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奇跡のように美しい人  作者: 月宮永遠
1章:女神
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1

 瞼の裏にぼんやりと光を感じて、佳蓮は眼を開けた。

 精緻な彫刻が施されたアンティークな円蓋から、絹織の紗が垂れ下がっている。


「……」


 どうやら、豪奢なベッドの上にいるらしい。

 仄かな蘭の香りを探して視線を彷徨わせると、紗の向こうに、広々とした部屋が透けて見えた。

 大きな窓から斜めに陽が張り込み、室内を明るく照らしている。

 寝台の傍にある袖机に、青い蘭が活けてあった。

 身体を起こすと、見たことのない洋服……たっぷりのレースと、繊細な刺繍で縁どられた白いネグリジェを着ていることに気がついた。


(なんで?)


 一瞬、病院かと思ったが、こんなに豪華な病室は見たことがない。

 まさか。もしかして天国?

 飛び降りたはずなのにどこも痛くないし、それどころか、いつもより身体を軽く感じる。

 傷一つない綺麗な手首を見て、軽く二秒、思考が止まった。

 極楽浄土には老いも怪我もないのだろうか?

 ベッドを降りて窓辺に寄ると、見事な景観に息を呑んだ。


「うわ……」


 地上は遥かに遠い。窓硝子の向こうは見事な雪景色で、栄えし荘厳な都が、見渡す限り白銀に覆われている。

 空の向こうに、あるまじきものを見つけて、佳蓮は眼をみはった。

 神々しい黄金に縁どられた雲間を、翼を持った巨大な何か……優美な竜が泳いでいる。


「すごい……」


 本当に天国かもしれない。もしくはお伽話の世界。

 地球でないことだけは確定だ。茫漠ぼうばくの空に、可視光で巨大な惑星状星雲まで見える。

 真鍮の鍵を外して窓を開くと、途端に凍えるような冷気が入り込んできた。


「は……」


 冷たい風に頬を嬲られ、両手で身体を摩る。

 吐く息が白い。冷たい空気が肺に流れこんで、五感が目覚めていく。死後の世界が、これほどリアルだとは思わなかった。

 空気は冷たいが、肌を照らす黄金の光輝こうきは暖く感じる。妙な感覚だ。陽の暖かさを心地良いと感じるのは、いつぶりだろう?


「……」


 遠くへいきたいと、ずっと願っていた。

 家族の顔を見ないですむのなら、学校へいかなくていいのなら、どこでも良かった。佳蓮を知っている人間のいない場所なら、どんなところでも……

 コンコン――不意に聞こえたノックの音に、口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。


「お目覚めでしょうか?」


 少年と思わしき、綺麗なソプラノの声が扉の向こうから聞こえた。


「は、はい」


「入ってもよろしいでしょうか?」


「はい、どうぞ」


 手櫛で撥ねた黒髪を撫でつけながら、佳蓮は自分の恰好を見下ろした。

 上品なネグリジェは、生地も縫製もしっかりしていて、丈は足首が隠れるほど長い。このまま外を歩いても、おかしくはないだろう……たぶん。

 ゆっくり開く扉を凝視していると、これまでお目にかかったことのない、絶世の美少年と瞳が合った。


(うわッ、綺麗な子)


 精緻な陶人形のようだ。

 乳白色の肌に、キラキラと輝く海のように青い瞳。長く真っ直ぐな銀糸の髪は、星屑を散りばめたように煌めいている。

 年は十歳くらいだろうか?

 天使もかくやという愛らしさだが、声から察するに少年のはずである。

 襟や裾に銀糸の刺繍を意匠された、白い長衣を羽織っている。まるで荘厳な舞台衣装のようだが、少年にはよく似合っていた。


「女神さま……」


 形のよい唇が動いて、陶然とうぜんと呟いた。

 本気で天使が喋ったのかと思った。まじまじと見つめていると、少年は恥ずかしそうに頬を染めた。落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。

 視線が鋭くならぬよう、めいっぱい瞳を丸くさせながら、佳蓮は少年の言葉を反芻した。


(女神? 女神といった?)


