緑の都~メンネフェル
アケトアテンより緑に囲まれ、作物が育ちやすい点が最大の特徴とも言えるメンネフェル。アケトアテンが地平線の地であったなら、古代エジプト王家誕生の地であるここは、緑溢れた地であると言えるだろう。
古く、所々が欠けていながらも何とも言えない威光を放つ、目が回るくらいに広い王宮が視界に広がる。どれもこれも現代では跡形もなくなってしまっているもので、今まで見てきたアケトアテンとは都としての歴史の長さが違う分、一つ一つを見て回れることを到着当初は楽しみにしていた。
「こちらが大神殿へ向かう大通路、こちらが小神殿で、あちらがファラオの宮殿、あちらのあちらが王妃の宮殿……そうだな、あとはあっちか」
すたすたと前を行く赤毛の人の後を走る。
この都に着いたのはお昼過ぎのこと。多くの人たちに迎えられ、お神輿のような乗り物で担がれ運ばれ、ようやくこのメンネフェルの王宮に辿り着いた。
着くや否や彼はすぐ会議だと言って、このラムセスという名の隊長に私を預けてどこかへ行ってしまい、今その隊長から初めて見るこの王宮を案内してもらっているはずなのだけれども。
「ま、待って!ラムセス!」
まさか、息を切らして走るとは思わなかった。案内されるどころかこれでは徒競走だ。
ラムセスと呼ばれる隊長は、彼以上に歩くのが速い。この時代に競歩という種目のスポーツがあったならば、確実にオリンピック出場レベルなのではないだろうか。
「待って…!!」
叫ぶように呼びかけてやっと、止まって振り返ってくれる。
「何です」
「あなた、早い…!」
ぜいぜいと息を切らす私に、ラムセスは「そうですか」と興味なさげに呟いた。
「もう少しゆっくり……そんな、急がなくて、いいから」
「俺は別に普通に歩いているだけですが。もう少し早く歩いていただかないと困ります。このメンネフェルの王宮は、歴代王家の住まいで有り続けただけあってアケトアテンのものより数倍広い。ファラオよりあなた様へのご案内を仰せつかっておりますが、このままでは私が命を全うせずに終わってしまう」
さっきからずっとこうだ。そっけないというか何というか。
彼がいる時といない時での私の扱い方が凄まじく違う気がする。何か嫌われることでもしただろうかと走りながら考えてみるけれど出会ってから嫌われる何かをするほどの時間をまず過ごしていない。まだ出会って半日なのだ。
もともとこういう人なのかもしれないと割り切って喉元まで込み上げる文句を抑え込んだ。そもそも文句を言う隙も与えてくれない。
「お願い、もっとゆっくり……息切らしながらじゃ、周り見る余裕もなくて……」
「仕方ありませんね。ではゆーーっくり参るといたしましょう」
ゆーっくり、の部分を厭味ったらしく強調してくる。またむっとしながらも無理矢理感情を飲み込んだ。心を広く、と胸の内に唱える。そんな私を一瞥し、ラムセスは一般では「普通」と呼ばれるくらいの速度で再び歩き始めた。
「ねえ、ラムセス」
何とかしてこの嫌な雰囲気から抜け出したくて、小走りで隣を進みながら声をかけた。最初はコミュニケーションが肝心だ。
「何でしょう」
「あなたはこの地の隊長なのよね?」
上エジプトに隊長と呼ばれる人を見なかったから不思議に思う。
ただ単に、カーメスが個性的すぎてその部下の存在を私が認識できていなかっただけかもしれない。
「ええ。偉大なるファラオより命じられ、この地の守護を仰せつかっております」
私に視線を向けることなく答えるその横顔は何だかとても苛立っているようにも見える。話す時くらい相手を見ると言うのが礼儀だと思うのに、こちらを見ようともしない。
「もしかして下エジプト生まれ?」
とにかく話を広げようと頑張る。初対面との初めての無難な話題『あなたの出身地どこですか』だ。
「その通りです」
「じゃあ、将軍のホルエムヘブと同じなのね。彼にはアケトアテンで会ったのよ」
その言葉に、いきなりラムセスの動きがぴたりと止んだ。
「あのような」
足を動かし、くるりと私の方に身体を向けて深い緑眼を細める。
「頭が空っぽな馬鹿丸出しの男と一緒にしていただきたくありませんね」
私を上から見下ろし、低いどすの利いた声で発すものだから、こちらが驚いてしまう。
「軍才はあるにしても、礼儀もわきまえず、下品の塊のような能無しが我が上司であること、俺は不快で不快でなりません。……あのクソが」
最後のぼやきは多分、ホルエムヘブに向けてたものだろう。こちらに向けて言っていないないだろうかと思わず自分の胸に確かめた。
