだ。

 扉が、ゆっくり開いた。

 そこには、これまで見たことのない、絶世の美少年がいた。

(うっわ、綺麗な子……!)

 乳白色の肌に、氷瀑(ひょうばく)のように碧い(ひとみ)。腰まで垂れる白銀髪は、星屑(ほしくず)を織りこんだように(きら)めいている。

 年は、一〇ほどだろうか?

 性分化前の天使めいた愛らしさだが、(りん)とした声は少年のものだった。

 襟や裾に銀繍(ぎんしゅう)を散らした、白の長衣に身を包んでいる。荘厳な舞台衣装のようだが、少年にはよく似合っていた。

「女神さま……」

 陶然(とうぜん)と呟いた唇が、淡く震えた。

 まるで命を得た陶磁器人形(ビスクドール)が言葉を紡いだみたいに、現実味が薄い。

 佳蓮が見返すと、少年は恥じ入るように頬を染め、視線を彷徨(さまよ)わせた。

 視線が鋭くならぬよう、めいっぱい(ひとみ)を丸くしながら、佳蓮は少年の言葉を反芻(はんすう)した。

(……女神? 女神と言った?)

 異国の言葉のはずなのに、意味がすんなり落ちる。その不可解さに気づくより先に、佳蓮は口を開いた。

「……貴方は?」

 小首を(かし)げた佳蓮を見て、少年は、小さく目を(みは)る。子猫のようにぱっちりとした二重の目元に、ぱぁっと朱が散った。

 予想外の反応に戸惑っていると、少年は姿勢を正し、騎士のように(うやうや)しく片手を胸に添えた。

「初めまして。私は、アディール新星皇国、星導(せいどう)()(とう)総監(そうかん)長官を務めております、レインジール・クレハ・メビウスと申します。女神の堕天を、心よりお待ちしておりました」

 幼い(かお)にそぐわぬ明晰(めいせき)な口調で告げ、忠実な臣下のように(こうべ)を垂れた。白銀の髪がさらりと肩からこぼれ落ちる。

 言葉の意味を考えるよりも、その美しい髪に視線は吸い寄せられた。このような髪色は初めて見た。角度によって蛋白(オパール)のように七色に変化する。

 束の間の沈黙。

 レインジールは顔をあげ、(きん)()の刺繍が(きら)めく紋織(ジャガード)の外套をはずし、佳蓮の肩にかけようとした。

「あ、大丈夫……」

「羽織っていてください」

 気持ちは嬉しいが小さすぎる。一枚布のような縫製とはいえ、背丈一六八センチ、体重六八キロの佳蓮が羽織るには、生地が足りない。

 それでも気遣いを無下にできず、肩にかけて落ちぬよう手で押さえた。

「お目覚めのところを失礼します。少しお時間を頂戴しても、よろしいでしょうか?」

「……どうぞ」

 佳蓮が身をずらして招くと、レインジールは躊躇(ためら)いがちに足を踏み入れた。

(すごい……等身大の人形が、歩いているみたい)

 幼い容貌ながら、所作は(てん)()で、言葉も身の置き方も、過剰なほど整っている。何かの役職に就いていると口にしていたが、どういった少年なのだろう?

「流星の女神。こちらへ……どうぞ、おかけください」

 促され、佳蓮は寝椅子(シェーズ)に腰をおろした。

 その正面でレインジールは(ひざまず)き、氷晶(ひょうしょう)(ひとみ)で、祈りに似た眼差しで仰ぎ見た。

「お手に触れても、よろしいでしょうか」

「手……?」

 佳蓮は戸惑いながらも、掌を上向けて差しだした。指先へ、レインジールがそっと触れる様子を見守る。

 白く華奢な指。整えられた爪は艶やかで、淡い桜貝みたいに可憐だ。

 壊れ物を扱うように優しく、慎重に触れるので、(とし)()もいかぬ少年に対して、佳蓮は胸の高鳴りを覚えた。

「……流星の女神、御名(みな)(たまわ)れますか」

「女神……?」

「貴方は、天に(いこ)う、まほろばの楽園より遣わされた御使い。皇国では()(けい)をこめ、流星の女神とお呼びしております」

「……私が?」

「はい」

 理解が追いつかず沈黙すると、レインジールは不安そうに愁眉(しゅうび)を寄せた。その表情があまりに(いとけな)くて、佳蓮は慌てて首を振る。

「あ、ええと……私の名前、ね。()(すみ)です。()(すみ)()(れん)

「羽澄、佳蓮、様……」

 少年は、驚くほど日本語を正確に発音した。

 宝物を胸にしまうみたいに、佳蓮の名を舌に乗せて、反芻(はんすう)している。

 そして、決意を灯した双眸(そうぼう)で、佳蓮を見つめた。

「――では。羽澄様。いまより星杯(せいはい)の誓いを結びます」

「え……誓いって?」

 佳蓮が手を引こうとした瞬間、レインジールは痛くない程度に、そっと指を()めた。

 逃がさない、ではなく――落とさない、という触れ方だった。

星幽(アストラル)界より()ちた客星(かくせい)は、物質(エーテル)界の重さに、魂がほどけます。それを繋ぐには、(うつわ)(くさび)()るのです」

 言葉は判るが、意味がよく判らない。

 レインジールは一度だけ(まぶた)を伏せた。祈りを()ぐように。(やいば)を磨くように。

 再び(ひとみ)を開くと、(りん)と澄んだ声で(うた)い始めた。

「名を持つ客星(かくせい)よ、ここに留まれ。我は(とが)を負う者。されどこの(とが)を、盾とし、鍵とする。メビウスの血を(もっ)()を閉じ、メビウスの名を(もっ)て道を(ひら)く。

