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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
14章 望むもの
92/177

真実

* * * * *


 何もない。

 身体の水分が枯れ果てるくらい泣いたせいか今は空虚だった。ただただ茫然として眠れない。

 未だに現実が受け入れられずに繰り返し腹部に手を伸ばしても、そこにあるのは生理痛に似た痛みだけで、あの膨らみに感じていた幸せとぬくもりはその面影すら消え失せてしまっていた。

 身を横たえたまま、髪が顔の前に垂れて黒い線を作るのを黙って見ている。動くたび黒い線の数が増えて私の視界を染めていく。時間というものを手放してしまったかのようだった。

 枯れたヤグルマの花。目の前に倒れている青いタウレト。あの子がお腹にいるときに彼が安産を願って贈ってくれたもの──あの子が、いた時。

 あれだけ泣き叫んだのに、涙が溜まって人形の青さを曇らせた。堪え切れなくなって麻に顔を埋める。抑え込んでも、抑え込んでも、咽かえるように嗚咽が口から漏れる。

 女の子だった。私が産むことが出来なかったあの子は、可愛らしい女の子。

 この身体の中にいたのに。私が一番近い存在だったのに。どうして助けてあげることが出来なかったのか。どうして、あの痛みに耐えることが出来なかったか。

 何が悪かった?何が駄目だった?

 妊娠を知ったあの日からの自分の行動を振り返っては、後悔ばかりが浮かんで止まらない。

 私がちゃんと産めていたのなら、あの子は産声をあげて、笑って、この外を見ることが出来ただろうに。透明な風を一身に浴びて、砂漠の黄金やナイルの青を感じていただろうに。

 瞼を閉じれば、腕に抱いたあの子を思い出す。あんなに冷たくなって、あんなに小さかった、私の赤ちゃん。どれだけ怖い思いをしただろう。息もできないのに出されてしまって、どれだけ苦しかっただろう。私の身体がもっとちゃんとしていれば今もこのお腹にいたはずだった。

 ──ごめんなさい。

 何度言っても足りることはない。


「ヒロコ」


 人の、声だ。

 どんな慰めも苦しいばかりで、心配してくれていたネチェルたちに下がってもらったのは今朝のことだった。それから随分時間が過ぎている。

 身体に力が入らず動かないでいると、背中にそっと触れる手があった。温かなぬくもりはじわりと肌に沁みる。動かした重たい視線の先に、こちらを覗き込む淡褐色の眼差しがあった。あの時と同じ、憂いを浮かべた瞳は変わっていない。


「遅くなった」


 今日は同盟国のヌビアからの使者が来ていたはずだから、必然的に話し合いが行われたのだろう。貿易とか、互いの国政だとか大事な話があったに違いない。


「一人にしてすまなかった」


 寂しいという感情はない。傍にいて欲しいという気持ちが自分の中にあるのかもよく分からなかった。反応を起こすのも忘れ、長い指が私の髪を流れていくのを漠然と感じている。それでも接着剤で寝台に張り付いてしまったかのように私の身体は動いてくれない。

 髪を伝っていた手は、そこに埋もれた私の手に絡んだ。重なる温かさは、この手に抱いたあの子の体温とは正反対のものだった。


「もう、3日になるのか」


 彼が、独り言のように零した。

 あの子がいなくなって3日。とても長かった。とても短かった。どちらでもないのかもしれない。

 目を伏せたら、涙腺から溢れた水滴が目元に当たる麻布を濡らす。


「……あの子は?」


 掠れた音で彼に尋ねた。

 取り乱した後、何が何だかわからないまま連れて行かれたあの子。あれからどうなったのか、あまり覚えていない。そのせいか、あの瞬間がどうしても夢のように感じている自分がいる。悪夢だったような。


