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奇跡のように美しい人  作者: 月宮永遠
3章:決意
28/42

26

 旅立ちの日。

 軽装で塔を出ていく佳蓮を、誰もが通夜のような顔で見送った。世話になった時計塔の召使達、沈んだ表情のレインジールを順に見渡して、佳蓮は努めて明るい笑顔を浮かべた。


「いってきます」


「どうか気をつけて。貴方の身に危険が及んだら、問答無用で連れ戻しますからね」


 左手の甲に刻まれた流星痕に触れて、レインジールは真剣な顔でいった。


「流星痕、また大きくなったね」


 最初は閉じた片翼をしていたそれは、双翼の形になり、今では翼を広げて羽ばたこうとしている。


「はい。あと少しで、完全に羽が開くでしょう」


「ふぅん。綺麗ね……」


 レインジールは優しく微笑んだ。

 どうしてだろう、妙に胸が騒ぐ……美しく成長した朱金の流星痕に、この先の明暗を分かつ暗示めいたものを感じた。

 手の甲を凝視していると、レインジールは腰を屈めて佳蓮の頬に口づけた。


「離れていても、佳蓮を想っています。どうか無事に戻ってきてください」


「はいっ」


 唐突に胸に沸いた切なさを捻じ伏せて、佳蓮もレインジールの頬に口づけた。

 出ていくと決めたのだ。

 アミスタッド号(奴隷船)の鎖を引きちぎるように、佳蓮は時計塔の大扉おおどを自ら開いた。

 寂しくないといえば嘘になるが、この時は気が大きくなっており、何でもやってやるという意欲に満ちていた。


 しかし――

 それが思い違いだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 素顔を晒して歩けば、誰もが振り返る。

 絶世の美女である佳蓮は、どこへいっても視線を集めた。流星の女神として国中に周知されており、飛び入りで店を尋ねて、雇って欲しいなどと頼むのは到底不可能だった。

 店先の女将や主人達は、佳蓮を引き留めては、善意であれこれと品物をくれようとする。

 働かせて欲しいと頼み込んでも、不思議そうな顔をされた後、手を合わせて拝まれるのが落ちであった。

 時計塔を飛び出して半日と経たずに、広場の噴水を眺めながら項垂れる羽目になった。

 だが、この程度の困難は想定のうちだ。

 奮起すると、佳蓮は再び往来に溶け込んだ。

 大通り沿いにある、繁盛している宿に泊めて欲しいと頼むと、とっておきの部屋に案内された。金を払おうとすると、全力で断られた。

 塔を出るにあたって資金を前借しているが、今のところ一銭も使っていない。

 この分なら、人の善意に胡坐を掻く疾しさにさえ眼を瞑れば、衣食住に全く困らない生活が成り立ちそうだ。働かなくても何もかも手に入るのだ。

 だが、その地位を失ったら?

 手に職のない、自活に乏しい佳蓮は死ぬしかない。

 そう考えて、妙な気分になった。一度は死んだ身なのに、死ぬ心配をしているとは……

 宿に二日泊っただけで、佳蓮がいるとどこから聞きつけたのか、大勢の客が殺到した。

 食堂に降りればいつでも満員。

 愛想笑いも板についた佳蓮だが、こうも人眼のある環境が続くと、精神を消耗する。自他楽な生活をしているはずなのに、心も身体も休まらない。

 景色に手を振っているようなものだが、涙を流す善良な人を見ると、胸が痛んだ。

 女神と崇められて、いい気になっていた頃を、遠い昔のように感じる。

 あんなに心地良かった賞賛も、今では虚しく感じてしまう。

 胸のうちに、不毛の大地が広がっているようだ。渇いた砂を濡らしても、あっという間に蒸発してしまう。それなのに、人が望むように笑えるのだから滑稽なものだ。

 結局、あの頃と何が変わったのだろう?

 人の顔色を窺い、媚びへつらい、自分すら欺くことに嫌気がさして終止符を打ったのに。ての大地で、同じことを繰り返している。


 ――女神なんかじゃない!


