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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
13章 罪と過ちと
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変事

* * * * *


「もうよい」


「いいのよ、やらせて」


 朝の白い光の中で、褐色の背に香油を伸ばしながらそんな会話を交わす。一塗りするたびに彼の腕がこちらの香油壺を取ろうと動くから、それをひょいと避けることを繰り返していた。


「腹の子に障ったらどうするのだ」


「香油を塗るくらいで障りません」


 安定しているから身体はむしろ動かした方が良いと言われているのに、お腹が大きくなればなるほど彼は駄目だと言い、私の仕事を減らそうとする。こうして残された唯一の役目である朝の香油塗りまで差し止められたら何をして過ごせばいいのやら。


「頑固だな」


 獅子を象ったアラバスタの壺を胸に抱いてこれだけは譲れないと首を振って見せた。香油を塗ることはたとえ単純な作業でも、非力な私にとっては彼のために出来る大切な仕事のひとつだ。油が醸す香りが悪しきものを払うように、その身を守ってくれるように、妻が夫の無事を願う細やかな慣習。どうしても欠かしたくない私の日課でもある。やめる時はこの腕が落ちた時と決めていた。

 金色の椅子に座る彼は困ったように眉を落としながらも、最終的には仕方ないと言って任せてくれる。

 そうしてどうにか香油を塗る作業も終わり、私自身の身支度も整った頃に、例外なく侍女を後ろに連れたネチェルが入って来る。


「お食事の準備が整いまして御座います」


 小さめの部屋に侍女たちを連れて向かうと、いつものようにナルメルとセテムが供え物のように立って私たちが現れるのを待っていた。入口付近には女官と兵が控えており、目の前には果物からパンまで色とりどりの料理がずらりと並べられている。私たちが用意された席に腰を下ろして落ち着くと両側を挟むようにして侍女たちがついた。

 「本日もご機嫌麗しゅう存じます」というナルメルの一声から食事は始まる。彼は果物、私は野菜から手に取って口に運びながら、前に立つ二人の口から紡がれる国の様子や外国の動きなどの話を頭に入れていく。

 平和協定を結ぶヌビア、リビア。そして協定は結びつつも、古からの敵国であるヒッタイト、その周りにあるアッシリア、バビロニア、ミタンニ。地中海面に出没する海の民のこと。以前はさっぱりだった言葉や地名も今では大体分かる。現代のヨーロッパとアフリカ付近、地中海を中心とした地域は多くの民族たちによって文明が発展しているのだ。


「セテム、西の王墓の状況は」


 ソファ状の椅子に身を寄り掛けた彼が、ナルメルからの情報がひと段落ついた際に言葉を挟み尋ねた。


「西の王墓群の方においては形まで完成して参りました」


「ならば良い、予定通り進めよ。数日後にはそちらに様子を見に向かう」


 神殿でも、像でもない『墓』を含むセテムと彼のやり取りがふと気に止まる。

 西の王墓群。それほど深く考えなくとも、二人が言っている場所がどこなのか簡単に推測できた。

 ルクソール、王家の谷。数千年後、古代エジプト王家の墓がまとまって発見される場所。この時代では王家の秘密の場所とされている集合墓地。そして私が最初に消えた遺跡だ。


「そこで何を?」


「墓を作っているのだ」


 質問をした私に、彼がけろりと言ってのける。


「お、お墓!?」


 まさか諦めたのではないかと。お腹の子も産まれるから自分などいつ死んでも良いと諦めてしまったのかと、思いがけない答えに目を丸くしていたら、彼が笑って見せた。


「何を青くなっている」


 私の髪を撫でる彼は変な反応だと言わんばかり表情だ。そんなことをされても私の波打ち始めた不安は治まらない。


「だってお墓だなんて……生きているのに何を」


「墓を生前に作り始めるのはごく普通のこと。以前見せた陽が昇り没する処など、その王が幼少の頃より作り始めたとされている。私など遅いくらいだ」


 陽が昇り、没する処──ピラミッドの古代名だ。

 記憶では、ピラミッドというあれだけ巨大なものを作るには30年から50年以上の歳月がかかるという説もあったから、埋葬される当人が生まれて間もなく作り始められたと言われても何の疑問もない。