「どこに、いるの?」


 答えない彼を、身体を起こして見やったら、彼は少し戸惑うように目を一瞬逸らした。私の方に屈めていた身体を起こし、寝台の軋む音の後に相手が小さく唇を開く。


「死の家に」


 死の家。ミイラを作る場所。

 あの子が、ミイラになる。あんなに小さいのに切り開かれるのか。何も十分に出来上がっていないだろうに。まだ、全然何も。たった5カ月だったのだから。


「70日後に帰ってくる」


 この人の前であれだけ泣いていたのだから、これ以上はと思って唇を噛んで堪えるのに、飽くことなく目元が熱くなってくる。それを悟ってか、彼が私を覆いかぶさるように包み込んだ。背に暖かさが伝わってきてまた悲しくなる。

 あれだけ楽しみにして、名前まで考えて、いつもお腹を撫でては語りかけていたあなた。少年の頃に戻ったような輝かしい表情はもう、あなたの顔には微塵も見えない。そうさせてしまったのも私だ。なのに、そんなあなたを慰める言葉さえかけてあげられない。


「……何も食べていないと聞いた」


 空白になった思考に、耳元から入った彼の声が横切った。その人が身体を起こして、私の髪を指で梳かしながらまたこちらを覗き込む。


「このままでは身体が駄目になる」


 寝台の近くの小さなテーブルには、いつから置いてあったのか、パンと果物が綺麗に揃えられていた。


「何か、口に入れて欲しい」


 鮮やかなオレンジの果物を私に差し出してくれるものの、私の目は逃げるようにそれから逸れた。吐き気があってとても口に入れる気にはなれなかった。


「……ごめんなさい、どうしても」


 口に入れても咽て、結局は吐いてしまう。泣いて、泣き止んで泣いての繰り返しも、食事の拒否も何の役に立たないのは分かっている。けれど、心も身体もそれに追いついていかない。

 無気力だ。悲しみと自分に対しての怒りが交互に、時には同時に私を押し潰す。


「ならばせめて、薬湯だけでも」


 そうして湯気を天井へと伸ばす杯が差し出される。水分ならば噛む必要なく喉に流れていってくれるから、まだ吐かずに飲み込める。腕に力を入れて、彼の手に助けられながら身体を起こした。


「ありがとう」


 薬湯を受け取り、湯気の行く先を無意識に目で追う。彼に寄り掛かりながら視界に入るいつもの部屋は、なんだかあの子がいた時と違って見えた。装飾も、置かれた物の数も位置も何も変わっていないのに、何かがとても。

 それを感じながら渡された杯に口をつけ、少し含んで喉へと流し込む。薬草の苦味を含んだ熱湯は喉から胸へ、そして腹部あたりで消えた。


「まだ、腹は痛むのか?」


 私を胸に抱いて問いかける彼に、首を横に振る。あの子を流してしまった時の痛みを思えば、比べるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに他愛のないものだ。私の返答に、その人はほっと胸を撫で下ろして薬湯をこちらの手から机の上に戻した。


「ならば明日にでも外に出てみるか」


 外だなんて頭を過らせたこともなくて、提案に反応した私は彼を見上げる。


「侍医が、痛みがないのなら外へ出かけても良いと言っていた。身分を隠して出歩くのもまた楽しいだろう」


 彼に出会った最初の頃、この国の在り方を見せてもらった。皆が輝いていて、綺麗で、この国が好きだと心から思えたあの時。


「ついでにナイルで狩りをしに行っても良い。ヒロコの好きな動物や魚を捕まえてやる」


 ぎこちない笑顔で提案してくれるけれど、さっきと同様に首を横に振ってしまう。

 無理だった。妊娠している女性や小さな子供たちを目にして、泣かないでいられる自信がなかった。あの出来事さえなければ、あの子もあれくらいだったのだろうとか、私のお腹もあれだけ大きくなっていただろうとか。どうして私だったのかと心を染めてしまうのは、そんな醜い感情。

