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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
13章 罪と過ちと
85/177

支え

* * * * *


「みこさま、早くお生まれにならないかなあ」


 外から流れてくる涼しめの風を感じながら、目を輝かせたイパイが私とお腹を交互に見て顔を近づけてくる。太陽の懇々とした陽射しと、どこからか漂い辿りつくハスの香りに包まれて、庭に開けた部屋の椅子に腰かけた私は笑って頷き返した。


「そうねえ。でもまだ先よ。ようやく大きくなってきたくらいだもの」


 重かったつわりや眠気も治まり、腹部がやんわりとした膨らみを持ち始めて目で見ても分かるくらいになっていた。


「生まれるのっていつ頃ですか?」


「次の氾濫の……ちょっと前くらいね」


 そうかあ、と首を傾げる少年の仕草に、7か国語をマスターしている天才児でもやっぱり子供なのだと微笑ましくなる。イパ以外にこの王宮には子供がいない。神官見習いもほとんどが年上で、一番若くても十代だ。もしかすれば早く子供の仲間が欲しいのかもしれない。生まれたなら、イパが良い遊び相手になってくれるだろう。


「王子様かな?姫様かな?」


「さあ……どっちかしら」


 性別は受精時に決まっているだろうし、もう分かるくらいになっていると思うのだけれど、この時代ではどうしたって生まれないと分からない。


「王妃様はどっちがいい?」


「無事に生まれてくれるならどちらでも」


 この時代で子供を産むこと自体が大変なことだろう。名を貰う前に亡くなってしまった彼の兄弟姉妹を考えれば尚更だ。医療器具も薬も、現代での常識はほとんどなく、出産時時すべては経験者の助言のみで進められる。私が確実に出来ることは、ただ無事に祈ることと、出産に向けて体調を整えていくことだけだ。


「ご安心なさいませ。ここまで順調に御座いますもの」


 イパの隣に控えていたネチェルが温かく微笑んでいる。出産経験がある彼女にそう言ってもらえると見え隠れする不安も影を潜めた。

 あと少しで5か月、安定期に入る。ふっくらとしたお腹を撫でるたび、この中に愛しい存在がいるのだと、無意識に語りかけている時もあるくらいに実感が持てるようになった。


「ただ単に太っただけじゃないのか?」


 イパイの後ろで私のお腹を見ているラムセスが疑わし気に眉間に皺を寄せ、緑の目で私のお腹を凝視していた。報告がてら下エジプトのメンネフェルからイパとラムセスがテーベに赴いていた。挨拶もかねてと、メジットに連れられて来たラムセスは会うや否やなんとも言えない表情をしている。


「もしそうだったら洒落にもならないな」


「だまらっしゃい!」


 私が言い返す前に見慣れた拳が飛んで、ガツンという鈍い音と一緒にラムセスの足元を揺らした。


「あんたはいっつも馬鹿みたいな冗談しか言わないわね!」


 飛び出た手の主であるメジットは、私とラムセスの間に割り込んでその目尻を吊り上げている。


「やっと顔見せたと思えば何なのかしら、この憎ったらしいことしか言わない口は!削ぎ落してやりたいくらいだわ!」


「メジット、お前……男にも勝るこの力は一体どこから出てくるんだ」


 ラムセスがご自慢の腹筋で転倒を防いでも、それも一瞬で透かさず飛んできたメジットの手によって頬をつねられた。


「い、いへえっ!」


「本当に失礼な男ね!!謝りなさい!」


 ラムセスの頬をこれでもかと引っ張ったまま、もう片方の手を腰に当ててはっきりした物言いで言い切る。この光景はメンネフェルの頃と変わっていない。


「王妃様のお身体には確かにファラオの御子様がいらっしゃいます!その影響でどれだけ王妃様が体調を崩され、辛い思いをされたことか……数日前までは何を食べても吐いてしまわれて……」


 大変でしたのよね、と八の字にされた眉と共に視線を向けられ、そうねと苦笑した。

 妊娠してからのつわりの重さは十人十色、私の場合少し重い方だったようだ。なかなかものが食べられず、体調が戻ったからその間に食べてやろうと躍起になっていたらまた吐いてしまう。しばらくそれの繰り返しで、寝台から出るのも億劫だった時期が続いた。その度に何度彼がおろおろしていたか。つわりが治まり始めた今頃になって、彼もようやく要領というものが掴めてきたようで最近は落ち着いている。


「言っておくが、今のは間違いだった時のことを考えての発言だからな。間違いだったら言い訳として使ってもいいぞ」


 メジットの手を払ったラムセスが、赤くなった右頬を撫でながらぼやいている。


「御子を授かったと期待して、実は王妃の食べ過ぎだったら笑えないだろう。せっかく待望の世継ぎだという話が出ていて、ファラオもあれほどにお喜びで。だから念のための言い訳だ」


