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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
9章 時を越えた者
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しばしの別れ

 メアリーと引き離されて2度目の早朝に、騎馬兵と共に上エジプトからセテムが彼を迎えにやってきた。


「今回は兵も皆馬を従えております故、予定より早めに着くと思われます」


 そうかと頷く彼の身支度を整えながら懐かしい側近の声を聞き流す。

 香油を塗り、腕輪をつけ、上着を着せて、どうか怪我のないように、どうか無事に帰ってこられるようにと繰り返し願う。


「王宮の方の修復は終わっており、ネフェルティティ様はもうすでにテーベにお入りになっております」


 現代でも古代人の魂を宿す、テーベの都。アメン宗教の中心都市。エジプトはテーベを都としていた時代に最盛期を迎える。古の都であるメンネフェルからの距離を考えると、車や電車があるならともかく、馬で行くとなると眩暈がするほどだ。


 この二日間、彼に親友がどこに連れて行かれ、どう過ごしているのか聞いても決して答えてくれなかった。それはメアリーを危険視した侍女たちも同じで、密かに頼み込んでも何も教えてくれない。彼に至っては、その話になると黙り込んでしまう始末だった。

 あれだけのことがあったとは言え、メアリーのあの様子を思うと放っておけず、誰の断りもなく侍女の目を盗んで部屋を抜け出したら、今度は私が部屋に閉じ込められてしまった。


「失礼いたします」


 入ってきたのは白い髭の宰相だった。相変わらず髭を片手でつかむように撫でている。


「ナルメル殿!お久しゅうございます」


 心なしか、セテムの声が弾んでいた。


「上エジプトの側近も元気そうで何より」


「ナルメル殿もご息災のようで何よりです」


 そこまで言って、宰相の影からひょっこり顔を出した子に一気にセテムの表情が曇った。


「兄様、お久しゅうございます」


 メンネフェルでしっかり彼の側近として仕えているイパイだ。


「イパ……お前はそこで何をしている。ファラオのお傍にいてこその側近ではないのか」


 弟イパイの可愛らしい笑顔に兄は厳しく言ってのけた。


「僕は今の今まで書簡を書いていたんです。だから仕方ないの」


「何が仕方ないのだ。側近がお傍にいないというのは問題ではないか。何故このような不束すぎる者がファラオの側近などを任せられているのか」


「ちゃんとやってるよ。兄様こそ、ちゃんとやってくださいね。僕より年上なんだから僕以上のことをやってもらわないと困ります」


 久しぶりの兄弟の再会だというのに感動どころかつんつん状態だった。抱き合うとか、さすが俺の弟だとか言って、兄弟愛を示してくれてもいいと思うのに。


「ファラオ」


 ナルメルが彼の方に歩み寄り、パピルスを広げた。


「こちらを留守にする間のことですが、少々気になることが御座いまして」


「ああ、その話ならば考えてある」


 二人の口から飛び交うのは、いつもながら難しい用語ばかりだ。地名も全て古代名なものだから、自分のいる国の話ではないように聞こえることがある。

 そんな宰相と彼の話している姿を眺めていて、本当に彼は一人でテーベへ向かおうとしているのだと実感する。口に出したことはないけれど、中止になることはないだろうかと思ったことは一度や二度ではない。


「カーメスは元気?僕会いたいなあ」


 ぱたぱたと駆け、兄の前でイパは首を傾げる。


「あの者はいつだって元気だ。テーベの祝言にはお前も来るだろう、その時会いに行けばいい」


「うん!その時は兄様も一緒にテーベを回ろうよ」


「務めが終われば……まあ」


 口を尖らせて言い合っていたりもするけれど、それとなく続く兄弟の楽しそうな会話が羨ましい。

 私とメアリーもそんな風に会話をしていた。冗談を交わしながら、お腹を抱えて笑って、笑顔の絶えない仲だった。この前のメアリーの視線を思い出すたび胸が痛む。最後に私を見ていた彼女の眼には、絶望の中に憎しみが宿っていた気がする。


「王妃様、元気ないです?」


 突然声を掛けられてはっとした。すぐ傍にイパがいて、目をくりりとさせて私を覗き込んでいる。


「ううん…そんなことないのよ」


「分かった!ファラオが行かれてしまうから寂しいのでしょう」


「そうね、とても寂しいわ」


 メアリーは今どこで何をしているのだろう。私から思いもしない告白を聞いて、誰も知らない場所に無理に連れていかれて。牢ではないとはいえ、辛いはずだ。

 私のせいなのだ。巻き添えにさえしなければこんなことにはならなかった。会って、もう一度話し合わなければいけない。けれど、会わせてもらえないのにどうやって会えばいいのか。


