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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
10章 王の名
58/177

夕闇

* * * * *



 ──違う。なんだ、あれ。


 どこだ。何が起こった。


 知らない。分からない。




 そんな問いかけをしながら、俺はナイルと思われる大河の浅瀬に沿い、歩いていた。

 靴などは水分を吸ってぐっしょりと濡れ、随分前に脱ぎ捨ててしまった。ズボンの裾からは驚くほど透明な雫がぼたぼたと垂れて、俺の足を徐々に侵食し、生地の色を変えている。脹脛ふくらはぎが冷たい。血流に乗った俺の体温を徐々に奪っていく。


「弘子……」


 この腕の中にいたはずの彼女の名をひたすらに呼び続けていた。だが、いくら呼んでも返事はない。これを何度繰り返してきただろう。

 不可解な黄金の中に放り込まれた時、手を離して、互いに違うところへ飛ばされたメアリーはどこへ。


 ナイルの畔で目を覚まして驚いたのは数日前のことだ。

 先程いた場所とはとてもではないが違うことに驚き、恐怖を覚えた。見える範囲に美しい遺跡があったが、それは作られたばかりのように欠けたところが皆無の真新しさを誇っていた。アマルナにあんなものは無かった。そもそもそこを守っているらしき人間の恰好が見慣れぬものだった。

 周りを見渡せば、初めて見る透明に澄んだ光景だった。空もナイルも何かもが遠いどこかの世界のように美しく、壮大だった。自分のいる場所がどこであるか分からなかった。エジプトであるということは辛うじて判断できたが、アマルナではなかった。

 ズボンのポケットに入れていた携帯は圏外だった。とりあえずどこかで電話を借りようと歩き出すと、土を固めて作ったような家が見え始めた。とても電話があるようには見えない集落だ。ここでも人々の服装やら持ち物が知っているものとは違った。別世界に来たのだろうかと非現実的ことまで考えてしまうくらいに知らないものが周りに溢れている。

 どこだと叫び、狂いそうになりながらナイルの畔を駆け続けてきたのだ。誰に声を掛けることもなく、パピルスの緑に包まれた青いナイルを走っていた。

 電線に遮られない、どこまでも続く空が頭上を貫き、夢を見ているのだろうと、とにかく知っているところにたどり着こうと、エジプトを縦断しているナイルの中を足を濡らして進み続けてきたが、今では進んでいるのか、いないのかさえ、数日間歩き続けている俺の頭では判断が付かなかった。

 ただ、彼女のためと用意して、ずっと肩に掛けていたドクターバックの感覚だけが鮮明だった。薬も銃もある。これだけが俺の恐怖に煽られる精神を保っていた。


 ああ、と絶え絶えの息を吐いたら、自分のものとは思えない、低く嗄れた声が、ひび割れた唇から洩れた。

 ふと、周りが暗くなりつつあるのに気付いた。気付けば夕暮れになっていた。夜に限りなく近い夕暮れはとても得体のしれないものに感じた。

 時間の感覚がなかった。ナイルは漆黒と群青の狭間の色に溶け込み、それでも流れていく。

 頭を上げたら、大きな沈みかけの赤い太陽があった。闇に浮かぶそれは燃えて、俺を鮮やかな紅に染め上げる。

 バッグのベルトから離した手は、太陽に照らされて血に塗りたくられたように真っ赤で、気味が悪かった。不気味な色だと、血糊のようだと思うのに、何故だか目が逸らせなかった。訳もなく、それを目に焼き付けるがごとく、見つめ続けるしか出来なくなった。