 周りのほとんどの人たちが私の妊娠を今か今かと待っていたことを知らされたのは、懐妊後、ある程度経ってからだった。

 考えてみれば私は王妃で、後継ぎを生んで何ぼな存在なのだ。お偉い方の奥様に子供が生まれず、というのはしょっちゅう聞く有名な話なのに、自分がその立場にいるのにも関わらず、すっかり忘れてしまっていた。


「ラムセス殿は相変わらず面白いことをおっしゃりますねえ!」


 傍にいたカーメスはけらけらと笑い、くせ毛を揺らしている。目を糸のように細めて、侍女たちと一緒にハスを部屋に飾りながらおめでたいと連呼してくれていた。


「今更間違いだなんてありませんよ。間違いだった方が大変ですからね!民も今は御子様のご無事の誕生を願うばかり!あちらこちらの神殿にはそれを祈る民もおります。王家の花であるハスがナイルからなくなるのではないかと思うくらいの多さ!どこを見渡しても花花花!民の声に耳を澄ませればこちらが混ざりたくなるほどお世継ぎのお話ばかり!私も毎日祈っております、もちろん!もちろんですとも!!王子でも姫君でも私の命に代えてでもお守り申し上げますよ!ねっ、ラムセス殿!」


「え、ええ……カーメスさんも相変わらず髪がくるくるで…」


 さすがのラムセスもマシンガントークにはついて行けなかったのか、まったく別なことを口走っている。それでも構わず自分の話をぺらぺらと続けるカーメスには笑うしかない。

 男の子か、女の子か。ほとんどの国では男の子を望むことが多いようだけれど、この国はどうなのだろう。やっぱり皆、気を遣って口にしないだけで男の子の方がいいというのが本心なのだろうか。


「王子か姫君か。それはどちらでもお生まれになる意味は変わりませぬ」


 杖を突く音がしたと思えば、部屋にナルメルが入ってきた。その人の織り成す雰囲気は独特で、賑やかだった周りの声の余韻を残す。


「ファラオの御子であることは、性別に関わらず神の血を引く、重要な尊い存在となります。ご安心なされませ」


 宰相はゆっくりとこちらに歩み寄り、胸に片手を置いて、私の表情から気持ちを汲みとったかのように優しい表情を浮かべていた。そして私の薬指にある緑をそっと指差す。


「王子でいらっしゃったならその王位継承の証はその御子に渡り、次のファラオとなられる。姫君でいらっしゃったなら、同じく権利が譲られ、その姫君のお相手となられた殿方がファラオとなられるのです」


 エジプト王家では若干王位継承の仕方が変わっている。ファラオになるには王家であることが不可欠ではなく、王家の縁者であると言うことが重要視される。つまり私にとって大事なのは、王家の血族を出産するという事実なのだ。


「あなた様はただ、御身と、その御身に宿ったお命をお守りください」


 もしもの場合を考えて彼が私にくれた王位継承の証。私の指輪。お腹の子が生まれたならば、この指輪は私のものではなくなり、生まれた子のものとなる。男の子であろうと、女の子であろうと。

 お腹を撫でて、指の上のアンケセナーメンの名を見つめた。

 ここに宿るあなたは、彼と私の希望。私たちだけでなく、ここにいる皆があなたの誕生を心待ちにしている。無事にこの腕の中に来てくれさえすればいい。そして元気な声を、笑顔を見せてくれればそれでいい。それ以外は何も望まない。


「でも、みこさまってどうやって王妃様のお腹へやって来たの?」


 イパが身を乗り出して突如出した質問に、皆が虚を突かれたように、沢山の視線が一斉にイパに集められた。


「前はいなかったのにどうして今はいるの?どうやって中に入ったの?先生がおっしゃっていました、何もないところから出来るものはない、と」


 真剣な幼い子の面持ち迫る。

 これはもしや、小さな子供が弟か妹を妊娠したお母さんによく尋ねてくるという、王道質問「赤ちゃんはどこから来るの」攻撃ではないだろうか。


「そ、それは…」


 不意打ちだった。コウノトリが運んでくるのだと言ってもイパは誤魔化されるような子ではない。


「それは?」


「か、神様が…」


「子供の無事の誕生や成長を守る神はいるけれど、子供を作る神はいないでしょう?」


 咄嗟に閃いた「神様で解決作戦」は無残にも破綻した。私よりも神話に精通しているこの頭の良い子には通じない。


「どうして?何かするの?何をするの?」


 もう、何も思いつかない。


「……わ、」


「わ?」


「……忘れちゃった」


 恥ずかしくなって消えそうな声でそう答えると、「その減らず口の出番よ」とメジットがラムセスの背中を押して前までやってきたが、「いや、これは俺の専門外だ」とそそくさと踵を返してしまった。そしてまたイパイの視線は私に向けられ、答えづらい攻撃は続けられる。

