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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
13章 罪と過ちと
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君がため

* * * * *


 もし──。

 これを実行したら、人は俺に何を見るだろう。


 項垂れ、曲げた背骨は、そのまま固まってしまったかのように動かない。どうにか動こうと力を入れた腕は、椅子と共に軋みを響かせる。自分の手を顔の前に出し、意味もなくそれに目を向けて、ぼやけた視界がもとに戻るのを待つ。自分の影が乗った掌は、何だかすごく黒く見えた。

 時間が経つに連れ、俺の肉体は徐々に目覚め、動き出す。魂を4分の1ほど失ったように、その動きは呆れるほどに鈍く、久々に伸ばした背中には痛みが走った。目に入るくらいに伸びた前髪を掻き上げた次に、唇から吐き出すのは生温い自分の吐息。そうして網膜に映し出されたのは、格子の向こうの数えられないほどの星々。本来ならこの目に映るはずのないものまでが、映って瞬く。

 月の位置を見るに午前3時あたりだろう。

 この時代の月はまるで夜道の街灯のようで、俺の知るものより神々しい。そうでありながら夜光虫でも引きつれているのではないかと思うくらい不気味でもある。そんな月下、東の宮殿でお前は眠っているのだろうか。腹を抱いて、隣にあの男と幸福を添えて、寝ているのだろうか。

 寝不足の視線を動かして見える隣の机には、運命とでも呼ぶべきか、俺の鞄にたまたま入っていた薬の残りと、計算した分量だけを磨り潰したものを閉じ込めたアラバスタ製の入れ物がある。

 これを飲料水か何かに混ぜて服用させればおそらく、思った通りのことが起こる。おそらくではない。間違いなく、とてつもない痛みを伴い、これは彼女の身体に作用を起こす。

 そう確信した途端、ぐらりと何かが揺らいだ。本当にやるのかと自分の声が頭痛と一緒に奥で鳴る。


──これをして、人は俺に何を見る。


 まただ。

 歯を食いしばって片手で額を抑えた。何度も何度も思い直して、自分がやろうとしていることを考えては否定と肯定の間を行き来し、どれだけ頭を抱えたか分からない。それでも足を踏みしめて立ち上がった俺はすべてを打消して持ち直す。これ以上悩んでいる暇はないのだと心に蓋をする。

 決めたのだ。

 アンケセナーメンという欠けた存在を、歴史が弘子で埋め直そうとしているのなら、俺はそれを防がなければならない。救うことが出来るのは俺しかいない。あの男から、あの男と一緒にいることで待ち受けるだろう未来から、彼女を救うことが出来るのは自分だけなのだ。

 まずは、この時代と弘子を繋ぎ止めるものを切り離す。理由がある。正当な、これを行う理由が。道理の下だ。


「ヨシキ」


 扉の開く音に続き、誰かが俺を呼んだ。


「調べてきたの」


 メアリーだった。振り返って確認しなくても分かった。


「明日の朝なら、調理場の女官として忍び込める」


 彼女はこちらからの言葉を待たずに、溶け入るような声を鳴らした。やや興奮しているようでもあった。


「調理場は沢山の女官が忙しなく動いているはずだから、私一人が入っても問題ないと思う」


 先日、調べるよう頼んだ情報だ。食事を作る場に忍び込めるか、毒見の性別と人数を調べてくるよう彼女に依頼した。


「毒見は男が10人。その人たちに何もなかったら王族に通される仕組みになってる」


 男ばかりならば余計都合がいい。成功の見込みは高くなる。男にとっては作用しても下痢程度、症状発現率に至っては10パーセント未満。もともとこの時代の毒に、男女別で作用するものなど存在しないのだから、毒見が男だけでも当然と言えば当然だった。女がいなくとも奇妙でも何でもない。


「ヨシキ、もしかして」


「メアリー」


 敢えて呼び、相手の言葉を切った。亜熱帯気候のエジプトの風は決して冷たいものではないのに、それが触れた俺の肌には鳥肌が立つ。腕を擦り続ける俺の視線は、床に落ちたまま離れない。


「まだ、弘子を憎いと思うか?」


 床から視線を外すことなく、彼女に尋ねた。掠れた声だった。聞こえたかどうか判断がつかず、もう一度言おうと唇を開きかけると。


「……ええ」


 迷うことなく、真っ直ぐと返ってくる返事があった。


「憎いわ」


 人間の悍ましい感情の名を聞いた俺は、黙する。ここに閉じ込められている俺には何も出来ないが、彼女なら女官としてこの宮殿中を怪しまれることなく歩くことが可能だ。

 それでも次の言葉をどう踏み出せばいいか、途端に分からなくなった。まるで、先程蓋をしたはずの揺らぎが俺の口を抑え込んでしまったかのように何も出ない。現代で言う犯罪を、他人から見れば非道なことを、自分を慕ってくれている彼女にやらせようとしている。蓋をしたはずのものからごぼごぼと、鍋が噴きこぼれるように俺の胸に溢れて、震え以外の身体の動きを止めてしまった。踏ん張るように力を込め、止まらない震えを抑え込もうとする。