 大声で喚き散らしたかった。なのに、にこにこと微笑んで……どうして、自分に正直ではいられないのだろう?

 唯一正直でいられた大切な人には、自ら背を向けてしまった。袂を分かつ覚悟で飛び出してきたのに、もう時計塔が恋しくなっている。

 レインジールに会いたい。

 あれだけ大見得を切って飛び出したのに、このザマだ。今更、どんな顔で戻れるというのだろう……

 宿屋で七日を過ごした後、一か所に留まる限界を感じて、佳蓮は移動を決意した。

 しばらく、都会を離れてみようか。

 どうせなら、紅茶庭園のあるところがいい。過去に何度か訪れた、風光明媚な田園地方にいくことに決めた。

 幸運にも、大陸を移動している行商の荷馬車に、無料で乗せてもらえることになった。

 高価な転送盤は、まだ一般家庭に普及していないのだ。

 旅情気分でいられたのは数刻で、陽が暮れる頃には、すっかり震動に参っていた。荷馬車を止めて、森の中で焚火を囲み、皆で温まる頃には、うつらうつら船を漕いでいた。

 アディールにきてから、初めての野宿である。

 窓硝子のない馬車の中で、穴だらけの蚊帳を見た時は、どんな酷いことになるのかと覚悟したが、取り越し苦労に終わった。

 それでも、眼が醒める度に、身体のどこかしらを刺されていた。マラリアのような病気がこの世界にないことを祈るばかりだ。

 旅はしばらく続いた。

 天気は安定せず、夜半には風の音も掻き消してしまうくらい、強く降りしきる雨のおかげで、何度も眼を醒ますことがあった。

 時計塔では、考えられないような経験を幾つもした。

 森での食事もそうだ。

 どこから姿を現した小蠅が、毎度食卓に群がった。始めは手で追い払っていたが、途中から面倒になり、追い払うのを止めた。

 原始的な生活の不便さを、アディールにきてから始めて痛感した。

 とりわけ、冷水で身体を拭く不便さには辟易した。暖かな湯が切実に恋しい。

 時計塔の暮らしが、どれほど恵まれていたか思い知らされる。

 帰りたい。

 何度も弱音が零れそうになり、その度に唇を噛みしめた。もう引き返せぬほど、遠いところへきてしまったのだ。

 我慢の連続だったが、深い森を抜けると急に視界が開けた。

 雨上がりの草原に、虹が二重に架かっている。風に運ばれて、瑞々しい草の匂いが漂った。


 アディールを出て、六日目。

 アンガスというひなびた田舎街に着いた。

 風光明媚な街で、木組みの家や石畳の路が延々と続いている。大通りの樹齢一〇〇年を刻むプラタナスの並木道は、無数の小路に通じており旅情を誘う。

 小路を反れて、更に未舗装道路が尽きるところに、目指していた教会はあった。

 豊かな丘陵きゅうりょうに立ち、背には広大な葡萄畑が広がる。赤煉瓦の壁面には熟した葡萄の蔦がからまり、佳蓮は一目見るなり気に入った。

 思った以上に長く世話になった荷馬車は、今度は海沿いに南下していくという。別れを告げると、善良な行商の夫婦とその子供達は涙を流した。


「女神様。どうかお元気でいらしてください」


「はい、ありがとうございます。お世話になりました」


 佳蓮も泣きながら頷いた。

 大きな瞳に涙をいっぱいにためて、幼い三歳の娘が、佳蓮のスカートに縋りついた。


「もう会えないの?」


 たまらない気持ちになり、佳蓮はその場にしゃがみ込むと、小さな体を抱きしめた。


「ごめんね。ここでお別れなの。怪我をしないで、どうか元気でいてね」


「寂しいよぅ~……」


「女神様を困らせちゃ駄目だ」


 幼い手で眼をこする妹を、年長の兄が窘めた。彼の声も、涙で潤んでいる。


「女神さま、毎日女神さまのためにお祈りします」


 小さな少女の言葉に、佳蓮はほほえんだ。


「私も毎日祈るね。皆さん、ここまで本当にありがとう。貴方達の親切を生涯忘れません」


 自然と頭が下がった。

 顔を上げようとしない佳蓮を見て、彼等は慌てふためいた。

 時計塔を出て行く時でさえ、これほど辛くはなかったと思う。レインジールは居場所の知れている安心があるが、一か所に留まらず行商を続ける彼等とは、次に会える保証がないのだ。