 臍から入るとか、口から入るとか、そんな適当なことを言えば、イパのことだ、矛盾点を発見して指摘されてしまうだろう。どうしようと、しどろもどろしていると。


「それはファラオと王妃様が仲睦まじいためですよ」


 ありがたいことにカーメスが助け舟を出してくれた。なるほど、仲良くしないと確かに出来ない。最もなご意見だ。カーメスはおいでとイパイに手招きし、少年の背の高さに腰を屈めた。


「イパ、あなたも知っている通り、ファラオと王妃様はとても仲がいいでしょう?」


「はい、とても」


「だから王妃様に御子様が宿られたのです。これは素晴らしい事なのですよ」


 けれど、肝心のイパイはますます首を斜めに傾ける。


「仲がいいとできるの?僕もカーメスと仲良くしていれば赤ちゃんできる?そうじゃないでしょう?」


「それは……できませんねえ。我々は男同士ですし」


「なら、女の子と仲良くしてればできるの?」


「いや、そういうわけでも」


「でしょう?それじゃあ、みんな赤ちゃんできちゃうもんね」


 そこで静かに見守っていたナルメルが大きな笑い声をあげた。すべての意識を持って行ってしまうほどの高らかさだった。それが引き金だったかのように周りも肩を小刻みに揺らし始めた。きょろきょろするイパに悪いと思いつつも私までが笑いが抑えきれなくなる。


「何で笑うの?……なんで!!笑うの!!」


 けらけらと声を上げるカーメス。それを呆れ気味に横目で見つつも必死に笑いをこらえているラムセス。そんなカーメスを面白そうに見てにこにこして目を細めながら私の装飾品の手入れをしてくれているメジット。ご機嫌を崩して、口を尖らせてしまったイパイ。そんなイパイに「大人になれば分かりますよ」と説明して機嫌をもとに戻そうとしてくれているネチェル。白い髭を撫でながら、愉快いそうな表情を湛えているナルメル。摘んできてくれた花を部屋に飾りながら、私たちの様子に微笑みを向けてくれる侍女たち。皆の表情を見ているだけで頬が緩んでしまう。皆で笑い合えているこの瞬間が幸せだと感じられた。


「──よく笑ってられるなあ。浮かれてる暇なんてないのに」


 いきなり飛び込んできた声に、誰もがその方向を振り返った。多くの視線が集中する中、扉の入口の壁に寄り掛かるように猫目の年若い隊長が立っていた。

 あまりこちらに顔を見せない、読めぬ男だと、彼に云わしめたカーメスの部下ナクトミンだ。


「御子の誕生を望まない人だっている。当然の話だけどね」


「我が部下、ナクトミン!」


 カーメスが叫び、駆け寄る前にナクトミンは穏やかな表情のまま続けた。


「ラムセスさんもカーメスさんも、それに宰相様もどうして言ってあげないんです」


 ゆっくりと壁から背を離し、その瞳がすっと、私を捉える。


「この国に存在する全員が、御子様のご誕生を望んでるわけじゃないって。殺そうと目論む奴もいるって。呆けてる暇なんてあるのかな」


 誰もがぴたりと固まった。空気までが凝固してしまったかのように重くなる。

 お腹の子を、殺す。考えたこともない恐ろしい言葉に一瞬、何を言われているのかよく分からなくなった。

 でも確かにいるのだ。私を殺そうとまでしていたあの神官が。彼の後継ぎを望んでいない人が。あの人は命というものを何とも思っていない。そんな恐ろしいことまで考えているのだとしてもなんら不自然ではなかった。

 急に見えない脅威を感じて、覆うようにお腹を抱いた。


「それに、これは国内だけの話じゃない。いい顔をしてる各国の奴らもこちらに間者を送って世継ぎを殺そうと考えてるかもしれない。そうでしょう?」


 猫のような目の中の瞳をくるりと動かし、辺りの様子を見回しながらナクトミンが一歩だけ前へ出る。


「いつ刃物で王妃に切りかかるか、いつ御子と王妃を殺すための毒が盛られるか……誘拐だって考えられる。身籠った王妃ほどの格好な人質はないんだから」


 ぞっとした。

 周りの和やさと包まれる幸福感で、そういった危険性を一度も考えたことがなかった。侵略したいと思う国に後継ぎが生まれるということが、敵国にとってどれだけ望まぬことだろう。