 せっかく元気づけようと誘ってくれているのに、それを踏みにじってしまうこんな自分に嫌悪を抱くのに、どうすることもできなかった。


「そうか」


 彼は険しい顔をすることなく、そう言って優しい表情で私をそっと抱き込む。今は狭いどこかに閉じ籠っていたい。箱にしまわれた人形のように、狭い場所に。

 相手に腕を回すこともなく、私は凍てついた心情のまま視線を部屋の方へと動かした。

 そう言えば、妊娠が分かったあの日もここでこんな風に過ごしていた気がする。祝福が沢山の口から紡がれていた。これから大変だと気合を入れて笑っていたメジットとネチェル、多くの侍女たち。なんと楽しみなことかと、いつも以上に表情を崩していたナルメル。世継ぎだと頬を染めて喜んでくれていたカーメスにセテム。今のように彼に抱かれて、二人でお腹を撫でて何度も微笑みあっていた。幸せで、幸せで、涙が出てしまうくらい堪らなくて。笑顔が沢山咲いていて。

 私だけではなかった。赤ちゃんが無事に生まれてくれることを楽しみに願い、支えてくれていた人たちがあんなに沢山いた。なのに私は。


「……な、さい」


 呆れるくらいに涙は出てくる。手で掬おうとしても掬いきれず、零れていく。


「ヒロコ?」


 いきなり顔を覆って泣き出す私に、戸惑う彼の声がかかった。


「産めなくて、ごめんなさい…」


 どんなに謝っても足りない。赤ちゃんにも。周りの支えてくれた彼にも、皆にも。

 女官や兵たちが、他国が世継ぎが生まれるのを恐れて呪いをかけたのではと噂していることは知っている。でも呪いなんて存在するはずがない。産んであげられなかったのは私の責任。私がいけない何かをしてしまった。


「ごめ…」


「言うな」


 少し怒りを孕んだ声が、私の謝罪を切った。彼が抱く腕の力を増す。


「ヒロコのせいではない。自分を責めるな」


 毒ではなかったとはっきりと言われたのに、私のせいではないと、どうして言い切れるだろう。

 俯いて黙り込む。その間にも目から落ちる水滴の量は増していくばかりだった。


「今日はもう休め」


 彼はゆっくり私を寝かせ、手を握った。その熱を弱く握り返して、目の前の重なる手を、ぼんやりと見つめていた。

 これからどうしたらいいのだろう。先が何も見えない。雪のように真っ白だった。



「お願い!通して!」


 しばらく経ってからだと思う。空虚の中で声がした。彼は何かを察したかのように、寝台から部屋の扉の方に顔を向ける。


「弘子に会わせて!!」


 すっと目を細めた彼は「行ってくる」と私に告げ、寝台から降りて声のする方へと向かった。


「ただの女官がこちらに立ち入ろうなど、何を考えているのか!」


「話さなくちゃいけないことがあるの!!」


 扉の前の兵たちと口論でもしているのか、激しい言い合いが飛び散っていた。一つの女声はとてもヒステリックで耳の奥が痛む。


「ねえ!会わせて!!」


 ふと、顔をあげた。この女声の主はメアリーではないだろうか。「弘子」と私を本名で呼ぶのは、彼と良樹とメアリーしかいないから間違いない。驚きを持って、身体を起こして向こうの扉を見やる。

 寝台からでは見えず、軋むような関節を動かして寝台を降りた。久々に動かした足は絡みながらも、何とか歩みを成す。歩を進めていくものの、力が入らない足元はふらついた。


「お前が何の用で来たかは知らぬが、今の妃は謁見が叶う状態ではない」


「会わせて!会わせて、弘子に!」


 案の定、彼の低めの声を追うように一つの聞き慣れた声が続いた。褐色の背でよく見えなくとも、その先には彼女がいると確信した。


「私の言っている意味が分からぬのか」


「お願い!」


 あれほど私を怨むと言っていた彼女が、どうしてそんなにも必死に訴えているのか。必死というよりかは、興奮で我を忘れているようでもあった。

 突然のことで全く見当がつかないが、ただならない状況だけは感じ取り、行かなくてはと私に強く思わせた。扉の縁に手をついて彼に手を伸ばす。


「連れて行け。妃に会わせるつもりはない」


「弘子!」


 囲んだ兵と女官たちに引っ張られながら、彼の声を遮ってメアリーは私を呼んだ。しばらく見ていない彼女の顔は別人ではないかと思うくらい青ざめ、目を見開き、次の瞬間には彼を突き飛ばすようにして私の方へと走り出していた。