 最後にもう一度抱擁を交わして、別れを惜しみながら、馬車は遠ざかっていった。

 空は茜に染まり、点在する農家から煙が立ち昇る。

 牧歌的な光景に寂寥を募らせながら、佳蓮は教会の扉を叩いた。扉を開いた修道女は、佳蓮を見るなり眼を見開いた。


「こんばんは。王都からきました、羽澄と申します。泊めていただけますか?」


 女神の来訪を教会は喜んだ。寝床と食事を提供し、長期の滞在も快く受け入れてくれた。

 慎ましい、清貧の暮らしが始まった。

 穏やかで単調な日々の繰り返しは、心を落ち着けもしたが、変わり映えのない日々に退屈もした。

 することがない。

 美味しい菓子も、茶会も、胸をときめかせる資料館も、硝子温室もない。

 ただただ、ゆったりと時が流れる、穏やかな日々。

 晴れた夜には、屋上にベッドを並べて、夜空を眺めながら眠りに落ちた。

 朝と晩に讃美歌を歌い、祈りを捧げる毎日。

 満点の星空も、十日も経つ頃には見飽きてしまった。数時間であれば新鮮な気持ちで見ていられるが、一日中は無理だ。


 時計塔に還りたい。


 塔での暮らしや、月光のように優しい微笑を思い出しては、郷愁に駆られた。佳蓮にとって、アディールはもう、第二の故郷になっていた。

 レインジールは元気にしているだろうか?

 彼なら、たとえ佳蓮が最遠の地にいたとしても、一瞬で駆けつけてくれそうなものだが、音沙汰の一つもないのはどうしてだろう。見放されてしまったのだろうか……

 勝手に塔を出ておいて、連絡をよこさないレインジールが恨めしかった。

 それとも、佳蓮が逃げ帰ってくるのを、待っているのだろうか?

 ほら見たことか、そんな顔で見下ろされるのも癪で、帰郷を見送っている。

 教会にいれば、敬虔な人達に傅かれ、質素ながら穏やかな日々を送れる。

 けれど、虚しさは募った。

 修道服を身につけた佳蓮を見て、周囲が感涙にむせびなく光景は、見ていて辛かった。

 純粋な信仰心を前に、足が竦んでしまう。

 敬虔な信徒ではない佳蓮は、彼等と同じようには祈祷できないし、味気ない食事にもうんざりしていた。

 聖衣を脱ぎ捨て、そんな風に思ってもらうような人間じゃないんです! 大声で否定したい衝動に何遍も駆られた。

 毎日、佳蓮の前に人は列を成す。ほんの一言、ほほえみ一つを欲して。

 無数の蝋燭に火を灯された、白檀びゃくだんの祭壇。

 色硝子から差し込む七色の光が、床に幻燈げんとうのような文様を描いている。

 パイプオルガンの鍵盤から、織りなす重層的な音楽は、聖堂全体に響き渡る。

 聖衣を羽織り、胸の前で手を組み、伏目がちに佇む佳蓮の姿は、その場にいた全員の眼に女神として映っていた。

 厳かで静謐な空気に、信仰心の欠片もない佳蓮ですら、胸に迫るものがある。

 こんなはずではなかったのに、日に日に虚構が現実となっていく。

 ここにいては、環境に負けて洗脳されてしまいそうだ。誰もいない部屋で涙するようになると、いよいよ気が滅入った。


 結局、教会での生活は半年が限界だった。質素な生活に別れを告げて、佳蓮は海辺の街へと移った。





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