「実はヒロコの墓もある」


 私から手を離し、意地悪な横目で放たれた言葉にぎょっとした。


「お前は一度死んでいるからな、墓自体は作り終わっている。相当狭いという難点がある故、作り直そうかとも考えているのだ」


 アンケセナーメンのお墓になるはずだった場所。彼女の墓は発見されていないと聞いていたのに、この時代には存在している。ますます分からない。私の持つ知識と所々が違ってきている。


「急な死だったため、中は随分質素だが、徐々に部屋を増やしていく予定ではある。今度共に見に行くか。死後の部屋となる場所だからな」


 頷きつつも何だかとても複雑な気分だった。自分の入る墓だなんて、考えたこともなかった。けれどこれは古代エジプトならではの思想で、言わずもがな日本の墓の観念と違っている。

 エジプト信仰における墓とは、魂が戻るまでの器、つまり空になった身体を安置する場所でもあり、魂が戻ったらその墓が家となり、そこで生活することになる。だから墓は第二の人生のための住居。埋葬品には下着を始め、ゲーム板、お酒、食料などの生活必需品もきっちりと含まれているのが一般的。囲む壁画は死者の魂が甦る手順を間違いないためのガイドブックであり、絵として描かれた人物たちは召使の代わりだとも言われている。色んな作法や習慣にはすっかり慣れたとは言え、やっぱりまだこういう死生観には追いつけていない。


「そう気難しい顔をするな。腹の子のためにも食べて精を付けよ」


 考えを巡らせながらも、力をつけなければと手渡されたパンを受け取って口に含んだ。いつもの如く、隣から素早く手が伸びて口と料理の間を行き来するのを見ながら私ももぐもぐと自分のペースで口を動かしていく。野菜も、果物もできるだけバランスを考えて選んで、取って口に入れる。もう私一人の身体ではないのだから感覚で食べることなんて出来ない。私から栄養を取って、すくすくと大きくなっていくこの子のためにも。


「王妃様、お水のおかわりはいかがですか?」


「ああ、ありがとう」


 満腹感を覚え始めた頃、隣に控えていた侍女が水の入った壺を取り、杯に注いでくれた。無色透明の、光が透き通るナイルの水は今日もとても綺麗に見える。口につけた器の水は、私の口から咽頭へと気持ちの良い冷たさを流していく。少量ずつ含んで、息をつき、時々言葉を交わし、お腹を撫でてから隣の人が満足に食べ終わるまで待つ。

 遠くからは神官たちが奏でているのだろう微かな歌が聞こえ、どこから入ってくるのか、風が柔らかく肌に当たった。

 それに導かれるように何気なく、杯を手に持ったまま部屋の入口の方に視線を遣ったら、兵と女官たちの姿が目に入った。侍女ではない彼女たちは料理を用意する役目の人たちで、二列になって膝を床に付き、控えている。

 ちらと見て過ぎるはずだった私の視界は、瞬時にある一点に引き戻された。十人ほどの女官の列、その中に二度見してしまう面影があった。視線を下に落として穏やかな表情をする周りとは正反対の面持をしたある一人の女官が、前に並ぶ女官たちの頭の間からこちらを覗くように顔を出し、戸惑いを孕んだ瞳を私たちに向けていた。何かがおかしいと言わんばかりの、不思議な面持ちだった。


「メアリー?」


 真っ直ぐ、一直線上に目がかち合う。まさかと信じられない思いだった。

 ずっと情報が無かった。彼も調べさせても分からないと言っていて、もうここにはいないのかも知れないと思い始めていた彼女が今、私の目の前に。


「メア……」


 咄嗟に声を掛けようとした時だった。急に、お腹に走った感覚に動きが止まる。


「──っ」


 立ち上がろうと力を入れた足は崩れて、私は座り込んだ。

 この感覚。痛み、だろうか。

 気のせいかと思い直せば、また。引きつるような疼く感覚。生理痛を思わせるような、それよりずっと強い感覚だった。広かった間隔はあっという間に短くなって、感じる痛みは現実のものなのだと私に突き付けた。