 初めて見るような太陽──闇に忽然と浮かぶ陽。


 もう頭は回らない。一体何日こうやって過ごしてきたのか。ただ、この夕陽をこうしてじっくりと見るのは初めてだった。

 弘子はどこだ。彼女の親友は。あの黄金のナイルは、二人を連れてどこへ行った。俺は今、どこにいる。どこに向かって、歩いている。

 縋る思いで夕陽を見た。

 眩しさに自然と視界は細められる。緋色が瞼の隙間から網膜に届いて、視界を曇らせ、霞ませ、途端に全身の力が抜けた。

 思考はぷつりと切れ、吐き気がして足がもつれると、そのまま身体は重力に従って倒れた。俺の知らないエジプトの、ナイルの水の上はとても冷たかった。

 耐え切れず瞼を閉じると、水音に世界は満ちた。鼻やら口に水が入って来る。とりあえず、気持ちが悪かった。

 起き上がれなかった。力が無かった。冷たい水が肌を掠め、鼻を過ぎ、体温を奪う。


 ──ああ、死ぬのか。


 絶望を感じて、重みに従い目を閉じた。









「ヨ!」


 1匹目。


「シ!」


 2匹目。


「キイイイ!!!」


 3匹目。

 どすどすどすと背中に爆弾が落ちてきて、俺は無様に3度の唸り声を上げた。


「起きろー!朝だあああっ」


「ヨシキー!」


「きゃああああっ」


 明るい三兄弟の声に、夢から覚めたのだと知る。うつ伏せの上半身を少しだけ浮かせて、髪を掻き上げた。


 少し肌に刺さる藁の上、周りは泥煉瓦の壁に囲まれている。決して綺麗とは言えない壁の色が俺の視界に現れた。横には魔除けだと言うセクメト神の女獅子の小さな人形が俺と一緒に横たわっている。


 夢、だった。そうと気づいて安堵に大きく息をつく。この時代に落ちた、最初の頃の記憶を、俺はまた見ていたのだ。

 絶望と恐怖と、血に塗られたような壮大な太陽。どこへとも知れず数日間歩き続けたあの頃。

 古代エジプト──そこが俺の落ちた場所だった。


「起きろよー」


「ろよー」


「よー」


 背中の上の三人は俺を馬だと思っているのかペシペシと叩いてきた。眠さに負け、汗の匂いのする生地に顔を埋めたら、6本の手がぺしぺしからバシバシと強まる。

 案外痛い。無視できないほどの痛みになってくる。


「起きるからやめて……痛え…」


「やだー」


 まったく、このやんちゃ盛りの男兄弟は言うことを聞かない。


「ほら、降りろって」


 後ろに腕を伸ばして払うと、きゃはははと元気な声と共に重みがころっといなくなる。


「ヨシキが悪いんだぞ。今日は神殿の建設に行くのに、いつまで寝てんだよ」


 身体を起こして頭をかけば、三人兄弟の長男12歳のムトが笑っている。短い黒髪に褐色の健康的な肌は、まさしくエジプト人だ。


「母さんが朝飯出来たってさ。早く食べないと仕事に遅れちまうだろ」


「ああ、今起きて行くよ」


 息をついて立ち上がったら、足元に置いていた俺のドクターバックにあの5歳と3歳の残りの兄弟が群がって遊んでいた。


「兄ちゃん!見て見て!これ何かな!」


「ああ……もう、おい!」


 慌てて次男が持っていた銃を取り上げた。


「これは駄目なの、危ないの。何度言ったら分かるんだ、お前らは」


 注意すれば二人の頬はぶうっと膨れる。


「はい、膨れても無駄」


 小さな頬を手で掴むように潰すとぶううと空気を漏らして潰れて行った。

 珍しいと言って俺の鞄を漁る癖はどれだけ注意しても直してくれない。幼い子供であることを考えれば多少の悪戯も仕方がないのだが、銃をいじって何か起きてしまったら、悪戯でしたでは済まないのだ。もっと別なところに置ければとも思うが、残念ながら狭い庶民の家にはそういう格別のものを置ける場所がない。そもそもそんな我儘を言える立場に俺はいなかった。