 羽澄佳蓮。(なんじ)の歩む大地に、我が命を影として添えん。(なんじ)の眠りに、我が息を(つが)いとして寄せん。(ちぎ)りは(さかずき)(さかずき)は星の(うつわ)(うつわ)は我が身――」

 触れ合う指先に、ちりっとした熱が(はし)った。

 咄嗟に手を離そうとすると、レインジールは痛くない程度の力で、佳蓮の手を掴まえた。

「――待って‼」

 取り返しのつかないことが起きる予感が、皮膚を駆けた。だが、(たえ)なる旋律は止まらない。

金剛(こんごう)不壊(ふえ)なる星杯(せいはい)(もっ)て、我が忠誠を、ここに刻む。霊魂(れいこん)不滅の(あかし)を、ここに刻む」

 琺瑯(ほうろう)めいた白い左手の甲に、金色の焔が揺らめいた。

「何っ⁉ 怖いよ……っ!」

 肌を焦がす匂いに佳蓮は戦慄した。

 けれどレインジールは顔色ひとつ変えない。麗貌を傾け、薔薇の(はなびら)のような唇で、佳蓮の指先に触れた。

 火傷(やけど)ではないのに、熱い。熱が、胸の奥へ落ちていく。

 佳蓮は(まばた)きも忘れ、その所作を見つめた。

 顔をあげたレインジールは頬を染め、こんなに幸せなことはない、そう言うように笑った。

 天使の微笑。

 あまりの美しさに魅了されてしまい、佳蓮は言葉を継げない。

「どうか……レインと、お呼びください」

「……いまの、何?」

「魂の契約です。この命の尽きるまで、私は羽澄様の忠実な(しもべ)です」

(しもべ)⁉ いや、そんな……手! 血が!」

 左手の甲に、折りたたまれた片翼の(あと)が残り、赤い血が滲んでいる。

「流星(こん)です。これで、貴方をお守りできます」

 そう言って、レインジールは嬉しそうに笑った。

「私を……どうして?」

「羽澄様は星幽(アストラル)界から()ちた(まれ)なる客星(かくせい)です。物質(エーテル)界に馴染む為には、星杯(せいはい)契約が必要なのです」

 さっきから言葉は判るのに、意味がよく判らない。

「……痛くないの?」

「平気です」

 折りたたんだ手巾(ハンカチ)で血を(ぬぐ)いながら、レインジールはほほえんだ。

「羽澄様は……お優しいのですね」

 甲に刻まれた流星(こん)は、朱金の(こう)()を放ち美しいが、滲んだ赤に禍々(まがまが)しさも感じた。

「私の女神。貴方は、他の誰でもない、私のもとに降りてくださった。この喜びを、どうお伝えすればいいのか……昨夜は、これまでの生において最良の日でした。そして今日は、昨日よりもさらに最良の日です」

「待って……私、女神じゃない。それに、私……死んだ……よね?」

 下はコンクリートだった。あの高さで助かるはずがない。

 膝のうえで固く握りしめた拳に、レインジールはそっと手を重ねた。

「羽澄様は、双翼(そうよく)と引き換えに大地を芽吹いたのです。流血は止まり、傷はすでに癒えています」

 理由(わけ)も判らず気圧され、佳蓮は寝椅子(シェーズ)に腰掛けたまま()け反った。

 小さな恐怖を知ってか、レインジールはそっと手を離した。かと思えば、つと視線を佳蓮の素足に落とす。

御御(おみ)(あし)に触れても?」

「えっ?」

 足元に(ひざまづ)いたまま、(うやうや)しく(かかと)へ触れる。

「ちょ、ちょっと……」

 (ひざまず)く少年に上目遣いに見つめられて、思わず、頬が熱くなった。

 潤んだ(ひとみ)に嫌悪や()(べつ)はなく、これまで向けられたことのない熱が宿っていた。

 ここが、天国だから?

 先ほどから、レインジールは一度も佳蓮を(さげす)む言動をしていない。

 美しい顔がそっと傾く。どうしよう、そう思った時には、足の甲に唇が触れていた。

(ええっ⁉)

 ぎょっとして、慌てて足を寝椅子(シェーズ)の奥に引っこめた。

 レインジールは、自らの振る舞いを恥じるように視線を伏せた。

「忠誠の(あかし)をと思ったのですが……申し訳ありません」

 年齢に不釣合いな、自嘲めいた(くら)い微笑だった。

「ご不快でしたね。お許しください」

(……何を考えてるの、この子)

 哀しげに視線を伏せる少年に、正体不明の違和感を覚える。ただ、その理由が判らなかった。

「ごゆっくりお(くつろ)ぎください。また参ります」

 そう言って、レインジールは静かに退室した。佳蓮は、残された余韻のなかで、ただ呆然としていた。

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