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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
14章 望むもの
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その顔、その表情

* * * * *


 俺は今、どこにいるのだろう。自分の居場所さえ、最早分からなかった。

 国の砂漠からはとても想像できない草木茂る宮殿敷地内の、ただっ広い外を歩いている。木などの植物や柱の陰に身を潜めながら、弘子に付けられた左腕の傷を右手で押さえて当てもなく足を動かしていた。

 皮膚がすべて鉛化でもしたのだろうか、とても重い。何度も何度も反復される弘子の悲痛な声が耳に鳴り続けている。

 心を殺していたつもりだった。どんなに嫌がられようと、何を言われようと、何としてでも弘子を連れ去るつもりだった。なのに、弘子が抜いた刃、俺に向けた目、吐き出された言葉に、すべてが壊れた。俺の決意も想いも、目的も被ったはずの仮面も何もかもが崩れ去った。

 お前を、守ろうとしただけだ。お前を取り戻す、それだけを俺は考えてきた。歴史という忌わしい時代の濁流に呑まれないために。帰る場所だと思っていたお前にまで刃を向けられたなら、殺意を抱かれたなら、一体どうすればいい。どこへ帰ればいい。俺の居場所はどこだ。

 歩を進めるたび、見失った自分自身が音を立てて崩れていく。最後には粉々となり、時代の風に吹かれて消えていくのではと思えるほどに。

 放浪しているうちに夕方を越え、辺りは夜になっていった。

 どのあたりを歩いているのか分からない。これからどうすればいいのか。答えが、見つからない。

 立ち止まり、傍の城壁と思われる壁に身を寄り掛けて満ちた月を眺めた。闇に埋もれた俺を淡く照らし出す月は大きく、白と言うよりは銀色に輝きを増している。太陽が金で、月が銀。どちらも神、王族のものとされた色。エジプトの文明ではそう表されると聞くが、これは的を射た表現だと思う。古代人はこれらに神を見たのだ。

 その銀が光る先に、ぼんやりと宮殿ではない建物が視界に浮かび上がった。白い石で覆われた柱たちには見事な神々のレリーフが彫られ、それに広い水平屋根が支えられている。名の知れないトキの頭を持った男神像が二人、入口を守っている──神殿だ。

 今の時間であれば神官もいないだろう。無人の開かれた神の空間に、気づけば引き寄せられるように俺の足先は向いていた。脚を止める理由も見つからず、訳もなく進んでいく。

 宮殿から神殿へ繋がる通路へ庭から這い上がり、扉の無い長方形に切り抜かれた入口に、屈んだままの状態で再度視線を上げた。

 見えた光景に、絶句する。銀と白に、光っていた。この闇に閉ざされた世界の中、月の銀により白さをぼうっと浮き上がらせ、存在感を増した建物。今にも動きだしそうな、俺を見下ろす神像。なんという神々しさか。

 弘子に切られた傷の痛みを忘れ、右手が左腕から落ちる。死んでいた目が生気を取り戻し、見開く。平伏したくなる幻想的な景色に目を奪われながら、こう思わせるものの正体に気づいた。

 色だ。建物を白に近い色にすることによって自然の光を引き出し、厳かな神の聖域を生み出しているのだ。現代の安っぽい照明などでは決して生み出すことが出来ない。

 人は、神の色を失った。時代が進み、便利さを手に入れるに連れ、壮麗さと崇高さを葬ったのだ。立ち上がった俺は我を忘れ、透明な美しさに縋るように十段ほどの階段を上り、二人の神を越え、神の住処の入口に脚を押し込んだ。

 中は広く、粛然とした空間だった。歩くのに困らないくらいの月の灯りが背後の入口から入って来ている。進んでいくと、両側の壁にはエジプト神話の神々が並び、その中で神話を繰り広げているのに気づく。夜のせいで鮮やかさは陰っているが、彼らの生き生きとした様子は暗くともよく分かった。そして壁画のすべての神々が敬意を示すように視線を向けているのは、ある一つの方向。神殿の奥、そして中心。頭が天井につくほどの巨大な神像、神の王アメン・ラー。壁に鮮やかに踊る神々の眼はすべてこれを見つめ、敬意を示していた。

 20メートルはあるだろうか。縦長の冠の赤と首飾りの青が、よく映えている。前に一歩大きく出された左脚、黒い棒を持つ右手、護符を握る左手、遠くを見据えた強い眼差しを持つ黒き瞳。前に進めば進むほど圧倒され、声を失う。これがエジプトの歴史・文明の中心に位置した大気と太陽を擬人化させた神。ファラオ本来の、死後の姿。5000年の間人々が崇拝し続けたエジプト神々の主神。