「ほら、朝飯食いに行くぞ。漁るな、こら」


 未だに鞄を漁っていた幼い二人を両脇に抱え、ムトと一緒に扉のないくり抜きの出口に向かった。


「あら、やっと起きたあ」


 この三兄弟の母親がにっこりと迎えてくれる。丸い顔に母性愛がにじみ出て、いかにも『母』という雰囲気だ。

 そもそもナイルに倒れていた俺を、この家で引き取ろうと言い出してくれたのもこの人で、今は俺に息子の同然に接してくれている。


「おはようございます」


 脇に抱えていた二人を解き放つと、二人は俺より先に自分の席に座り込む。椅子などはなく、地面に座っての食事だ。


「はい、たんとお食べ」


 ナンのような出来立てのパンを俺たちに配り、真ん中にある大きめの木製皿には野菜と果物が乗っていた。


「……ヨシキ」


 ひょこっと、母親の後ろから顔を出して俺を呼んだのは、髪を背中まで伸ばした少女だ。動くたび、その長い茶色が混じる黒髪が揺れる。ここの第2子で唯一大人しい9歳の女の子。

 引っ込み思案なのかあまり話しかけてくれなかったのに、4か月経った今では恥ずかしそうではあるものの、笑顔を見せてくれるようになった。


「おはよう、ユラ」


「お、おは、よう」


 顔を真っ赤にして母親の影に隠れてしまうからこちらも苦笑してしまう。


「おお、ヨシキ起きたのか」


「おはようございます」


 俺の向かいにどっぷりと座ったのはこの家の大黒柱、4兄弟の父、俺をナイルから拾ってきた張本人だ。

 荒っぽく剃った髭は、顔の下半分にちょびちょびと残っている。腰巻の上に乗るビール腹は一番の特徴とも言えるだろう。


「足の具合はどうです?」


「ヨシキのおかげでもう痛まんよ」


 父親はパンパンと右足を叩いて笑ってくれる。

 当初肌の色が違うことや、変な服を着ているということでこの家に留めることを反対していた人だったが、仕事の際の事故で骨折し、俺が治療をしてからというもの、俺は信頼を得てここに置いてもらえるようになった。

 遠方からの漂流外国人ということで今は通っている。外国人という存在は少なくないらしく、金髪の白人や、欧米人のような顔立ちの者も多い。古代におけるエジプトは、ヨーロッパ文明にまで影響を与える貿易大国のようだった。


「おじさんは今日王宮ですか」


「ああ、久々に行ってくるよ。ファラオがメンネフェルからいらっしゃるからね」


 メンネフェル。名前からしてメンフィスかとは思うが、確証はない。会話に出てくる地名がほとんどと言っていいほど把握できていなかった。


「……ファラオが、来るんですか」


 ファラオは古代の王の敬称だ。現代で使われていない名前に、未だ違和感が拭えない。


「このテーベがまた都になるのよ。その下見ですってね。めでたいことだわ」


 母親が頬を緩ませ、自分の席に腰を下ろした。

 俺がいるテーベ。ここが、未来のルクソールだということが分かったのもつい最近のことだ。神殿を作ると言って東岸の端までに大勢で渡ったら王家の谷にそっくりな風景が見えたのがきっかけだった。


「やっとこれで本当の意味でのアメン神の復活だ」


「ええ、生きているうちにアメンに戻れるなんて思ってもみなかったわ」


 夫婦はほっと胸を撫で下ろし、嬉しそうに話している。

 おそらく宗教改革だ。それが今起きようとしている。

 信仰対象がアメンでは無く、都がテーベではなかったという二つの条件を満たすのはは第18王朝の一時期だけ。それを考慮にいれると俺のいるこの時代は、ツタンカーメンの治世の前後に当たる。ならば、統治者はアクエンアテンか。それともツタンカーメンか。どちらでもない、その後世の王か。弘子の父親くらいの知識があったならばすぐに分かったことだろうにと考えるたびに後悔する。

