21
新星歴一九九七年。八月三〇日。
時計塔の六二階。
四阿の籐椅子で、佳蓮は夕涼みをしていた。
梢の揺れる音に目を開けると、視界一面に金色が降り注ぐ。天井から滝のように垂れさがる、ミモザの群だ。
異国の空の下、燃える落陽を浴びていっそう輝いている。金と藍の色彩が鮮やかに溶けあい……不意に、在りし日の記憶が胸をかすめた。
東京の夏。
逝く夏に叫ぶ、喧しい蝉の声。
うだるような八月の暑さ。うなじを焦がす太陽光線。夏休みの切実な哀愁。
学校へ行かずに済む夏休みを、いつも心待ちにしていた。夏休みは、外へ出ることもなく部屋に籠り、昏れなずむ空を仰いでは、理由もなく溜息をついた。
夏の黄昏は、冬よりもずっと侘しかった。
妙に感傷的なのは、今日がレインジールの一七歳の誕生日だからかもしれない。
この日がくることを、長く恐れていた気がする。
時を止めたままの佳蓮の隣で、レインジールは蕾が花開くように、美しく成長していった。
彼が一七歳を迎える日を、遥かな時の向こうのように感じていたのに、とうとう追いつかれてしまった。
――この先は、追い越されていくだけ。
涯てしない茫漠の時の流れのなかで、ただ一人取り残されてしまう恐怖……薄い酸素を吸うような息苦しさは、あの夏休みの黄昏を、鮮やかに思いださせた。
「――佳蓮。ここにいたのですか?」
逢魔が時、木陰から現れたレインジールは、佳蓮を見つけると嬉しそうに微笑した。
すらりと伸びた背は、もう佳蓮よりもだいぶ高い。
声は深みを帯び、骨格は逞しく、頬の丸みも消え、少年の俤を失うかわりに、玲瓏たる美貌へ変わった。
彼は、奇蹟のように美しい。
「ちょっと、寝てた……」
躰を起こすと、レインジールは隣に腰をおろし、背に流れる黒髪を優しい手つきで梳いた。
昔は、こんな風に触れなかった。崇めるように唇を落としていたのに。少し顔を近づけるだけで真っ赤になっていた、純情な少年だったのに。
――いつからだろう? 見あげるようになったのは……瞳の奥に、熱を灯すようになったのは。
「レイン、お誕生日おめでとう」
複雑な感情に蓋をして、佳蓮はほほえんだ。
「ありがとうございます」
「焼プリンを作ったんだよ。後で食べようね」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
眩しい笑顔に、思わず視線を逸らす。彼の手から髪を取り戻し、立ちあがろうとした瞬間、手首を掴まれた。
「佳蓮」
「なに?」
「祝福は、してくれないのですか?」
一瞬、言葉に詰まったが、レインジールの傍に座り直した。少し背伸びをして、白い額に軽く口づける。
「おめでとう。レイン」
「……ありがとうございます」
「うん」
「唇には、してくれないのですか?」
笑って誤魔化そうとしても、彼は目を逸らさない。
熱を灯した瞳を直視できず、佳蓮はそっと視線を伏せた。
もう、昔のようにからかうことはできない。向けられる一途な眼差しは、いつの間にか、熱を帯びたものに変わってしまったから。
「佳蓮、こちらをを向いて」
「……手、離して」
「佳蓮。キスをして」
「したでしょ」
「もう一度。唇に」
「……」
「佳蓮」
「嫌」
顔を背けると、両頬を包まれて正面を向かされた。
「私の誕生日なのに?」
「……判ったよ」
怯みそうになる心を奮い立たせ、襟を掴んで引き寄せる。形の良い唇に、そっと唇を重ねた。
触れるだけの無垢なキス。すぐに離れようとしたが、腰に回された腕が、それを許さなかった。
「貴方の瞳に、私はまだ、幼い少年として映っていますか?」
強い光を灯した青に射抜かれた。
「……慈しみの口づけでは、もう足りません」
熱情の籠った言葉に、甘美な痛みが胸に疾ったが、気づかないふりをした。
「こら、我慢しなさい」
「佳蓮」
「離して」
「唇が欲しい」
「……駄目。唇は、恋人としなよ。レインなら、きっとかわいい子が幾らでも見つかるよ」
「佳蓮が世界で一番かわいい」
「もう、レインってば……」
冗談にしてしまおうと佳蓮は笑ったが、レインジールは少しも笑わなかった。
「貴方は私を傍に置いてくださるけど、いつまで経っても、変化を受け入れようとはしてくださらない」
それ以上は、聞いてはいけないと思った。
二人の関係が変わってしまう。七つも年下の少年だったのに。この感情には蓋をしなければ――焦燥に駆られて立ちあがると、腕を引かれ、広い胸のなかに転がりこんだ。
「離して!」
顎に手をかけられ、顔をあげた瞬間に、唇を塞がれた。
優しく上唇を食まれて、吸われる。生まれて初めて耳にする、濡れた音が響いて、心臓はドッと音を立てた。
うなじの後ろに掌が潜りこみ、後頭部を引き寄せられた。顔を傾けて、再び強く唇を押しつけてくる。
――こんなキスは、初めてだ。
硬直していると、唇のあわいを優しく舌でつつかれた。どうしよう、どうしよう、どうしよう――混乱のあまり、涙が溢れそうになる。
固く唇を閉ざして硬直していると、ふっと、唇は離れた。
「佳蓮……」
昏く翳った青い瞳の奥に、熾火が揺らいでいる。ぞくっとするほど煽情的な表情で、ずっと隣で見てきたのに、知らない男の人に見えた。
再び迫ってくるレインジールの肩を、咄嗟に腕を突きだして押し留めた。
本気の拒絶が伝わったのだろう。氷晶の瞳に抑制の光が閃いた。静かに身を引き、佳蓮の手を両手で包みこんだ。
「……祝福をありがとう、佳蓮」
上気した頬で微笑する姿は、喜びに満ちて、眩しいほどだった。
――無理だ。
もう、年下のかわいい弟とは思えない。
背は追い越され、華奢に見えても膂力は明らかで。腕も胸も逞しくなり、手だって、綺麗だけど骨ばっていて佳蓮とはまるで違う。氷晶の瞳には、憧憬だけじゃない、恋慕の熱が灯っている。
永遠に越えられない海溝が、広がっていく。
もう、一緒にいるのは限界なのかもしれない。