 思わず跪いてしまいそうなこの雰囲気を、古代人はどうやって石に吹き込み、この像を作ったのだろう。本物の神に出くわした気分になる。現代で色を失い、欠けてしまった遺跡に転がる像たちの数千年前の姿は、アメン・ラーと同様に魂の宿った大いなるものだったのかもしれない。

 小さく感嘆を漏らした時、意識を掠めた気配に我に返った。誰かに見られているような気がして、アメンを見上げていた視線を周囲に投げた。するとアメンの足元に設けられている階段を上った祈りの場に淡褐色の目を持つ人物が立ち、こちらを見ていた。

 祈りでも捧げていたのか、アメンを前に背筋をまっすぐ伸ばした威厳のある姿勢で佇んでいる。夜の月明かりだからこそ、その勇ましさはアメンの下に映えた。

 誰であるかを把握する前に、その淡褐色に炎を思わせる赤が走り、同時に正体の知れぬ相手は野生の獅子を思わせる素早い動きで床を蹴り上げ、こちらに飛びかかってきた。意気阻喪していた俺は、抵抗する間もなく首根っこを引っ掴まれ、押されるままに背中を床に打ち付けられる。嫌な音と共に、身体と後頭部に鈍い痛みが走り、小さい呻きが漏れて表情が歪んだ。


「……よくも、ぬけぬけと」


 相手は、噛みしめるように唸った。獣のようでもあった。目を細く開き、誰なのかを確かめようとするのに、首に巻き付く二つの手に力が籠められ、呼吸の出来ない苦しさに目を瞑ってしまう。瞬きの一瞬にこの身に何が起きたのか、状況が把握できないでいた。伸し掛かられ、掴まれた首に手を伸ばして触れた骨ばった感触に、相手は男だと確信する。


「……どうして、殺した」


 再度紡がれる唸り。弘子の口から吐き出されたものと同じ台詞。


「どうして殺した!!!」


 うっすらと視界を開けると、すぐ上にあの男の顔があった。黄金の似合う、憎くて仕方のない、弘子を手籠めにしたあの男だ。


「まだ生まれてもいない、何の罪もない赤子を何故殺した!」


 弘子と同じことを、弘子と同じ表情で俺に問う。

 まさか、ここで会うとは思わなかった。ファラオとあろう者がどうしてこんな時間に誰も伴なわずにここにいるのか。会いたくない時ばかり、こうも偶然にも鉢合わせてしまうのは何故なのか。

 苦しさを忘れ、俺はそいつの顔に見入っていた。目玉が飛び出すほどの勢いで睨みつけた。黄金がはめられた褐色の腕に、俺の指が食い込む。


「お前が憎かったのは、私だったはずだ!ヒロコを取った、私ではなかったのか!」


 そうだ。俺が憎く思っていたのは、弘子でも、腹にいたお前の子供でもない。お前だ。俺は殺したいほどにお前が憎い。


「どうして私を殺さなかった!!何故ヒロコの……私の…!!」


 また、示し合わせたように彼女と同じことを言う。未だ瞼の裏に焼き付いた弘子を思い浮かべたら、指から不意に力が抜けた。目頭が熱を持ち始めるが、必死になって耐える。


「お前が……悪い」


 締められた喉奥から声を絞り出した。なんて頼りない声かと泣きたくなる。


「現代にいた弘子をここへ呼び、ここで生きることを諭したお前が悪い……!」


 あの日、KV62に来た弘子を、お前が呼びさえしなければ今頃、俺たちは幸せに何の変化もなく暮らしていた。弘子が俺に刃を向けることも、殺意を抱くことも、この手を罪色に染めることも無かった。


「ならば何故私本人を狙わなかった……!」


 火花が散るくらい、睨み合う。


「ヒロコは私のためにここで生きることを決めた!早死にするかもしれぬ私の傍にいることを望んでくれただけだ!」


 弘子は、この男を愛した。初めての恋を愛に変え、己の瞳にこいつを映した。もう、俺の声が届かないくらいに。この喉を引き裂いたとしても届かないくらいに。


「お前が殺すべきだったのは!不幸にするかもしれぬと思いながら弘子を手放せなかった私ではなかったのか!!」


 威厳に満ちた太陽の王にしては想像もつかないくらいに精神を乱した男は、拳を振り上げ、俺に向かって振り落した。鈍い音と同時に頬に衝撃が走り、すぐに殴られたのだと気付く。切れたのだろうか、口の中にじんわりと血の味が滲む。痛みを感じたのは、その数秒後だった。