 ツタンカーメンが短い生涯だったことを考えれば、もしかしたらその次の継承者に王位が渡っている頃かもしれない。少年王の次の統治者についても、弘子の行方不明の間に読んだはずだというのに、不思議なことに思い出せなかった。


「ヨシキ!ぼうっとしてんなよ!もう時間!」


 噛んでいたパンを食べきった時、ムトが俺の背中を強めに叩いてきた。その拍子に咽りそうになる。


「い、今行くから…」


 出された水を飲みほして、ドクターバックを肩にかけ、立ち上がる。上半身が裸で、腰巻にその下に薄い下着。外出は裸足だ。このスタイルにもようやく慣れてきた。この服装でなければ外での仕事はやっていられない。


「ホント、ヨシキって鈍間!貴族じゃあるまいし、何でそんな優雅に食べてんのさ!元の国で貴族だったわけ?そんなんじゃ世の中生きていけないよ!」


「ごめんごめん、ほら行こう」


 俺の遅さにご立腹のムトの背を押し、葦で作られた扉を持ち上げて外に出る。


「いってらっしゃい!気を付けてね!」


「行ってきます」


 中に残った俺の恩人たちに手を振って、ムトと並んで日干し煉瓦の家々の間の道を歩き始めた。






 ムトは3日に1度、王宮の書記官を目指すため、文字を学びに国が開いている学校へ通い、それ以外は建設などを手伝いに駆り出されている。やっとタイムスリップという非現実現象を受け入れ始めた俺は、ムトと一緒にその建設の手伝いについていくようになった。

 そこで初めて知ったことは、「エジプトには奴隷がいない」という事実だった。勿論、捕虜や囚人はいる。敵国からの密偵だとか、殺人を犯した罪人だとか、そういう彼らは王宮の牢に繋がれて働かされているようだ。

 だが、人間としての権利や自由が奪われるということはない。無理に労働に使わされることもない。ほとんどの平民が平等なのだ。これは、明確に記されてはいないものの、エジプトが『人権』の思想を持った国家であることを意味していた。

 これを知った後に、奴隷なしでどうやってあれほどに大きな神殿やら王宮やらを次々と作っているのかという疑問が浮かんできたのだが、それもすぐに解決した。


「おお、ムト!今日も来たのか!偉いぞ!」


「俺が休むとでも思ったら大間違いだよ」


 建設途中の神殿に着くと、二人の役人が粘土板を手に俺たちを笑顔で迎えてくれる。


「今日はファラオがいらっしゃる日だからな、葡萄酒とパンだぞ!量も二倍だ」


 国家事業である建設の手伝いに出る代わりに、王宮から食料や小麦が配給される仕組みになっている。日給制で、現代で言うアルバイトに当たるだろう。食料がもらえるから、固定の仕事を持たないほとんどの人々がここにやってきて王族や国家のために働く。農業などをしながらこちらの仕事も受けるというのが大部分らしい。上手い仕組みだ。


「やった!!父さん喜ぶだろうな」


 葡萄酒は高価で王侯貴族しか飲めない高級飲料であるがために、配当されるのは相当珍しい。アルコールと言えば、普段はどろっどろのビールが主だった。とてもおいしいとは言えないが庶民の味なのだとムトの父はおいしそうに飲むのだ。


「ムトの隣家の親父はサソリに喰われて休みだぞ」


「え、本当?」


「さっき連絡があったんだ」


「ドジだからなあ、あのおじさん」


 連絡を入れれば休むことも可能だ。それもサソリでなくとも、他の簡単な理由で休むこともできる。例えば娘が熱を出したとか、二日酔いだとか、子供の晴れ姿を見に行く打とか、本当に些細な理由でも休みが許される。