「ひ、弘子……弘子っ!」


 私の手を引っ掴み、そのまま崩れるようにメアリーは床に座り込んだ。それに引かれ、私も向かいに膝を折る。手が、怖いくらい冷たい。


「……メアリー、」


「弘子……ごめん、ごめ、ごめんなさい」


 何かに憑りつかれたように繰り返す。回数が積まれるたびに握力が増して、それほど経たない間に耐えることができないほどになった。私が顔を歪めたのを見た彼が、慌てて私をメアリーから引き離す。


「この女官を連れていけ!妃に近づけるな!」


「アンク、駄目、待って……!」


 反射的に兵たちに命じる彼を制し、彼女を覗き込んだ。明らかに様子がおかしい。祈るように手を組む指たちは落ち着きなく揺れて、唇は色を失い、そこから出る言葉をも震わせてしまっている。尋常ではない何かを相手の姿に感じた。


「メアリー、どうしたの?何が、あったの?」


「わ、私……」


 怯えているのか、狂ったように頭を抱え、身体を大きく痙攣させながら発し始める。


「私……いけないことをしたの」


 乱れた呼吸。落ちていく、止めどない涙。彼の手を肩に感じながら息を呑んで耳を傾けた。


「私は、決して許されないことをした!」





 狂気じみた彼女の様子に彼も何かしらを察したのか、兵と女官に下がるよう命じた。私を抱きかかえながら寝台に腰を下ろし、その淡褐色は床に座る彼女を冷たく見下ろしている。


「大した話がないのなら直ちに出て行け」


 催促するような彼の言葉に、向かい合うメアリーの表情はますます固く、色を失っていく。彼女をかなり警戒しているらしく、彼はそれ以上私をメアリーに近づけようとしなかった。