 聞き慣れぬ異国の言葉なのに、どういうわけか理解できる。同じ言葉で問い質せることを疑問に思いながら、唇を開いた。


「貴方は?」


 怪訝そうに首を傾ける佳蓮を見て、レインジールは小さく眼を瞠った。

 答えを待って見つめていると、子猫のようにぱっちりとした二重の眼元に、ぱぁっと朱が散った。

 予想外の反応に内心で動揺していると、少年は姿勢を正し、騎士のような仕草で片手を胸に添えた。


「初めまして。私は、アディール帝国の星詠機関の長官を務めております、レインジール・クレハ・メビウスと申します。女神の堕天を星詠みした時から、お会いする日を心待ちにしておりました」


 幼い外見にそぐわぬ、明晰めいせきな口調で告げると、レインジールは深く頭を下げた。肩から艶やかな白銀の髪が零れ落ちる。

 言葉の意味を考えるよりも、その美しい髪に意識と視線は吸い寄せられた。窓から降り注ぐ陽射しを浴びて、神秘的に煌めいている。

 束の間、静寂が流れた。

 ゆっくり顔を上げたレインジールは、おもむろに白地に銀糸の刺繍が入った上着を脱ぐと、佳蓮の肩にかけようとした。


「あ、平気」


「羽織っていてください」


 そうは言っても、レインジールとは体格がまるで違う。

 背丈一六五センチ、体重六五キロを越える佳蓮は、女にしては大柄な方だ。

 気遣いを無下にもできず、かといって袖を通せるわけでもなく、肩にかけて落ちないよう手で押さえた。


「お眼覚めのところを申し訳ありません。少しお時間を頂戴しても良いでしょうか? それとも、後にした方がよろしいでしょうか?」


「あ、どうぞ」


 場所をとる身体を横にずらし、部屋の中へ招き入れると、レインジールは躊躇いがちに足を踏み入れた。

 まるで、等身大の人形が歩いているようだ。

 あどけない容貌をしているが、典雅な所作や落ち着いた物腰から察するに、外見より二、三歳上なのかもしれない。


「流星の女神。こちらにおかけください」


 言われるがままに長椅子に腰を下ろすと、レインジールは佳蓮の正面で跪いた。青い瞳でじっと仰ぎ見る。


「お手に触れても良いでしょうか?」


「手?」


「はい」


「……こう?」


 不思議に思いながら、掌を上向けた状態で差し出すと、恭しい手つきで指先に触れた。佳蓮とはまるで違う、ほっそりとした華奢な指だ。

 壊れ物に触れるかのように、丁寧に優しく、いかにも大切そうに触れるので、年端もいかぬ少年だというのに、佳蓮は少しときめいてしまった。


「流星の女神、御名を教えていただけますか?」


「女神?」


「貴方は、天に憩うまほろばの楽園から遣わされた、天の御使い。アディール帝国では敬意を込めて、流星の女神とお呼びしております」


「……私が?」


「はい」


 意味が判らない。訝しむ佳蓮を見て、レインジールは不安そうに愁眉を寄せた。


「御名を教えていただけないでしょうか?」


「あ、ハイ。羽澄です。羽澄佳蓮です」


「羽澄、佳蓮様……」


 少年は、実に日本的な完璧な発音で、大切そうに、噛みしめるように口ずさんだ。もう一度口の中でひっそりと呟くと、青い瞳で佳蓮を覗きこむ。


「レインジールの血と名において、誓約する。咎人は羽澄佳蓮に永遠の忠誠を捧げ、傍に憩い、守り、地に還らん」


 触れている指先に、ちりっとした熱が走った。

 咄嗟に手を離そうとすると、レインジールは痛くない程度の力で、佳蓮の手を掴まえた。


「魂と血であがなう、金剛不壊こんごうふえなる聖杯をもって」


「待って!!」


 焦って口を挟む――取り返しのつかないことが起きる予感がした。


「霊魂不滅なる契約を、ここに刻む」