「王妃様?どうなさいました」


 どうして痛みがあるのか。生理痛なんてあるはずないのに、この身体を貫く感覚がどういう所以のものか分からなくて、考える間も無くお腹を押さえて身体を丸めてしまう。


「ヒロコ?」


 変だ。赤ちゃんのいる、私のお腹が。


「ヒロコ!どうした!」


 私の異変に気づいてか、彼が抱き込むように手を回してきた。引き寄せられて呼びかけられるのに、自分の身体に何が起こっているのか判断できず、彼にどう伝えたらいいのか、どうやって声を出したらいいのかさえ、困惑のせいで分からなくなった。顔から血の気が引いていくのだけが鮮明に感じる。


「ヒロコ!!」


「……痛、い」


 やっと、この身に感じる感覚の名を口にする。私の声に、覗き込んでいた淡褐色が見開いた。どうしたらいいのか分からなくて、下に落としていた視線を彼に向ける。いつもの冷静さが影を薄めたその人に助けを求めようと必死になった。


「……お腹、お腹が…」


 身体が震える。何かがおかしい。私の身体が、おかしい。


「痛い…!」


 悲鳴を思わせる声を最後に、それ以上言えなくなった。ただただお腹を抱えて、強度を増す貫きを抑えようと屈み込む。


「ヒロコ!」


「王妃様!」


 ネチェルや侍女の声が聞こえる。私はもう耐えるのに精いっぱいで声を返せない。


「侍医を!!侍医を呼べ!!」


 苦痛の他に感じるのは、肩に回された徐々に力を増す彼の手だけ。その強さと熱さだけ。

 お腹を抱いて耐えていたのに、突然身体が跳ねてしまうほどものが貫き、ついには悲鳴を上げた。自分でも頭が割れるくらいの、鋭い針のような声が漏れる。時間が経つにつれて増していく激痛に、頭が真っ白になる。呼吸が乱れ、嫌な汗が流れていく。聞きたくないひきつれた叫びが鳴る。

 抱き上げられたと同時に彼が私を呼ぶ声が耳に入ってくる。そしていくつもの乱れた足音が続く。

 自分の体勢も、状況も掴めない。鼓膜を叩くのが誰の声なのかも、ついには区別できなくなる。


「急いで寝台へ!!」


 背中に柔らかさが当たり、薄く開いた瞼の間から天井が見えた。沢山の人の頭が次いで現れる。

 けれどそれらはぼやけてしまって、滲み出た汗でさらに不鮮明に濁っていく。大丈夫かと言う問いにも、私への呼びかけにも、何にも答えることが出来ず、代わりに口からは悲鳴と呻きが合わさったような声が漏れるばかりだった。

 痛い。痛くて堪らない。


「一体どうなっている!?」


 ──ねえ、どうしたの。何が起こっているの。


「もしや、お生まれになるのでは…!」


 何かを恐れたような、叫びににた声が聞こえてきた。

 ──生まれる?


「そんな、まだ早い!」


 私のお腹の子のことを言っているのだろうか。生まれるだなんて、そんな。まだ5か月しか経っていないのに、生まれる訳がない。


「でもまさか…!」


「まだその時ではない!」


 早い。いくらなんでも早すぎる。


「お生まれになったら御子様はどうなるのです!」


 ──今ここで生まれてしまったら、その子は。私の、お腹の子は。

 この状況でも想像できる事態に、胸から刺さるような何かが飛びぬけて、心臓を貫くような痛みが走った。

 自分の声とは思えない叫びと、呻きと。私への呼び声と。ばたばたと寝台を振動させる多くの疎らな足音と。すべてがぐちゃぐちゃになって、頭が朦朧として世界が歪んだ。

 ──嫌だ。失いたくない。何が何でも、失いたくない。

 激痛に耐えかねた身体は意識に反してぐっと丸まってしまい、それでも誰かに押さえつけられる。

 何も動かない。息が苦しい。痛みが私の思考回路を侵して冷静な判断を遠ざけた。痛くて痛くて、悲鳴と一緒に最後には涙までが出てくる。のたうちまわるほどの疼きに、白だった思考はすべて黒へと持って行かれてしまう。


 ──駄目。まだ生まれては駄目。


 最後には、すべてが黒の中に飲み込まれ、もう何も、分からなくなった。 


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