涙に沈む
* * * * *
目覚めると、隣に誰もいなかった。辺りは夜更けで闇に包まれている。いつから眠り込んでいたのかよく覚えていない。
身体を起こし、彼の名を呼んでも、部屋の隅の炎がその橙を薄暗さの中に揺らめかせて、寝台の上で私の歪な陰を陽炎のように動かしているだけだった。何があったのか、何故ここで眠っていたのかの成り行きが浮かばず、ぼうっと炎を見つめる。
隣に彼がいて、何度も繰り返して呼びかけてくれたのは覚えているものの、いたはずの場所に触れてもぬくもりはない。随分前に離れたようだ。悪夢でも見ていたような脱力感に苛まれながら乱れた髪を耳に掛け、顔を上げたと同時に視界に入ってきたものに、反射的に身体が強張った。
少し離れた所のテーブルに置かれた短剣。そうだ。しっかりと鞘に納められたその短剣を、私は抜いた。良樹に切っ先を向けて殺そうとした。部屋は綺麗に片づけられてはいても、あの時の手の感触や息遣いはまだ身体中に残っている。
震え始める自分を抱くように腕を回しながら思考を巡らした。良樹から事の真実を聞いて、連れて行かれそうになったところを拒絶して取り乱して、彼がネチェルたちと一緒に入ってきて。過呼吸のような症状に陥りながら咽び泣いて、彼が落ちかせようと私を抱いて背を擦ってくれていた。そのまま泣きながら眠りについてしまったのだろか。
そこまで思い出して導き出される可能性に、恐怖が過った。
「お目覚めですか」
ネチェルが顔を出し、傍にやってくるなり私の顔色を窺う。
「ようございました。心配したのですよ。あれほど取り乱されて……ご気分はいかがですか?何か召し上がりますか」
「ネチェル、お願い……誰か、セテムかカーメスを呼んで。お願い」
居ても立ってもいられず、ネチェルの衣を掴んで頼んだ。彼の居場所を知りたかった。無事を知りたかった。事態を察したのかネチェルはすぐさま部屋の外に控えているというカーメスを呼び入れた。
ネチェルに支えられながら身体を起こして迎えた私に、将軍は柔らかめの笑みを向け、手を胸に当てて跪いた。
「お目覚めになられたのですね。安心いたしました」
「カーメス、彼は……彼は今どこにいるの?」
眠る前、私は何の考えも無しに彼に泣きながら全部を話した。あの時良樹から聞いたことの全てを。もっと深く考えてから話すべきことだった。彼なら良樹に会おうとし、メアリーの時のように殺そうと考えるかもしれない。
焦る気持ちを抑えながら尋ねると、将軍は少し深く頭を下げた。
「ファラオは少々お出かけに」
こんな夜更けに用事があるなど明らかにおかしい。宮殿内でさえ安心できない今、死角が多くなる夜は命を狙われやすいからと、夜更けの行動は控えていたはずだ。
「誰か付いているの?」
前に出て、跪いたままのカーメスに問うと、将軍は穏やかさを消して落ち着かないと言った表情を示した。その様子を見て確信する。
「彼はどこ」
改めて発した質問に少しばかり顔を渋めにしたカーメスは、端的に彼が誰にも言わず一人で出て行ったことを話してくれた。
「我らが目を離した隙に……申し訳ありませぬ。今探索させております」
彼は夜の中に独り。それがどれだけ危険であるかを思って焦燥が募った。良樹に会いに行ったのかもしれない。十分なほどに憎み合っている今二人が対面したならどうなるか。今の良樹は私の知っている良樹ではない。私の子を殺した良樹ならば、きっと彼をも殺してしまう。あの子だけでなく、彼まで殺されてしまったら私は。
「ご心配なさりませぬよう」
気が気ではなくなり、部屋を飛び出そうとした私を、素早く立ち上がったカーメスが引き止めた。
「でも」
「セテムとラムセス、ナクトミンがファラオの御身を探しております故」
ただでさえ短命という史実を持つ彼だ。良樹が殺めるという歴史の繋ぎがあるのではと、焦燥感に苛まれる。
「あの者たちはファラオ御自らお選びになられた優秀な人材です。今、あなた様は未だ体調を崩されたままでいらっしゃる。そのような御身で何ができるというのです。無理をなさらないでください」
行き先を塞ぐように両手を前に出しながらの強めの説得に、自分の状態を痛感する。歩いているだけで眩暈を感じるようなこの身体で、この部屋を出て何が出来るのか。探しているという彼らに迷惑がかかるだけではないか。
「さあ、お部屋へ。今は御身を大事になされなくては」
戻るように導かれたその時、カーメスの後ろから近づく影が見えた。はっとしたカーメスが振り返ると同時に、その影の正体を知る。
「アンク!」
ラムセスの肩を借りながら、息を切らして支えられている彼だった。カーメスを振り切って、彼のもとへ走り寄る。