「私……私、が…」


 目の焦点もうまく合っておらず、がたがたとした身体の刻みに声も一緒に揺れていた。


「そればかりでは何を言っているのか分からぬな」


「殺した……」


 兵を呼ぼうとした彼の口が止まり、眉の尻がぴくりと上がった。「私が」としか口にしていなかった彼女が、ようやくその先を述べ始める。


「私が、殺したの」


 殺す。

 何を、と尋ねる前に彼女の声が放たれる。


「弘子の赤ちゃん」


 私の、赤ちゃん。

 常に頭から離れないでいる存在が、彼女の言葉の中に入っていた。


「私が弘子の赤ちゃん殺したの!!」


 叫んだ瞬間に、彼女は前に伏し、わっと声を上げて泣き始める。

 分からなかった。メアリーに何を言われたのか、告げられたのか、分からなかった。

 殺された?違う。だって、私のあの子は。


「どういうことか、はっきり聞かせよ」


 私を抱く手に力を込めた彼が命じた。それは地を這うくらい低いものだったのに、聞こえていないかのようにメアリーはわんわんと声を上げて泣き叫ぶことを止めない。

 私のせいで、あの子は流れてしまった。死んでしまった。なのに、殺されたのだとメアリーは言う。


「頭を上げよ!どういうことかその口から申せ!」


 びくりと跳ねたメアリーは、両手を擦り合わせながら、紫に近い色の唇を開いた。


「よ、ヨシキが」


 良樹。


「弘子の赤ちゃんを流産させるために……ヨシキが私に、薬を、渡して」


 薬。渡した。

 メアリーは何を言っているのか。単語がばらばらに砕け散って、私の頭の中に落ちていく。掬い取れない。


「子宮収縮作用……子宮を無理に縮める作用のある薬だった」


 知っている。子宮を収縮させる必要がある時に服用する、この時代には決して存在し得ないもの。


「弘子の身体にとっては異常の量と濃度のものを、ヨシキが……私に」


 子宮収縮作用のある薬を私が飲んだのだとしたら、私の子宮は必要以上に収縮する。お腹の中にいた胎児は、否応なく押されるようにして出てきてしまう。


「そ、れで……私が弘子の飲む水に、入れて」


 ならば、私が感じたあの痛みは、薬によるものだったのか。

 今にも途切れそうな思考を働かせる。考えれば考えるほど、呑み込めなくなる。メアリーの言っているものが真実だと言うのなら、私が流産したのは。私があの子を流してしまったのは。


「弘子の赤ちゃんを殺したのは私です!!ヨシキと私のせい…!毒を弘子に飲ませて流産させた!」


 何を、言っているの。分からない。何も、何も、分からない。


「ごめんなさい!本当にごめんなさい!!許して……!」


 唖然とする私と彼を残し、再び彼女は泣き伏す。私たちの前で、何度も謝罪を繰り返しながら、咽りながら床を涙で濡らしていく。

 毒を飲まされた?それであの子は殺された?良樹とメアリーが、それを私に?

 頭の整理がつかなかった。それなのに身体の芯が恐怖に浸ったように震え始め、死んでいた胸の奥から熱いものが溶岩のように流れ出てくる。情熱や感動の類ではなく、もっともっと、醜いもの。


「何を、言っている」


 口火を切ったのは彼だった。その人のものとは思えないほど奥で震えた一声は、地を這うようだった。


「何を言っている!」


 素早く動き、腕を伸ばして床に張り付いていた彼女の服を引っ掴み、メアリーの顔を上げさせた。首根っこを掴まれた状態になった彼女は小さく呻きながらも、抵抗もせず手はだらりと横に垂らしている。


「もう一度言え!!どういうことかっ!」


 彼は冷静さを失ったように相手を揺らした。私は、動けないでいる。乱暴になりかけている彼を止めることも、これ以上を問いただすことも叶わない。


「述べよ!!」


「わ、わた、私が、毒を、盛り、」


 彼の目に赤が走る。獣を思わせるそれに、メアリーは恐ろしいというように僅かに身を引いた。


「誰の命か!!」


「ヨ、シキ」


 3か月前の葡萄園の下、あの時の良樹の顔が浮かぶ。あの場で、誰よりも早く私の妊娠を察したかもしれないあの人。瞳を大きく揺らして私を見下ろしていた表現し難い表情は、今も鮮明に脳裏に蘇る。でも私の知っている良樹はそんな人を殺そうとする人ではない。面倒見がよくて、小さな子にとても人気があって。いつも爽やかでやわらかい笑みを浮かべて。なのに、メアリーはそうだと言っている。良樹が、私が流産するように彼女に薬を渡したのだと。