「ヒロコ」


 ぐいと肩を引かれて、思考は引き戻される。


「またあの女のことを考えていたのか」


 黄金で飾られた椅子に腰を掛けた彼が私の顔を窺っていた。いつの間にかナルメルとの会話が終わっていたらしいことを知る。


「アンク、私ね、やっぱり…」


 彼の言うあの女とはメアリーのことだ。しばらく会えなくなる前にもう一度頼んでみようと口を開くけれど、彼は決していい顔はしない。


「会わせることは出来ぬぞ」


 即答に項垂れる。落ち込む私に、彼はため息をついてこちらの髪を撫でた。


「今はメジットの下で女官としての教育を積まされているはずだ。そのうちこの時代にも慣れるだろう」


 困ったと、形の良い眉を八の字に下げる。


「慣れた頃に会えばまた違った話が出来る。それまで待て」


 手元の白い香油壺に視線を落としていたけれど、言葉の意味を考えてすぐに顔を上げた。


「会わせてくれるの……?」


「お前にとって私はどれだけ意地の悪い男なのだ」


 あの出来事からなかなか口を利こうとしてくれなかった彼が今、優しい笑みを向けながら鼻で笑っている。


「てっきりもう会わせてもらえないものだと」


「確かにあの言い様は腹が立った。しかし最初の頃のヒロコを思い返せばあんなものだっただろう」


 自分がここへ来た頃を思い返せば首を絞められ、怒鳴られ、彼に散々な目に合されたということしか覚えていない。


「ただし、今すぐは駄目だ」


 それでも、会わせてもらえる。今すぐでなくとも、彼女と会えると言う言葉に安心と希望が吹き上げる。


「今会っても、また帰ると引っ張られるだけだ。テーベから帰った時に妃がいなくなっていたではさすがに困る」


 あのパニック状態の彼女に話しても、私の話など聞かずに問答無用でここを出ようとしまうかもしれない。


「手紙を送るくらいは許してやろう。メジットが管理をしている。メジットを必ず通せ」


「……ありがとう」


 彼が私を支えてくれたように、メジットがメアリーの支えになるかもしれない。メジットに頼んで、手紙をメアリーに渡してもらうことも出来る。メジットに、メアリーに対してしてあげてほしいことを後で全部話しておかなければ。


「あとはヨシキだな」


「え?」


 思いがけない名前に、彼をまじまじと見つめた。何だその目は、と言いながら彼は軽く笑う。


「テーベに着けば毎日のように都の中を見て回る予定だ。その際に探してやると言っている」


「どうして良樹を……」


 あれほど嫉妬して考えるなと言っていたのに。


「あの女が見つかってからため息ばかりだっただろう。そのような浮かぬ顔をされたままひと月も会えなくなると思うと、私としてもいい気分はせぬ」


 何だかんだ言って、気に入らないながらも私のことを気に掛けてくれている。その人の気持ちが嬉しくて、胸が熱くなる。


「本当にありがとう」


 お礼を言うと、彼は椅子に座りながら私を抱き寄せて髪を梳いた。周りに人がいるから慌てて離れようとしても、彼はくつくつと笑って離すどころかもっと深く私を腕の中に埋めてしまう。


「幸せですねえ」


 イパイが笑っている。それに続くは「しっ」というセテムの叱責だ。


「王と王妃の仲がこれほどまでによろしいとは。何より何より」


 ナルメルのホッホッホとやけに響く笑い声が続いて恥ずかしくなる。


「ヒロコと同じ肌の男だな」


 抱く腕に力を込めて、彼は私の耳元に囁く。

 そう。私と良樹は、典型的な黄色人種モンゴロイド。シルクロードが確立されていないこの地方では相当珍しい人種のはずだ。でもそれだけで良樹が見つけられるだろうか。

 写真を見せることができたらいいのだけど、アケトアテンのナイルに流してしまって今は手元にない。いくら珍しい肌の色だと言えどもそれだけで分かるはずがないのに、どうしたら。


「案ずるな。あの男の姿はこの目に焼き付いている」


 相変わらずこちらの思っていることを的確についてくるから驚く。腕が緩んだのを機に、顔を上げてすぐ傍の彼を見やった。


「あのシャシンというものをこの目が腐るほど見せてもらったからな」


 言われてみれば彼はよく私のショルダーを探って写真を見ていた。写真は携帯に次ぐ彼のお気に入りだった。


「断定は出来ぬ。見つからなかったら許せ」


 あまり期待はするなと、苦味を含んだ笑みを浮かべるその人に、ううんと首を振る。むしろ嬉しい。あなたの優しさがとても嬉しい。微笑んで返すと、私の背に褐色の腕が回った。

 私の、愛おしい人。これからしばらく、こうしてこの香りを感じられないことが寂しい。怖さもある。これが最後になってしまったらと、やっぱり不安はどこにでも私に付きまとう。


