26
新星歴一九九七年。一〇月一〇日。
旅立ちの日。
軽装で時計塔を出ていく佳蓮を、誰もが通夜のような面持ちで見送った。世話になった侍女達、沈んだ表情のレインジール――その一人ひとりに視線を配り、佳蓮は努めて明るい笑顔を浮かべた。
「行ってきます」
「どうか気をつけて。万が一、貴方の身に危険が及ぶようなことがあれば、問答無用で連れ戻しますから」
左手の甲に刻まれた流星痕に触れながら、レインジールは真剣な顔と声で言った。
「……また大きくなったね」
最初は閉じた片翼だったそれは、今や双翼を成し、羽ばたこうとするかのように広がっている。
「はい。あと少しで、完全に羽が開くでしょう」
「……そう、綺麗……」
そう答えながら、胸の奥に、言い知れぬ不安が過った。
妙に胸が騒ぐ……美しく成長した朱金の流星痕に、この先の明暗を分かつ暗示めいたものを感じた。
手の甲を見つめていると、レインジールは身を屈め、佳蓮の頬にそっと口づけた。
「離れていても、佳蓮を想っています。どうか、お気をつけて。無事にお戻りください」
「……はい」
湧き上がる切なさを必死に押し殺し、佳蓮も彼の頬に口づけた。
行くと、決めたのだ。
奴隷船の鎖を引きちぎるように、佳蓮は自ら時計塔の大扉を開いた。
寂しくないと言えば嘘になる。それでもこの時は、何でもやってやるという無限の高揚感に満ちていた。
だが――
それが思い違いだと気づくのに、時間はかからなかった。
素顔で歩けば、誰もが振り返る。
絶世の美女であり、流星の女神として国中に知られる佳蓮は、どこへ行っても視線を集めた。
飛び入りで店を訪ね、働かせてほしいと頼むなど到底無理な話だった。店主や女将は親切心から品物を差しだし、挙げ句の果てには手を合わせて拝まれる始末だ。
時計塔をでて、半日も経たぬうちに、広場の噴水を眺めながら項垂れることになった。
だが、この程度の困難は想定内だ。
奮起すると、佳蓮は再び往来に溶けこんだ。
大通り沿いにある、繁盛している宿に泊めて欲しいと頼むと、一等部屋に案内された。金を払おうとすると、全力で断られてしまった。
前借りした資金は、未だ一銭も減っていない。
人の善意に胡坐を掻く疚しさにさえ目を瞑れば、衣食住に全く困らない生活が成り立ちそうだ。
――もし、今の地位を失ったら?
手に職もなく、何の後ろ盾もない佳蓮は、あっさり詰む。
そう考えて、妙な気分になった。一度は死んだ身なのに、遠い異国の地で将来の心配をしているとは……
宿に一泊しただけで、佳蓮がいるとどこから聞きつけたのか、大勢の客が殺到した。
食堂は常に満席。愛想笑いも板についた佳蓮だが、口元が引き攣りそうだ。
善意に包まれ、自他楽な生活をしているはずなのに、心身が休まらない。
景色に手を振っているようなものなのに、涙を流して感謝する人を見ると、胸が痛んだ。
女神と崇められて、いい気になっていた頃を、遠い昔のように感じる。
あんなに心地良かった賞賛も、今では虚しく感じてしまう。
胸のうちに、不毛の大地が広がっている。水を注いでも、すぐに蒸発してしまう。こんなに空っぽなのに、人が望むように笑えるのだから不思議だ。
――結局、あの頃と何が変わったのだろう?
親やクラスメイトの顔色を窺い、媚びへつらい、自分すら欺くことに嫌気がさして終止符を打ったのに。涯ての大地で、同じことを繰り返している。
――女神なんかじゃない‼
叫びたかった。
なのに、今日もほほえんでいる……どうして、自分に正直ではいられないのだろう?
唯一正直でいられた人には、自分から背を向けてしまった。袂を分かつ覚悟で飛びだしてきたのに、もう時計塔が恋しくなっている。
(レインに会いたい……)
大見得を切って飛びだしてきた自分が、情けなかった。
宿に七泊した後、一か所に留まる限界を感じて、佳蓮は移動を決意した。
都会を離れ、紅茶庭園のある風光明媚な田園地帯に行ってみることにした。
幸運にも、行商の荷馬車に無料で乗せてもらえることになった。
高価な広域星路陣は、まだ一般家庭に普及していないのだ。
旅情気分でいられたのは数刻で、陽が暮れる頃には、すっかり震動に参っていた。荷馬車を止めて、森の中で焚火を囲み、皆で温まる頃には、うつらうつら船を漕いでいた。
アディール新星皇国に降臨してから、初めての野宿である。
窓硝子のない馬車の中で、継ぎ接ぎだらけの蚊帳を見た時は、どんな酷いことになるのかと覚悟したが、取り越し苦労に終わった。
それでも、目が醒める度に躰のどこかしらを刺されていた。マラリアのような病気がこの世界にないことを祈るばかりだ。
旅はしばらく続いた。
天気は安定せず、夜半には風の音も掻き消してしまうくらい、強く降りしきる雨のおかげで、何度も目を醒ますことがあった。
時計塔では、考えられないような経験を幾つもした。
森での食事もそうだ。
どこからか姿を現した羽虫が、毎度食卓に群がった。始めは手で追い払っていたが、途中から面倒になり、追い払うのを止めた。