 他人の憎しみを利用しようとする俺の顔は今、どんなものになっているだろう。思い浮かべたら自分が怖くなった。醜いに決まっていると嫌でも分かった。


「復讐?」


 何も言えないでいた俺の代わりに、彼女が代わりに口を開いた。

 復讐。俺の思っているのはそんなものではない。だが、彼女の低い声を合図にしたかのようにぴたりと痙攣が止む。


「……ヨシキ、あの子に」


 机にあったアラバスタに指を絡め、掌で握りしめ、視線を初めて彼女に投げた。真正面から向かい合った俺の眼差しから何かを感じ取ったのか、相手は目を大きくしてごくりと喉元を動かす。


「やっと、その気になってくれたのね」


 相手は瞳を揺らし、感極まったような表情を浮かべると、そのまま足で床を蹴りあげ、勢いよくこちらに抱きついてきた。背に巻き付く相手の手は愛情とか歓びではなく、憎しみを体現するほどに熱く、この肌を焼いた。


「そうよ、あの子は憎い子なの。あの子は裏切り者、憎まれて仕方のない子」


 俺の胸に押し付けられた彼女の口は、呪文でも唱え続けるかのように言葉を紡ぐ。髪を振り乱して、腕の中で弘子の親友だった女は身体を震わせる。俺が、仲間になったのだと。


「ねえ、何をするの?」


 メアリーは赤く染めた瞳をこちらに向けて俺に尋ねた。嗤っている訳でもなく、怒っている訳でもなく、目の前の彼女は例えにならない表情を浮かべている。


「あの子に何をしてやるの?」


 何を。

 最悪なことを。人の道に外れることを。彼女を守るという、名の下で。

 だがそれは言わない。俺は彼女に何も言わない。ただ、手に握ったままのアラバスタの入れ物を彼女の前に差し出すことだけをした。


「入れればいいのね……これを、王族の食事に」


 間誤付くことなく、彼女の手が伸びて薬を受け取る。彼女の脳内でこの薬がどういう未来を描くことになっているのか。あの二人を殺すものとでも考えているのだろうか。あの男と、弘子を。


「ヨシキの頼みだったら、私、何でもやるわ」


 何かに取りつかれたような笑みを浮かべ、彼女はそのアラバスタを両手で握り締めている。


「他の女にやらせるくらいなら、私がやる。私を頼ってくれて嬉しい」


 そう言って、彼女はまた俺に縋り付き、頬に手を伸ばしてそこにキスをする。好きだと、呟きながら。

 他の女とは、ネフェルティティのことだろう。俺を醜いと言い放ったあの日から、ネフェルティティは俺の前に姿を現さない。今のメアリーとは違い、俺のすることをすぐに悟っただろうし、最低だと非難してきただろうから、そもそも最初から頼むつもりなどなかった。


「ヨシキのために動くのは、私だけでありたい」


 身体を離してもう一度相手は俺を見る。その眼に映る自分の顔は、現代にいた時と同じ俺のように見えて少し驚いた。もっと醜くなっていると思っていた。

 いや、僅かに変わった。髭が生えている。剃ってないせいか短く生えてしまっていて、触ると指の腹に刺さって小さな痛みを生んだ。


「絶対、成功させるから」


 にこりと首を傾げて笑ってから、彼女は颯爽と俺に背を向け、扉の向こうへと去って行った。扉が閉まる音の後に、兵の槍の床に当たる音が微かに響いて消えた。


 ああ、行った。渡してしまった。


 何かが身体から抜け出たかのように、俺はその場に崩れ落ちる。床に当たった膝頭が痛んだ。折れた膝を床につけたまま、呆然と天井を仰ぐ。


 ──ああ。俺は。

 間違ったことを、しただろうか。馬鹿なことをしただろうか。

 ──いや。

 否定して、上に向けていた頭を床に向けた。髪がだらりとそちらに垂れる。

 ──為さなければならなかったことだ。なあ、そうだろう。

 前に両手を付き、身体を支え、向こうの扉に睨むような視線を投げる。


 間違ってはいない。

 許せざる罪。愚かな過ち。人は俺のすることをそう謳うだろうが。人にどれだけ俺が醜く映ろうが。これはすべて君がため。

 弘子。お前を連れて、未来の向こうへ行くためだ。



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