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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
14章 望むもの
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好機

* * * * *


 目を開けた。視界が定まるのを待つにつれて睡眠が終わったのだと知る。

 夢は見なかった。子供の頃は随分と色んな夢を見て一喜一憂していたのに、これほどまでに見なくなったのはいつからだろう。

 上質な肌触りの寝具の上で右へと寝返りを打ち、目を閉じて息をつく。暑くもないのに首筋にべたつく微量の汗が気持ち悪い。目の奥に鈍痛潜む。何度寝返りを打ってもこの息苦しさは消えてくれない。

 起きなければと思いながら一度目を閉じ、視界の暗闇に息を吐いた。今日もアイの名声のために治療しばければならない患者が大勢いる。それが自分の居場所を保つための唯一の手段だった。重たい動きで肘をつき、まだ目覚め切れていない上半身を起こした。猫背になって、無意味に部屋を一通り眺めてから足元に視線を落とす。頑固な寝癖ができた髪を手櫛で掻き上げながら吐く息は、朝の空気に乗って消えた。

 牢から出て5日が経つ。太陽が昇り、沈んでいく回数が増えていくたびに言いようのない焦りが募っていた。このままアイの手下でいる訳にはいかないのだが、弘子に会う手段というものを全く確立させることができないでいたからだ。王に毛嫌いされているあの最高神官に頼んでも無駄だ。メアリーも何処へ行ったのか、あれから姿を眩ませたまま帰ってこない。

 どうしたらいい。ここの反対側の宮殿奥に匿われるようにしている弘子にどうやって接触する。一刻も早く無理にでも連れ去らなければならないというのに。

 拳を額につけて目を閉じる。ここまで来て頭が働くのを止めてしまった。この手を泥沼に染めてからはいつもこうだ。彼女に会うのが怖いと思っている俺が、この胸の奥に潜み、喚いて邪魔をする。会いたくない、見たくないと。

 倒れ込むように仰向けに寝転がり、右手を自分の胸に添えた。固い寝台にぶつかった背中と後頭部が、鈍い痛みにじんと痺れた。

 自分の中に宿っていた胎児を失った弘子が今どんな状態か。それをこの目にした時、自分がこれまで保ってきたものが一瞬のうちに崩れ落ちそうで怖かった。

 何も感じなくなってしまえばいい。そうすれば嫌な虚無感に浸ることも、こんな心が絞られるような感覚を味わうこともない。けれど俺は人間で、これは死なない限り叶わない。叶わぬことに思いを馳せている自分が馬鹿馬鹿しくなって笑おうとするが、寝起きのせいか声は出てこなかった。宮殿の天井の色を見ている内に、心と身体が掛け違えたボタンのように離れていくのを感じていた。


 扉が開く音がする。

 ナクトミンの迎えにしてはまだ早いから、朝食を運ぶ女官でも来たのだろうかとも思ったが、身体を動かす気にはなれなかった。


「起きなさい」


 空気をすっと通り抜ける威厳があった。思いがけない声に視線を上げると、腕を組んで蔑むような視線をこちらに向ける女がいた。ずっと俺の前に姿を現さないでいた、この上ない美貌の主の登場に驚きつつもその女を見据えて俺は鼻先で笑った。


「何か、御用で?」


 起き上がって寝台に座る俺の方へ、サンダルを鳴らして彼女は歩んでくる。切れ長の美しい瞳を細め、こちらの前にぴたりと止まり、俺を見下した。


「あなたなの?王妃に御子を流させたのは」


 何故、ナクトミンやアイが内密として扱っている事実をこの女が知っているのか。俺の眉間に自然と皺が寄る。


「東の王宮から密かに、将軍隊長を含む一握りの人物に命令が出ているわ」


 極秘任務紛いの情報まで耳に入るとは、彼女の情報網はどれだけ広いのだろう。アイの娘であり、西の王宮内でも大きな存在力を持つ彼女からしてみれば俺のことなど筒抜けということか。なるほど、と胸の内で呟いた時。


「ヨシキという名の男を捕えよ、ってね」


 落としかけていた視線を、彼女に戻した。


「王は、あなたを探している」


 ──気づかれた。

 探されているという知らせに、そう直感した。同時に鳥肌が全身に沸き立つ。


「その命令における詳細は述べられていない。でも、王妃の流産に関することだと私は読んだ。だからここへ来た」


 おそらくネフェルティティの読みは当たっている。弘子を流産の原因が俺だと、あの男は知ったのだ。


「私は真実が知りたい。あなたはあの牢の中から御子を殺したの?」


 彼女の声が横を流れていくのを感じながら、一度目を軽く伏せた。

 まあ、驚くことでもない。知られた原因は、覚悟も何も出来ず謝ろうなんて言い出したメアリーしか考えられなかった。最後に会った際のメアリーの様子を思い返せば、弘子の前で今までの事を白状したのだと容易に想像がつく。大方、胎児を流すために俺が薬を渡し、自分が弘子の食事に入れたのだと懺悔でもしたのだろう。