「そろそろだ」


 私から手を放して彼は椅子から立ち上がった。同時にセテムやナルメル、イパイの表情がきりと引き締まり、扉への道を開ける。

 見送りに行かなければと私も背筋を伸ばしたら、腕に抱いていた香油壺がひょいと消えた。


「これは私が預かろう」


 行方を探せば、彼が右手でぽんと上に投げてはキャッチして遊んでいた。


「テーベでヒロコ以外に香油を塗らせるつもりはない。自分でやる」


 いつもやってもらってばかりだったのに、自分で塗れるのだろうか。


「背中とか届かないところは侍女にやってもらってね。焼けたら大変だわ」


 乾燥して肌を痛めたらまた元も子もない。この地域では強い紫外線のために皮膚病になってしまう可能性だって捨てきれない。それでも彼は自分で塗ると言い張った。


「私の肌に触れられるのはヒロコだけだ」


 なんて台詞を人前で言うのといつもなら叩くところだったけれど、そうねと私まで頷いて笑ってしまった。私の頬はきっと夕陽の砂漠のごとく真っ赤になっていると思う。


「さあ行こう。見送れ」


 彼は私を連れ、ナルメル、セテム、イパイ、そして扉の向こうに控えていたホルエムヘブとラムセスを従えて、外へと歩き出した。


 まだ朝方の光を帯びた外に見えた光景は、緑の木々と白い王宮の壁を背景に、馬を従えたずらりと並ぶ兵士たちで圧巻だ。先頭に灰色と白の馬が二頭、それがセテムと彼のものだと言われずとも分かった。


「書簡は定期的に送る。返事は必ず読める字で書け」


 見送りに出た私の両手を掴み、彼がいいなと念を押す。

 うっと、言葉が詰まった。相も変わらず私はヒエログリフが読めても書けないという迷宮に陥ったままで、ナルメルにも「上手なお絵かきで」と落書き扱いされる始末だ。せっかく送っても、読めない可能性が高い。


「が、頑張ります」


 語尾を濁す私に笑顔を向けてから、一歩後ろに並ぶ見送りの列、その右端の将軍の方に目をやった。


「ホルエムヘブ」


「はっ、はいっ」


「お前には北の海の警備を命じる。最近、北方の国々が侵略を受けたと聞いた。警戒を強めよ」


 北の海。そう聞いて思い浮かぶのは北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸に囲まれた海。地中海のことだ。そこから侵略したと歴史に記されているのは、Sea People──海の民。

 小さな民族であるのにも関わらず、将来いくつかの巨大文明を滅亡へと追い込むことになる謎の民族集団。海から襲ってきたという記録があることからこの名で呼ばれている。

 記憶を辿れば攻めてくるのは第19王朝になってからのはずだけど、18王朝の今から勢力を付け始めていたのだろう。

 敵国に囲まれていたり、海から侵略の可能性があったり、エジプトは本当に気の抜けない国だ。


「軍事の事ならば私にお任せください」


 ホルエムヘブが胸を張って答えた。


「頼りにしている。……あとはラムセス」


 はっ、と返事をして鮮やかな赤毛の人が一歩前に出た。


「お前には我が妃を頼む」


 その言葉に二人そろって「えっ」と間抜けな声を上げてしまった。未だに敵意剥き出しのこの人に私を預けるなんて彼は何を考えているのだろう。帰ってきた時に私が殺されていてもいいの、と文句を言いたくなるのを寸前で飲み込んだ。


「無茶をせぬよう見張っていろ。つまらぬ顔をしている時は花でもやるといい。すぐに機嫌がよくなる」


「はあ……」


 さすがのラムセスも納得がいかない様子だ。何で俺が、と心の文句が聞こえてきそうだった。


「ファラオ、そろそろ」


 セテムの声に皆が顔を上げる。時間だった。


「もう、行く」


 何だか、その声が儚く聞こえてまた不安になる。


「ええ」


 彼を見つめる。彼の瞳の中に、私がいた。


「どうか気を付けて」


「必ず帰る。たったひと月だ」


 たった、ではない。1か月だ。それがどれだけ長いか。


「ちゃんと食べてね。ちゃんと寝て、無理はしないで。お願いだから、危険なことは絶対にしないで」


 私の言い様に、彼がくっと喉を鳴らした。


「お前は私の母親か何かか」


「心配して言ってるのよ」


 こちらの気持ちを分かっているのだろうか、この人は。


「行ってくる」


 くしゃりと笑った表情は、私の緊張を解した。


 ああ。行ってしまう。遠い、神の都へ。

 軽やかに馬に飛び乗り、ナルメルたちに「都を頼む」と残して、馬を啼かせた。それに答えて私の後ろに並んでいた皆が跪く。

 一人だけ立つ私に、再び細めた眼差しを向け、片腕を上げて出発の合図を周りに発す。


 堪らない。心配で心配で堪らない。

 私の知らないところで、誰かに命を狙われやしないか。病気にかかりやしないか。


「ご出発!!」


 セテムの声と共に彼が率いる何頭もの馬が歩みを成す。長い上着の麻が棚引いて、メンネフェルの風に乗る。


「アンク…!」


 気付けば大きく叫んでいた。


「王妃!」


 間を開けずにラムセスが立ち上がって私の前に現れ、今にも走り出しそうな私の行く手を塞いだ。

 分かっている、私は王妃だ。王の代わりにここに残り、守らなければならない。ならばと口を開く。何度となくあなたに願う。


「ご無事で…!!」


 砂埃を立てて門へと行くその人がこちらの声が聞こえたのか、私を振り向いて片腕を上げた。


「いってらっしゃい!」


 私も彼の笑顔に笑顔で手を大きく振り返した。



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