 エジプトを手懐けたいと思う国はヒッタイトを始め、数知れず。この国を手籠めにする確実な方法は、後継ぎを宿す王妃を人質として取るということだ。私とお腹の子は、敵国にとっての有益な道具に成り得る。人質になって無事でいられるはずがない。それを懸念して彼も臣下たちも私を外に出そうとはしない。ほんの少しでも私が外に出ることがあればセテムやカーメスが必ず傍に付くのだ。

 思考を巡らせれば巡らせるほど血の気が引いた。


「王妃様の目前で何ということを!」


 メジットが血相を変えるように言った。


「ナクトミン、そういうことはこの場で言うものではありませんよ。撤回しなさい」


 いつになくカーメスの表情は硬めだった。


「どうして撤回なんて必要なんです。そのことを隠して、王妃様自身に警戒がなくなったらダメじゃないかって言ってるんですよ、僕は。王妃様は知るべきだ。自分がどれだけ危険な立場にいるか。楽しみねだなんて、笑ってるようなお気楽さでいるべきじゃない」


 猫目の青年は、ぴくりと眉を僅かに動かして反論を続ける。それに対して、次に声を発したのはラムセスだった。深い皺を眉間に刻み、渋い顔でナクトミンに緑の眼光を向けている。


「俺たちの前でみすみすあのお方の御子を危険な目に晒すとでも思っているのか。馬鹿め、何のために俺たちが来たと思っている。王妃がびくびくと不恰好な顔をそこらにばら撒くのを防ぐためだろう」


 それでもナクトミンは表情を崩さない。くすっと声を立て、すぐ隣の柱に指を伝わせながら丸い目をラムセスへと移す。


「まるで僕が敵みたいな言い方だなあ。ラムセスさんはいつも僕に対してそうだけどね」


 そしてラムセスから視線を泳がせ、次に私を捉える。表情とは違う、刃のような鋭さの眼差しだった。


「僕はあくまで可能性を口にしたまで。ただの警告だよ。あまりにも周りがへらへらしてるからさ。僕だって御子様のご無事のご誕生を心から願う内の一人だってことを忘れずに」


 ナルメルが杖をタンとついて前に踏み出したその時。


「随分と率直な意見を言ってくれるものだな」


 突然、今までの胸騒ぎをすべて掬ってくれるような声が部屋に鳴った。視線を向ければ扉付近に立った腕を組んだ彼がいた。後ろにはセテムがいつものように控えている。


「ファラオ!」


 部屋にいた誰もがぱっと姿勢を正し、跪いて頭を下げた。


「身籠っている妃を不安にさせるようなことはあまり言って欲しくないものだが」


 ナクトミンの方へと歩みながら彼は笑みを口元に乗せて静かに告げる。ナクトミンは「申し訳ありません」と素直に謝り、深々と身体を折り曲げた。


「ラムセスもイパもよく来てくれた。長い道のり、疲れただろう」


「あなた様のご命令であれば、いつどこへでも駆けつけます」


 私には滅多に頭を下げないラムセスはイパイと共に顔を紅潮させて言葉を返す。

 余裕のある深い声と、その姿に強張った肩から力が抜けた。何一つ自分の置かれた状況が変わったわけでも、安全が完璧に保証されたわけではなくとも、彼を見た途端不思議と安心してしまう。

 彼は皆の間を通り抜けて私の傍に立つと、私の肩に手を回した。包む香油の香りに胸を撫で下ろして、回された手のぬくもりを感じた。


「ナクトミンが危惧することは最もだが、今の所その心配はない。周りがそれほど敏感では出産まで持たぬぞ」


 ですが、と言い欠けたメジットに、彼は機と見るや再び口を切った。


「食事は毎回十人以上を経て、妃の口に届いている。今までに毒が無かったという訳ではないが対処はすべて済み、処分も終わっている」


 初めて知った事実に驚いて、彼の横顔を見上げた。毒が見つかったことがあったなんて、ちっとも知らなかった。


「警備も万全だ。そうだろう?セテム」


 名指しで呼ばれた側近は丁寧に頷いた。


「ラムセス殿、イパ、その他大勢の兵たちを下エジプトからも呼び寄せ、東の宮殿の外側、宮殿内、部屋のすぐ外、すべてに十名以上を配置しております。皆将軍と隊長が選び抜いた手練ればかり。不審な者を通すはずがありませぬ」