「……俺がやったことだ」


 迷いなど感じることなく、ただ淡々と返答を送る。

 メアリーが俺のもとから去った頃からこの事態は想定していたが、それよりも実際に起こると軽佻すぎる彼女の行動に対して内心腹を立てていた。知らぬが仏ということもあるのに、構わずすべてを暴露したというのなら、それは弘子にとって耐え難いものでしかない。懺悔と言いつつ、友人であった存在に子供を殺されたのだと知らされれば、弘子の精神的衝撃はどれほどのものになるか。むしろ懺悔した方が弘子を深く傷つけるという点で、メアリーの復讐は成立するとも言える。結局、メアリーの行動は懺悔によって醜い自分を謝罪し、己がすっきりしたいという自己満足によって成り立つものだ。告げられた弘子は一つも救われない。


「一人の女官の話が来てるだろう」


 目の奥が痛み、目頭を押さえながらネフェルティティに言った。

 もしそんな女官が存在するのなら、それは間違いなく俺の前から去ったメアリーだ。腑に落ちないという表情をしながらも、女は「ええ」と頷いた。


「女官が一人、逆賊として敵国捕虜たちの牢に送られたと聞いたわ」


 殺されなかったのか。そうとなれば極めて稀な事例だ。弘子の慈悲によるものかは不明だが、敵国捕虜扱いだとすると奴隷を意味する身分最低層。死刑の次に重い刑を下ろされたということになる。


「その女官に何かあるっていうの?」


「薬を持たせた女だ」


 ネフェルティティの瞳孔が若干揺らいだ。


「まさか、同じ未来から来た……」


「あんたらには想像もできないような未来の薬を、王妃の食事に入れるように頼んで、それが成功しただけの話だ。結果、王妃は子供を流した」


 どうして毒見を通過することが出来たか、王も口にしたのに何故王妃にだけ作用したのかなどその辺りは何も触れずに俺は自分の床に下ろされた足元を見ていた。これ以上己の口から発したら、胸の悲鳴に俺自身が折れるのは知っている。もう、あの記憶を繰り返したくはない。

 こんな要点だけの説明では腐るほどの疑問が残るはずなのに、美女は何も聞かなかった。その代りにこちらへ向けられたのは、探りを入れるようにじっとこちらを捉え続ける澄んだ瞳だった。そこから生まれる蔑むような眼差しが俺の頭上に当たり、二人の間に何とも言い難い凍てついた沈黙が流れていった。


「酷い人」


 ようやく口を開いたかと思えば、そんな短い言葉だった。


「王妃を愛してたのではないの?」


 愛していた?