「実行は!」


「わ、私……」


「毒見は十人いた!何故お前ごときが王妃の食事に毒を入れられる!」


「男に、は、作用しない、薬……で、毒見は男だけ」


 彼の目が大きく見開き、メアリーの首元を掴む手には痙攣を起こすほどの力が籠って赤く腫れた血管が浮き出る。


「何故入れた!!」


「ひ、弘子が……憎くて、殺、したくて……」


 それが発せられた刹那、彼がメアリーの髪を引っ掴み、立ち上がった。彼女の悲鳴など顧みず、少しの距離を引きずり、椅子の上にあった鉄の剣を手に取る。


「……アンク!」


 金色の鞘を抜き取って床に叩き捨て、床と鞘が生んだ音が怒りを孕んでそこに弾け散った。私の声など聞こえていないようだった。


「言え!もう一度!その罪を己の口で!」


 怒鳴り、メアリーの首元に突き付けられるのは鈍い光を放つ切っ先。乱れた髪を顔面に垂らす彼女の目が大きく揺らぐ。


「言えっ!!」


「わ、私が……御子様、を毒で、こ、殺、し……」


 言い終わらない内に、彼の手が透かさず彼女の後ろ頭に回り、床に押し付け、長い髪に埋もれた首元に剣を添える。


「殺してくれる!」


 振りかざされた切っ先に、私は発作的に走り出した。重い身体を叱咤して、我武者羅に両手を伸ばす。


「この手で頭を切り落とし、セベクの生贄としてくれる!」


「やめて!!」


 飛びつくようにして掲げられた彼の腕にしがみ付くと、動き出していたそれは、ぐっとその場に止まった。瞬間、炎を走らせた淡褐色がメアリーから私に移る。


「何故止める!放せ!!」


「駄目!やめて、お願い…!」


 首を数回左右に振って抱く腕に力を込めた。


「我らの娘を殺したのはこの女だ!!殺して何が悪い!」


 泣き言を積む子供のように、私は彼にしがみ付いたまま、殺さないでと首を振り続ける。不透明だった。メアリーの口から紡がれる言葉の意味も。何がどうなって、何が起こっているのも、すべてが。ただ、メアリーが殺されてしまうと知って咄嗟に身体が動いただけだった。


「せめてこの耳と鼻を切り落とさなければ私の気は静まらぬ!!何故庇う!!」


 どうして。それは。


「メアリーは、私の、大事な」


 友達。


「私、の……」


 続けられなかった。私を流産させようとして、薬を入れた人。私の赤ちゃんを、殺した人。

 彼の腕から離した両手で顔を覆う。息が苦しくなる。張りつめた糸が切り落とされたように、急に足先から身体が崩れ落ち、世界が沈んで、果ての無い絶望が私を襲う。


「ヒロコ!」


 剣が落ちる音がした後に、彼に抱きかかえられる態勢で床に座り込んだ。私の名を繰り返し呼ぶのが聞こえ、いつもより顔色の悪い彼の顔がこちらを覗いていた。

 頭が痛い。呼吸が荒くなって、過呼吸にでもなったように規則性を失う。

 良樹が、赤ちゃんを殺した人?私に流産の薬を飲ませろと、メアリーに指示した?

 分からない。分からない。分からない。

 定まらない視線が迷いに迷って、解放されて床から顔を上げた彼女の姿に止まった。

 彼の腕から這い出て進む。上半身を起こしたメアリーを、乱れた呼吸を放ちながら見つめた。


「……本当、なの?」


 床につく彼女の手首を掴み、問う。力の加減ができない私の手は、相手の顔を微かに歪ませる。


「本当に……良樹と、メアリーが…」


 目が、かち合った。


「私の…赤ちゃん、を……あの子を……」


 大きく揺れた相手の目は伏せられ、静けさが続いた空間で、弱々しく、一度だけ頷いた。

 ぷつりと何かを切り落とされ、怒りだか悲しみだか分からないものが溢れて溢れて止まらなくなって、私をその色に埋めてしまう。堰き止められなくなる。

 へたりと座り込んだまま、宙を見つめた。


 憎まれているのは知っていた。仕方がないと思っていた。でも、その矛先は私ではなく、あの子。あの子は、私の中で生きているはずだった。私の赤ちゃんは。


「ヒロコ!」


 後ろから褐色の腕が伸びて、私をその中に閉じ込めた。


「もう聞くな」


 こちらの耳を塞ぐように包まれるのを意識の端で感じながら、それでも私の目は、震えて涙を零し続ける彼女に向いている。並べられる懺悔は、呼吸の仕方も、瞬きの仕方も私から奪い去る。


「ごめんなさい……!」


 懺悔の主はまた涙を落とした。床に平伏すように、目の前に落ちた剣に祈るように、頭を下げて。


「許して……!」


 その切実な音を、私は茫然自失に聞いていた。



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