「ムトと、ヨシキな……はい、今日も頑張ってくれよ」


 顔見知りの役人は粘土板に俺たちの名を刻み込んだ。これで配給する食料の数量を夕暮れまでに計算するらしい。


「ヨシキはそろそろ慣れたか?肌も随分焼けたなあ、俺らと変わらないんじゃないか?」


「お陰様で真っ黒です」


 役人の問いに苦笑して返す。黄色人種なんてどこかへ行ってしまったように褐色だ。以前は結構目立ってはいたが、今はもう溶け込んでしまっている。


「前はちょっと動いただけで倒れていたのに、今は平気だもんな。……まあ、また怪我人が出たら頼むよ」


「分かりました」


 そして何故かここでも医師という仕事は俺に付きまとっていた。


 年齢差のある俺とムトは別の部署で働く。

 ムトの年齢の子供たちは主に壁画やレリーフの補助。大人と判断された16歳以上の男たちは巨大な石を運んだり、像を引いたりの力作業。女はその男たちに水を与える水運びだ。

 延々と言われるまま円柱に縛り付けられたロープを同い年くらいの男たちと引いて運び、水を飲んではまた運んで、怪我人が出たと聞けば走って治療をし、弘子たちの行方を近くにいる男たちに尋ねながら一日はすぐに終わる。それでも「知っている」という答えは今まで一つも返ってきたことがなかった。



 夕方になると、そこは燃え上がるような赤に染まり上がる。言葉に言い表せない鮮やかな赤は、夢に見たものより毒々しくなく、眺めていて清々しくなるほどに美しいものだった。その色に影を落としながら、俺はムトと今日の報酬を両手に抱えて帰路についていた。


「大量大量!ヨシキの分も貰えるとうちとしても助かるのよ、本当にありがとう」


 給料分を持って家に入れば、母親が嬉しそうに娘と共にパンやら小さなワイン樽を眺めて、今夜は何を作ろうかと声を弾ませる。


「置いてもらってるのはこっちなんで、どうぞ好きなように使ってください」


 葡萄酒を貰えたということは王がこのテーベに来たのだろうが、この目で見ていない分、半信半疑だ。この庶民の中で暮らしていたら王族に会うことは奇跡が起こらない限りないのだろう。

 その他に一言二言交わし、疲れ果てて床で爆睡しているムトを飛び越え、外に出た。

 風が吹く。俺の髪を撫で上げ、後ろへと姿を消していく。裸足で感じるのは、現代で俺の靴の上に絵を生み出していたのと同じ砂。そして、目の前に広がる赤い偉大なる陽。

 辺りは暗くなり始めているのに紅を放つそれは美しいものなのだと分かっていながら、夢を見てからというもの、不気味なものにしか見えないでいた。

 目を細める。閉じかけの瞼の隙間から、それが網膜を焼く。やはり現代ではないのだと、突き付ける。


 ここは古代。古代エジプトに俺は、立っているのだ。


 夕陽を見るたび、一刻も早く、この時代を出て帰らなければという気持ちが急いた。弘子は行方不明の間、ずっと古代にいたのだろうか。


『──呼んでいるの』


 そう叫んで泣いて、俺の腕を振り払おうとした彼女を思い出す。


『──あの人が、呼んでいるの』


 誰が、呼んでいたと言うのか。もしかしてこの時代の人間だろうか。

 いや、そんなことはあり得ない。どうして古代の人間が未来に生まれる人間を呼ぶ。どうして呼べる。

 とにかく、俺たちがいていい世界ではないということだけは確かだった。

 焦らず、少しでいい、前へ進むのだ。焦っては狂気に陥るだけだ。ここで生きる居場所を確保して。同じ時代に弘子やメアリーが落ちたのなら、耳を立て、目を光らせていれば何かしら情報が入ってくるはずだ。それでも早く、早くと、術など一つも思い浮かばないのに、心ばかりが先走って仕方がない。

 同じ時代の風をその身に浴びているのか。同じこの赤い陽で顔を染めているのだろうか。

 茶色の大地の上、その闇を覆う陽に届くはずもない問いを投げかける。

 弘子と、その名を呼んで。赤い夕闇を睨むように見据えながら。



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