「お前とあの女に死を予言され、己の死期はいつか、死ぬ前に何をするべきか、死後はどうなるか、そう考えている中で宿った希望だった!それをお前が……!」


 二つの呼吸音がばらばらに、そして虚しく神殿に響く。相手は力をわずかに緩ませると、炎を乗せていた眼差しを消し、一瞬だけ悲しみに満ちた色を走らせた。


「お前を、殺したい……」


 耳元に届く、囁きに似た震える声。その奥深くに見え隠れする激しさを抑えんとするかのようだった。


「このままこの喉を掻き切り、この身を切り刻み、ナイルへ投げてしまいたい」


 ここで剣を振り上げられれば、俺は確実に死ぬ。俺の、負けだ。悲惨な最期だなと、首に巻き付く指を感じながら嗤ってしまう。もう、口角も上がらず、声も出ないのだけれども。


「……だが、分からぬ」


 やり場のない言葉が向かいの口から発っせられると同時に、俺の頬に、生暖かい雫が落ちてきた。当たって肌の上で弾け散る。


「あれだけ酷い仕打ちを受けながらヒロコがお前を殺せなかった理由が分からぬ!何故躊躇ったのか私には分からぬ!殺しても殺しきれぬと踏んだからか!?殺す価値もないと知ったからか!?」


 再び首を絞められたと思ったら、もう一度落ちて弾けた。相手を凝視し、それが何であるかを知った。──涙。憎い男の、涙だ。


「違う!お前が大事だからだ!!私はそれが許せぬ!何故、お前のような人間が、ヒロコにとってそのような位置にいるのか……!」


 殺してしまうから行けと、弘子は俺に言った。あの時の表情を思い出す。


「お前を殺しても怒りは治まらぬ!殺しても殺しきれぬのなら、私のこの想いは、怒りはどこに投げたらいい!!」


 落ちる。落ちる。

 塩辛い雫が落ちて、俺の顔を濡らす。首を絞める力が強弱を繰り返す。男自身が精神的に滅入っているのが、その指先から伝わってきた。


「一体どこへ!!」


 そうだ。俺が見たかったのは、この顔、この表情。憎しみと悲しみにぐじゃぐじゃに歪んだ憎ったらしいお前だ。

 なのに。叶えた望みの対象を、この肌に浴びているというのに。何故、これほどまでに達成感が湧かないのか。胸が締め付けられて、首を絞められる以上に、苦しいのか。心が沈んだままなのか。

 目を見開く俺の前に、淡褐色から雨が降り続ける。弘子にさえ見せないような神の化身の涙を、どうしてこんな俺に見せつける。どうして。泣きたいのは、俺の方だ。

 力が緩んでいた相手の腹を勢いよく蹴り上げた。そいつが呻いて後ろに倒れたのを視界の端で見ながら、起き上がって走り出す。

 どんな感情からかは分からない。何よりも、居た堪れなかった。辛くて、死にそうだ。躓き、転びそうになりながらも一心不乱に聖域の外へと飛び出した。

 俺は正しいことをした。そうだろう、あの二人の子供など生まれてはいけなかった。弘子を想い、弘子ために、未来のために、この手を汚したのだ。

 神殿と宮殿を繋ぐ、渡り廊下を行く。聞こえるのは風の音と、俺の足音。乱れた疎らの息遣い。立ち止まって血に侵された唾液を吐き出した時、遠くから別の足音が聞こえて振り返った。赤毛の男が「ファラオ」と探すように呼びながら神殿の方へ向かって行く。確か、ナクトミンと同じ隊長の男だ。名はラムセスと言っていた覚えがある。

 あの男には、自分を探してくれる存在がある。それが、ひどく羨ましかった。信頼できる臣下も、俺が守るはずだった弘子も、あの男の傍にいるのだから。俺に軽蔑の目を向けたメアリーもあちら側だろう。対する俺には、縋り付けるものも、泣き付けるものもない。走る気にも、歩く気にもなれなくなって、柱の横に崩れるように寄り掛かった。

 独りだ。本当の孤独だ。

 月に照らされた影が黒く、白い廊下に伸びて行く中、俺は目を閉じる。このまま、消えてしまえばいい。跡形も残さずに。


「──ヨシキ」


 呼び声。こんな俺を呼ぶ物好きは誰だろうかと頭を横に動かすと、消えることのできない俺の横に、銀の月光を浴びた美女が憐れみを乗せた表情で立っていた。



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