「何があったの!?」
髪が垂れているからか、夜だからか、彼の表情はよく見えない。
「いかがなされたのです!」
あまり見せないようなその人の様子にカーメスも驚きの声を上げ、支えているラムセスも戸惑っているようだった。
「東の神殿の方にいらっしゃって……お怪我を負われております。侍医を呼ばれた方がよろしいかと」
侍医を呼ぼうとすると、腕を彼に引かれて止められた。
「……案ずるな」
ラムセスの腕を振り払い、彼はすっくと背筋を伸ばし、凛とした佇まいに姿勢を戻した。
「しかし!これはいずれかの反逆者に襲われたのではありませぬか!?このままでは」
「案ずるなと言っている」
先程までの様子が嘘だったかのように、左手首のずれた腕輪を直しながら彼はラムセスの反論を遮った。強く言い放たれたラムセスは開きかけた口を歪んだへの字に曲げて黙り込む。
「私は休む。お前たちは直ちに元の位置に戻れ。他の者たちもだ。カーメス、お前がまとめよ」
彼の命令にカーメスは逆らうことなく深く頭を下げ、納得いかないという表情をしていたラムセスも、ぎこちないながらも同様に礼を示し、それを見届けた彼は私を部屋の奥へと引いて扉を閉めさせた。
静かな夜に閉ざされた空間に放り投げられる。炎に影を揺らしながら彼は寝台に腰を下ろし、顎に手を添えて何かを深く考えている。手の甲には爪で引っかかれたような浅い赤色の傷があり、伏せがちの目元には睫毛の影が落とされている。向かい側に立つ私は、様子が明らかに違う彼が口を開くのを待っていた。
何があったかなど、聞かなくても分かる。きっとあなたは。
「……会った」
ぽつりと、それでもよく響く音だった。誰に会ったのかと問う必要はなかった。この人は、良樹に会ったのだ。
「東の宮殿で、偶然に……会って殺してやりたいと思っていた時に、意図してではないだろうが私の前にのこのこと現れた」
緊張が走って自分の寝間着を握り締める。いつの間にか汗ばんでいた掌が気持ち悪かった。
「取っ組み合いになっただけだ、殺めてはいない」
噛み殺すような、絞り出すような、悔しさを露わにした声色。瞬きの少ない瞳は、獣のように一点を見つめて光る。褐色の甲に引かれた赤い傷は良樹に付けられたものなのだろう。彼の淡褐色がより鋭く光を灯し、私を見上げた。
「私を振り切り、どこかへ逃げた」
家族同然に育ってきた良樹。いつもいつも、私は良樹のあとを追って走って、良樹は振り返りつつこっちだと手を引いて導いてくれていた。あの頃の記憶が走馬灯のように胸に流れて来て、どうしようもなく涙腺が緩む。それでも良樹がお腹の子を殺した張本人だという事実に直面したら、憎しみの方が大きくなる。どうしても許せない。良樹が憎い。良樹でなかったのなら、私は躊躇わずあの時この手で相手を刺していた。
「だが」
寝台から立ち上がった彼は、私の方へと歩み寄る。空間に響くのは、黄金の音だ。
「やはり許すことは出来ぬ」
真っ直ぐな眼差しを、私も見つめ返す。涙が膜を作ってその眼差しの色を淡く曇らせた。
「あの男は我らの知らぬ毒で我らの子を殺した。最早ヒロコが庇う価値のある人間ではない」
今もお腹にいるはずだった罪もないあの子を殺したのは、紛れもなく良樹。小さな尊い命を奪ったのはその人。未だに信じがたい気持ちがあるのに、再会した良樹の様子から認めざるを得ない事実がある。
「次会った時、この手は間違いなくあの男を殺すだろう」
その手で、あなたは良樹の命を奪うと言う。今私の髪を梳く、この手で。
「我が国の掟に従い、王家に刃を向けんとした者にこの手で死の翼を与える」
禿鷹、ネクベト神の言葉。王家の敵を打ち滅ぼす者。
「お前が出来ぬというのなら、私がやる」
最早私と良樹の問題ではない。ここで私が嫌だと言っても、この国の掟に従うのが道理であり、彼が聞き入れることはない。例外などない。このままあやふやで終わらせる訳にはいかない。断ち切る時が来たのだと悟らざるを得なかった。
「良いな」
低く流れた覚悟を問う声に彼を見つめ、それから沈黙が駆ける世界で私は瞼を伏せた。瞼が落ちたと同時に、何かを断ち切ってしまったようにそこから涙が伝って頬を行く。泣くまいと決意に満ちた目で彼を見上げても、例えにならない感情に侵されて訳が分からないくらいの涙の海に沈む。沈んで、息が出来ないくらい溺れ、心の悲鳴が身体の芯を貫く。
髪を撫でていた手が背後に回って、私を強く抱き込み、私はその中で縋り付くようにして泣いた。
堪えきれず目を閉じると、死んでしまった愛しいあの子の姿と幼い日の良樹の姿が瞼の裏に現れては消えて行った。