 違う、今も愛しているからこそ、守るために罪に手を染めたのだ。


「愛する女の子供をよく自分で殺せるわね」


「愛と憎しみは紙一重なんだろう」


 短い台詞が続いているだけなのに耳が痛く感じ、話を断ち切るように声を発して立ち上がった。

 あの男が俺のしたことに気づいているのなら、弘子に会うなり、アイに匿ってもらうなり、何かしらの行動を早急に起こさなければならない。みすみす捕まる訳にはいかない。


「子供が流れて良かったと思っているの?」


「後悔はしてない」


 寝台の傍に置いていた鞄を肩に掛け、俺はネフェルティティの横を行く。


「軽蔑したいなら勝手にすればいい」


 朝食を運んでくるはずの女官も、ナクトミンも待っていられない。この女と一緒にいたくなかった。すべてを剥がされそうで嫌だった。


「なら、何故?」


 外に出ようと扉に手を掛けた時、彼女の声が背中に当たった。張り上げているわけではないのに、その声は芯を突き通したように胸を貫く。


「何故、あなたはそんな顔をしているの」


 弾かれるように顔を上げる。振り返り、後ろにいる女を睨みつけた。睨むことが、俺にできる精一杯の抵抗だった。それでもこちらに怯むことはなく、女は続ける。


「あなたの嘲笑はいつも哀愁が満ちている。辛そうだわ。見ていて痛々しいくらいに」


 何がだ。握られた拳が汗ばんで、震え出す。


「王妃に会おうとしているのでしょうけれど、どうかしら。あなたの思う通りに行くかしらね」


 くだらない女の言い分を嗤ってやりたかったのに声が出てくれなかった。胸の奥の俺の喚きが突如大きくなり、それをさせまいとしているように。


「私は言ったはずよ。怒りと憎しみに身を委ねるなと。もっと良い選択があったでしょう?自分が苦しむと分かっていながら御子を殺す必要なんて本当にあったの?」


 今更遅い。悩みに悩んだ末での選択だった。


「良いことだけを選べる人生なんて無い」


 すべては何かの犠牲と共にあるのだ。扉を押し、外へ足を踏み出した。


「哀れな人ね」


 彼女がそう告げたのを最後に俺は出て、空間を閉ざした。緊張が一気に緩んで、息を吐くと同時に脚まで崩れ落ちそうになり、どうにか踏ん張って堪える。天井を仰ぎ、一度伏せた目を開いた。

 あんな女の妄言に揺らいでいる暇がどこにあるというのか。行動を、起こさなければ。

 アイの元へ向かうのが俺の最善。今、俺を守ってくれるのはあの男しかいない。


「僕の勘もなかなかいい線行ってたみたい」


 歩き出したら、そのすぐ先に猫目が笑っていた。肩を揺らし、一見人懐っこそうな瞳をくりくりとさせている。


「そう思わない?ヨシキ」


 意味深な眼差しに警戒が募る。ナクトミンだった。読めない男だ。その愛想のよい笑顔の裏に何を隠しているのか、全く掴めない。


「王妃様の流産、やっぱりヨシキだった」


 一歩、右足を前に出して彼はまた肩を揺する。

 聞いていたのか。この部屋で、あの女と繰り広げていたどうしようもない会話を。


「本当に面白いね。僕が思った通りすごいこと仕出かしてくれた。アイ様も面白い人だけど、ヨシキも見ていてすごく楽しいよ」


「それはどうも」


 嬉々と言ってのけるナクトミンに適当に返して、俺はアイの部屋へ向かおうと足を動かし始めた。ひょいと飛ぶように、猫目の男も俺の隣を軽いステップでついて来る。


「ねえ」


 囁くような、猫撫で声が耳を掠める。


「王妃に会う?」


 思いがけない提案に、俺は足を止めた。ナクトミンは驚いた様子の俺に、また綺麗な笑みを見せてくる。


「ファラオは政務のためにちょっとの時間だけど今は不在にしている。厄介な将軍隊長も王妃から離れて君を探してる。加えて王妃本人は侍女さえも寄せ付けない有様だ。部屋に直接行ければ、女官にも会わず一人きりの王妃に会える。……僕ならそれが出来るよ」


 自分が望んでいたことをすんなりと言いのける相手を思わず凝視してしまった。まさか、この男が東の王宮奥にいる弘子に俺を会わせることが出来るなどと思いもしなかった。


「やだなあ、そんな目で見ないでよ。これでも僕はカーメス将軍に次ぐ権威者だよ。そんなに頼りなく見えるわけ?」


 けらけらと、今までよりもやや大きめの声で相手は笑った。

 確かにナクトミンは隊長という階級についている権威者。それも上司である将軍は、ツタンカーメンから厚く信用されているカーメス将軍。アイなどよりもずっと弘子に近い。


「行こうよ」


 俺の返答を待たずに男は行く。楽しそうにサンダルを鳴らしながら。

 いきなり開けた道に迷いが走った。弘子は俺が首謀者だと知ったのだ、彼女の瞳に俺はどう映るだろうか。あの眼は俺をどのように捉えるのか。


「何を悩んでるのさ」


 行くんでしょうと、振り向く笑顔がある。その先に、弘子がいる。あの葡萄園の時と同じ、一人きりで。


「王妃は衰弱してるよ。攫うことだって出来ちゃうくらい」


 そうだ、俺は何を間誤付いているのか。

 嫌がられようとも、人殺しと罵られようとも、俺のするべきことはただ一つ。今、示されているのは突如として現れた好機だ。


「ああ」


 頷いて、俺も進み出す。


「行こう」


 痛々しい顔をしているというのなら、握りつぶして塗り替えよう。

 鞄の紐を汗ばむ手で握り、見えぬ仮面を被って何食わぬ顔を作り上げる。何も感じることのない機械のような人間の顔を。

 弘子に会い、弘子を攫う。王妃の座から引きずり降ろし、あの男から、歴史から救う。

 俺の望みは、それだけだ。



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