 琺瑯ほうろうのように白い左手の甲に、金色の焔が揺らめいた。肌を焦がす匂いに佳蓮は恐怖したが、レインジールは顔色を変えずに美貌を傾けた。


「や……」


 形の良い唇が、佳蓮の指先に触れる。

 佳蓮は瞬きもせずに見つめていた。

 顔を上げたレインジールは、頬を染めて、こんなに幸せなことはない――輝くような笑みを浮かべた。

 あんまりにも美しくて、不意打ちで見惚れてしまい、佳蓮は言葉を続けることができなかった。


「どうか、レインとお呼びください」


「あの、今の何?」


「魂の契約です。この命の続く限り、私は羽澄様の忠実なしもべです」


「僕って……」


 呆けたように眼を瞠る佳蓮を見て、レインジールは不安そうな顔をした。


「私では不満ですか?」


「え? いや……手! どうしたの!?」


 左手の甲に、羽を折りたたんだ片翼の傷痕がついていた。うっすらと血が滲んでいる。だというのに、レインジールは嬉しそうにはにかんだ。


流星痕りゅうせいこんです。これで、貴方をお守りすることができます」


「は!? 私?」


「羽澄様は星幽アストラル界から堕ちたまれなる客星かくせいです。物質エーテル界に馴染む為には、聖杯契約が必要なのです」


 訳が判らない。


「……痛くないの?」


「平気ですよ。羽澄様はお優しいのですね」


 レインジールは左手に伝う血を指で拭うと、嬉しそうに微笑んだ。

 甲に刻まれた流星痕は、朱金の光輝を放っている。美しい刺青のようだが、滲んだ赤に禍々しさも感じた。


「私の女神。貴方は、他の誰でもない、この私の下に降りてくださった。この喜びを、どうお伝えすればいいのか……昨夜は、これまでの生において最良の日でした」


「ちょっと待って。私、女神なんかじゃない。ていうか、そもそも私、死んだ……よね?」


 下はコンクリートだった。あの高さで助かるはずがない。

 呆然自失する佳蓮の膝に置かれた手を、レインジールはそっと両手で包み込んだ。


「羽澄様は、双翼と引き換えに大地を芽吹いたのです。流血は止まり傷も癒えております」


 訳も判らず気圧され、佳蓮は寝椅子に腰掛けたまま仰け反った。

 小さな恐怖を知ってか、レインジールはそっと手を離した。かと思えば、つと視線を佳蓮の素足に落とす。


「……?」


「おみ足に触れても?」


「え?」


 足元に跪いたレインジールを見下ろして、佳蓮は固まった。綺麗な手が、恭しく踵に触れる。


「ちょっと」


 宝石のような青い瞳に、上目遣いに見つめられて、なぜか頬に熱が集まるのを感じた。

 絶句する佳蓮を仰ぐと、レインジールも双眸を揺らした。潤んだ瞳に嫌悪や侮蔑はなく、これまで向けられたことのない、一途な光が灯っていた。

 ここが、天国だから?

 先ほどから、レインジールは一度も佳蓮を蔑む言動をしていない。

 美しい顔がそっと傾く。どうしよう、そう思った時には甲に唇が触れていた。


「……ッ」


 慌てて足を浮かせると、長椅子の側面にぺたりと貼りつけた。

 警戒するように距離を取る佳蓮を見て、レインジールは恥じ入るように視線を伏せた。


「忠誠の証をと思ったのですが……いえ、申し訳ありませんでした」


 顔を強張らせる佳蓮を見て、レインジールは麗しい顔に不釣り合いな、自嘲めいた昏い微笑を浮かべた。


「ご不快でしたよね。お許しください」


 哀しげに視線を伏せる少年に、正体不明の違和感を覚える。世にも美しい少年が何を考えているのか、微塵も判らない。


「えっと……」


「ご自由に寛いでいてください。またきます」


 呆然とする佳蓮を残して、レインジールは静かに部屋を出ていった。





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