原始的な生活の不便さを、アディール新星皇国に来てから初めて痛感した。
とりわけ、冷水で躰を拭く不便さには辟易した。暖かな湯が切実に恋しかった。
時計塔の暮らしが、どれほど恵まれていたか思い知らされる。
――帰りたい。
何度も弱音が零れそうになり、その度に唇を噛みしめた。もう引き返せぬほど、遠いところへ来てしまったのだ。
我慢の連続だったが、深い森を抜けると急に視界が開けた。
雨上がりの草原に、虹が二重に架かっている。風に運ばれて、瑞々しい草の匂いが漂う。壮大で美しい景観に、束の間、全ての疲れを忘れて見入っていた。
皇都を出発して、六日目。
アンガスという鄙びた田舎街に着いた。
趣のある街で、木組みの家や石畳の路が延々と続いている。大通りの樹齢一〇〇年を刻むプラタナスの並木道は、無数の小径に通じており旅情を誘う。
大通りをはずれて、豊かな丘陵に波打つ広大な葡萄畑の先に、目指していた星修院はあった。
銀色の靄につつまれた山々を背に、断崖絶壁に築かれた救済の宿場。赤煉瓦の壁面には蔦が這い、石は祈りの重みを吸いこんで深い色を帯びている。
古い建物だが、佳蓮は一目で気に入った。
思った以上に長く世話になった荷馬車は、今度は海沿いに南下していくという。
晩鐘を聴きながら別れを告げると、善良な行商の夫婦とその子供達は涙を流した。
「女神様。どうかお元気でいらしてください」
「はい、ありがとうございます。ここまで……大変、お世話になりました」
佳蓮も泣きながら頷いた。
大きな瞳に涙をいっぱいにためて、幼い三歳の娘が、佳蓮の星衣に縋りついた。
「もう会えないの?」
堪らない気持ちになり、佳蓮はその場にしゃがみこむと、小さな躰を抱きしめた。
「ごめんね。ここでお別れなの。怪我や病気をしないで、どうか健やかでいてね」
「寂しいよぅ~……」
「女神様を困らせちゃ駄目だ」
幼い手で目をこする妹を、年長の兄が窘める。しかし、彼の声も涙で潤んでいた。
「女神さま、毎日女神さまのためにお祈りします」
小さな少女の言葉に、佳蓮はほほえんだ。
「私も毎日祈るね。皆さん、ここまで本当にありがとうございました。貴方達の親切を生涯忘れません」
自然と、頭がさがった。
顔をあげようとしない佳蓮を見て、彼等は慌てふためいた。
時計塔を出て行く時でさえ、これほど辛くはなかったと思う。レインジールは居場所の知れている安心があるが、一か所に留まらず行商を続ける彼等とは、次に会える保証がないのだ。
最後にもう一度抱擁を交わして、別れを惜しみながら、馬車は遠ざかっていった。
空は茜に染まり、遠くに点在する農家から煙が立ち昇る。
牧歌的な光景に寂寥を募らせながら、佳蓮は星修院の扉を叩いた。扉を開いた星修女は、佳蓮を見るなり目を見開いた。
「こんばんは。皇都からきました、羽澄と申します。泊めていただけますか?」
女神の来訪を星修院は喜んだ。寝床と食事を提供し、長期の滞在も快く受け入れてくれた。
そうして、慎ましい、清貧の暮らしが始まった。
穏やかで単調な日々の繰り返しは、心を落ち着けてくれたが、変わり映えのない日々に退屈もした。
することがない。
美味しい菓子も、茶会も、胸をときめかせる図書館も、空中庭園もない。
ただただ、ゆったりと時が流れる、穏やかな日々。
晴れた夜には、屋上に寝台を並べて、夜空を眺めながら眠りに就いた。朝と晩に讃美歌を歌い、祈りを捧げる毎日。満点の星空も、一〇日も経つ頃には見飽きてしまった。
満ち足りた時計塔の暮らし。月光のように優しい微笑を思いだしては、郷愁に駆られた。
(……レイン、元気にしているかな?)
彼なら、たとえ佳蓮が最遠の地にいても、一瞬で駆けつけてくれそうなものだが、音沙汰の一つもないのはどうしてだろう。見放されてしまったのだろうか……
勝手に塔を出ておいて、連絡をよこさないレインジールが恨めしかった。
それとも、佳蓮が逃げ帰ってくるのを、待っているのだろうか?
ほら見たことか――そんな顔で見下ろされるのも癪で、帰郷の誘惑に耐えている。
星修院にいれば、敬虔な人々に傅かれ、質素ながら穏やかな日々を送れる。
けれど、虚しさは募った。
星衣を纏う佳蓮を前に、感涙にむせびなく人を見るのは、見ていて辛かった。
純粋な信仰心を前に、足が竦んでしまう。
――そんな風に思ってもらうような人間じゃないんです!
大声で否定したい衝動に、何遍も駆られた。
火の灯された白檀の祭壇で、胸の前で手を組み伏目がちに佇む佳蓮の姿は、集まった人々の目に女神として映るのだ。
ただ型通りに手をあわせ、目を閉じているだけなのに。猫も杓子もやることは同じと思うが、毎日、佳蓮の前に人は列を成す。ほんの一言、ほほえみ一つを欲して。
日に日に虚構が現実となっていく。
ここにいては、環境に負けて洗脳されてしまいそうだ。誰もいない部屋で涙するようになると、いよいよ気が滅入った。
結局、星修院での生活は半年が限界だった。質素な生活に別れを告げて、佳蓮は海辺の街へと移った。




