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一二月二〇日。
時計塔六一階の〈夜天の応接室〉——星図と夜景の迎賓の間で、レインジールは星導書を膝に置き、今宵の天象奉冠舞踏会の進行に関わる星象予測と、霊気循環値の補遺を流し読みしていた。
数式と詠式の隙間に潜む理を辿りながら、思考の半分は、どうしても佳蓮のもとへと逸れていく。
絹を撫でるような柔らかな靴音が聴こえて、衛兵が一礼して扉を開いた。
「お待たせ」
その姿を一目見た瞬間、レインジールは感動のあまり言葉を失った。
かくも神秘的な姿——淡い銀青のドレスは、幾重もの薄絹が星雲のごとく揺らぎ、歩みにあわせて星座を散らしたような光点が瞬く。長い黒髪は夜露を含んだ銀の花飾りに留められ、優雅に背へと流れている。
あまりにも神々しく、美しく、瞬きすらできなかった。
「衣装も髪も……よくお似合いです。本当に、なんてお美しいのでしょう」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
澄ました声音で応える佳蓮は、とても愛らしい。
「お手をどうぞ」
差し伸べた手に、佳蓮は魅力的な笑みを浮かべ、手袋越しにそっと重ねた。
「あれ? レイン、背伸びたね。私ヒール履いているのに……」
「はい。ようやく佳蓮の背を越えました。もっと伸びますよ」
気づいてもらえたことが嬉しい。しかし、佳蓮の表情は冬の陽光を遮る雲のように、ふと翳った。
「ずるい、一人で大人になっちゃってさ。私は……ずっと、こうなのに」
佳蓮が嫌がるので祝辞は口にしないが、今日は、彼女の誕生日だ。堕天して以来、彼女の姿は、何一つ変わらない。その身に流れる時を、凍結させている。
不安定な気配を察し、思わず黒髪に触れた。佳蓮は、夜空を映したような瞳を細め、悪戯っぽく笑った。
「忘れないでね。背を抜いても、私の方が年上なんだから」
「知っています。星杯を満たせば、佳蓮の止まった時も、また動き始めますよ」
「……いつになるやら」
「この四年で、かなり満ちました。あと少しです」
佳蓮は胸に手を当て、不安そうに頷いた。
霊気を感知できない彼女にとって、星杯は実感の持てない存在だ。
堕天した当初は空だった器には、今、星の光が半分ほど満ちている。堕天の苦しみを昇華し、物質界に馴染みつつある証だ。
「……今夜は、取りやめましょうか?」
慎重に問うと、佳蓮はぱっと顔をあげた。
「平気。行こ」
腕を引かれ、レインジールも考えを改めた。人の集う場が、彼女の気を紛らわせてくれるかもしれない。
粉雪の舞う、白の玻璃城。
華やかな紳士淑女が多く集まっていたが、佳蓮の美しさは別格だった。
世にも美しい女神を伴うレインジールに向けられる、嫉妬と嘲笑の視線。分相応であることは承知している。誰もが振り返る絶世の美女が、今も変わらずにレインジールの傍にいるのは、奇蹟に等しい。
佳蓮は、気鬱を払うように天真爛漫に振る舞っていた。しどけなく柘榴の香酒を傾ける姿に、男達は舐めるような視線を注いでいる。
「はぁ……足、疲れた」
息をつく様子を見て、レインジールは佳蓮の手を引いた。
今夜の彼女は、あまりにも無防備だ。役割はすでに果たした。ならば、これ以上この場に置いておく理由はない。早く、連れ帰りたい。
「ちょっと!」
「頃合いです。もう帰りましょう」
返事を待たず、星路口へ直行し、広域星路陣を起動した。
時計塔に戻ると、佳蓮の手を引いたまま六二階に向かう。彼女の私室に入り、寝椅子へ促すと、上目遣いの抗議が飛んできた。
「もう、いきなりなんだから」
「……紅茶を淹れてきます」
聞こえないふりをして退出し、わざと時間をかけて戻ると、佳蓮は寝椅子で眠っていた。片腕が、物憂げな典雅な趣で、だらりと垂れている。
起こさぬよう、静かに傍らに跪く。
うら若き絶世の美女の寝顔は、ただ見つめているだけで眩暈を誘う。胸が甘く痺れた。
「佳蓮……」
呼んでも、目を醒まさない。
うっすら開いた唇に、視線が吸い寄せられる。強烈な誘惑に駆られたが、理性を総動員させて視線を逸らし、額に口づけた。
「ん……」
瞼が震え、ゆっくりと持ちあがる。覗いた黒曜の瞳に、レインジールが映りこむ。
「……ここで寝ては、風邪をひきますよ」
「ん……」
小さく頷き、再び眠りに落ちる。人の気も知らないで、暖をとるようにレインジールの胸に頬を寄せる。
最近は、こちらの想いにようやく気づいて、居心地悪そうにしている癖に、この絶世の美女の危機感の無さときたら……
だが、今夜の奔放な振る舞いは、レインジールのせいでもある。並んだ背丈に時の流れを意識し、満たされない星杯に不安が募ったのだろう。
享楽的で気まぐれな佳蓮は、儚い一面を併せ持っている。
意識を遮断し、自分の世界に閉じ籠る姿を、これまでに幾度も見てきた。
心を彷徨わせている間、姿形は、幻燈のように朧になり、レインジールをたまらなく不安にさせた。
時々、思いだしたように堕天の苦しみを語り、誰に対する謝罪なのか、ごめんなさい、と繰り返すのだ。
「……運びますよ」
言い訳のように呟いてから、力の抜けた躰を横抱きにする。なんて柔らかい肢体だろう。温もりと甘い香りを、苦心して意識の外へ追いやらねばならなかった。
寝台に横たえ、毛布をかける。侍女を呼んで、着替えさせた方がいいだろう。そう思いつつ、なかなか傍を離れられない。
「佳蓮」
呼んでも反応しない。女神は、深い眠りの中だ。
「星杯は、まだ満たせないのですね……」
左手の甲に刻まれた流星痕に、視線を落とす。
折りたたまれた片翼の流星痕は、少しずつ大きくなり、ついに双翼に成長した。羽ばたく刻限が迫っている。
佳蓮は知らない。
流星痕の成長は、客星の刻限に等しい。時が満ちるまでに星杯を満たせなければ、星杯契約者は――
そうならぬよう、幾度も星導を重ねた。
佳蓮の未来はいつも朧で、視ることは困難だった。一二歳の頃、ようやく視えた答えは、絶望的だった。
佳蓮は、刻限までに星杯を満たせない。
叶うことなら、永遠に傍に在りたい。
けれど……叶わないとしても、彼女が幸せであればいい。
唯一無二の女神。愛おしい佳蓮、我が命。貴方の為なら、喜んでこの身を差しだせる。
「お休みなさい、佳蓮……どうか、安らぎに満ちた夢を……」
黒髪を梳いて指に絡める。躰を倒して、美しい額にもう一度、そっと口づけた。