 聞いて、周りの様子を見て、皆が私を気遣って危険性を言わないようにしてくれていたのだろうということを知る。


「案ずるな。私が手出しなどさせはせぬ。皆ももう少し肩の力を抜いたらいいのだ、それでは最後までもつまい」


 それを耳にしてか、皆が安心したように一息をついた。彼の自身溢れる声音がそうさせているのだろう。


「あとはもう下がって良い」


 再び、そこにいた皆が頭を下げ、部屋から出て行った。二人になったその空間で、彼が私に心配そうな視線を向けてくる。


「このような所にいては身体を冷やす。奥へ行こう」


 一番敏感になっているのはこの人だ。当初より落ち着いたとは言え、誰よりも私の身を案じて、とりあえず最も安全な奥の寝室へ連れて行こうとするのはいつものことだ。

 私の身を案じてのことだと分かっていたから、そのまま導かれるまま寝室の方へ向かった。


「ナクトミンの話で不安になったか?」


 寝台に私を座らせると彼が尋ねてきた。


「大丈夫よ、あなたや皆がいるもの」


 確かにナクトミンの発言に煽られる負の感情はあるけれど、それを知ることで、お腹の子を守れるのは最終的に私なのだと再認識することが出来た。守ることが出来るのは、母親である私だけなのだ。

 彼は隣の腰かけ、柔らかく口端を上げた唇を「そうか」と動かして私の頬に落とした。髪を梳いて、肌に触れるその指のぬくもりが堪らなく好きで、そのまま褐色の胸に額をつけた。


「これを」


 何かを思い出したように、彼は私から身体を離し、どこからともなく布に包まれた何かを差し出した。布をめくれば、ナイルを思わせる青さの人形が姿を現す。揃えた両手に乗るサイズの動物を象った石の像だ。


「ヒロコにと思って作らせた」


 見た目よりもずっしりとした、とても綺麗なものだった。鮮やかな青の上に炭か鉱物で書かれた黒い文様が舞っている。


「カバ?」


 この形と私の知っている動物で当てはまるのはこれくらいしかなかった。首を傾げる私に相手はそうだと頷く。


「タウレト神、妊婦を守る者」


 妊婦の神。カバは母性が強い動物だからだろうか。それを手の中で転がしながらしげしげと見つめた。なんとも愛着の湧く顔をしている。


「ヒロコと我らの子を守ってくれるはずだ」


 そういう意味で貰ったのは初めてではないけれど、私たちのことを考えてくれている彼の気持ちに毎回胸が熱くなる。


「ありがとう」


「まだある」


 私がカバを胸に抱くと、その人はまた何かを取り出した。次に渡されたのは木製の、同じようなカバの人形だった。質素で形も不安定、それでも目はくるりと可愛らしく描かれている。


「小さな子供からだ。街を通った時に王妃様にあげて欲しいと頼まれた」


 民の子からだと知って、感嘆が漏れた。


「本来なら受け取らぬのだが、あまりにも必死に渡そうとするものだから思わず受け取ってしまった」


 懸命に作ってくれたのだろうと、彼は優しく笑みを零す。でこぼこして、作る際にできた所々にある小さな棘にも、胸がいっぱいになって、それを撫でる手が止まらなかった。顔さえ知らない人が無事の出産を願ってくれていると言う事実に、身体の芯がじんとする。


「嬉しい…」


 大丈夫だ、産める。私はこんなに多くの人に支えらえている。恩返しのためにも、立派に出産を果たしたい。これほどまでに誕生を望まれているあなたの顔が見たい。

 二匹の神を抱いた私に、彼は手を伸ばす。その手はいつものようにそっとお腹を撫で、私もその上に自分の手を重ねた。


「……ヨシキたちのことだが」


 少しの間があってから、胸の蟠りの中にあるその名を彼が口にした。


「やはり、見つからぬ」


 懐妊が分かってからずっと話し合おうとしていたものの、良樹とメアリーの行方は掴めないでいた。まるで雲隠れしたように行方が分からなくなったと言う。


「医学施設にも心当たりのある場所は一通り見て回らせたのだがどこにもいない……二人で出て行ったのやもしれぬ」


 私を見放した良樹とメアリー、二人で出て行った。その可能性もある。でも、良樹のあの時の顔は未だに胸に焼きついたままで、私は出て行ったという可能性を完全に信じ込めないでいた。

 良樹は、あんな中途半端な状態で引き下がるような性格ではない。噛み付いてでもやり切ろうとする信念の強さと、誰もが認める諦めの悪さを持っている。穏やかな表情の裏にそれがあったからこそ、学界で名を上げたのだ。


「一応、捜索は続けさせる」


 そう言って私の肩を抱く彼の顔は、何かを案じるかのように曇っていた。



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