ラムセスに頭空っぽと言われるホルエムヘブは、何でも彼に会うのが嫌で、夕食に出すライオンを狩ってくると言い残し、出迎えもせずどこかへ行ってしまったという話だ。
一度、あのエロ将軍が私の姿を見るために断りなくアケトアテンに来た時があった。その時の様子を思い出せばホルエムヘブは彼に対して苦手意識が少なからずあるのだろうから納得できないことではない。ホルエムヘブは正直彼が怖いのだ。
「ファラオのお顔もまともに拝見出来ぬほど、あの者は他所で遊んでいるのだ。何故俺の軍才はあの者を越えられない。それに腹が立つ」
一般人からある程度の権威を持つ将軍まで上り詰めたのは、誰にも劣らぬ軍才があったからだ。改めて考えてみるとあの将軍の経歴は相当凄いものになる。
「……特にファラオへの礼儀が欠けていることは何に代えても許しがたい」
礼儀がないのは、この人も一緒なのではないだろうか。
「で、でも、それにちゃんと仕えているあなたは偉いわ。ちゃんと役目を果たしているもの」
褒めたつもりなのに、ラムセスは眉間に皺を寄せて、信じがたいと言う風に大げさに目を見張った。
「仕えている?俺が?」
その後に「馬鹿な」と吐き捨てられた。
「俺が魂を預けるのはファラオであるあの方のみ。あの御方の命以外ではこの手足は動かない」
深緑のマントを翻し、腕を胸に斜めに置いた。ラムセスの表情は誇りに溢れている。
「俺がこうしてファラオの傍にお仕えせず、遠く離れたこの地であんな能無し無礼塊男の下にいるのは、あの方にそう命じられているが故」
話し方が彼にどことなく似ていると思うのは、この人の憧れに彼がいるからだろうか。
「ここで断っておきましょう。例え、あなた様のご命令だろうと俺は聞かない」
ラムセスという人間は彼の熱狂的な信者なのだ。相手の熱い眼差しは、最初の頃のセテムを彷彿させるものがある。忠誠の熱いこの二人を犬に例えるのなら、セテムは柴犬で、ラムセスはドーベルマン。彼はなかなか獰猛で忠実な犬に懐かれているようだ。
この新しい地に来て漠然とした不安があったけれど、彼のことをこんなにも慕う人がいるのだと分かって嬉しさがじんわりと込み上げる。ここでもなんとかなるかもしれない。彼を守る味方がいる。
「……良かった」
不意に思っていたことを声に出した私に、ラムセスは眉を僅かに寄せた。あからさまに「奇妙だ」と言う眼差しを向けられて恥ずかしくなる。
一瞬考えるように小さく唸ってから、やがて相手は身体の正面を私に向けた。ここで初めて面と向かってラムセスと向かい合った気がする。
「俺からも一つ、お尋ねしてもよろしいか」
「……え、ええ、勿論よ。どうぞ」
やっと会話が成り立ち始めて嬉しくなったのも束の間。
「貴様、何を考えている」
ラムセスの腕が素早く腰に伸び、差していた鉄剣の切っ先を鞘から引き抜いて、私に向けた。生まれてこの方面と向かって刃物の切っ先を向けられたことが無く、突然のことに後ずされば、ラムセスは前へ踏み出し、私を柱へ追いつめた。
「貴様はアンケセナーメン様ではない」
刃が太陽の光を反射させ、私の網膜にその鋭さを露わにした。
「今日初めてこの目で見た時、違うと直感した」
まただ。アンケセナーメンじゃないだろう発言。何度繰り返されてきた質問か分かりやしない。
「アンケセナーメン様はもっと賢く凛とされた、ファラオに誰よりも相応しいお方だった。そのような間抜けなお顔をするような方ではない」
生まれた時からこの顔よ、と言いたいところでも、凶器を向けられてじわじわと近づけられた緊張で声帯が強張って動かない。
「もしや王妃の座を得んがため、ファラオの姉君を失われた悲しみとその瓜二つともいえる顔を利用し、怪しげな魔術を用いて取り入ったのかと思ったが……どうやらそうでもないと来ている」
私の命令は聞かないとわざわざ公言したのは、私の反応を窺うためだったのか。そこで文句なんて言っていたら、この人は迷わず今向けている剣で私を貫いていたに違いない。
「言え、目的を。その言葉次第ではここで切り捨てる」
「わ、私は…」
やっとのことで相手を制し始めた時、背後に迫っていた柱にぶつかり、ついに逃げ場がなくなった。
「答えられぬか。……まあ、どうにしろファラオにとって危険な女であることは承知の上。この下エジプト隊長ラムセス、役目に乗っ取り、王家の敵を討ち滅ぼさなければならぬ」
この時代へ落ちてきた当初から私を知っている上エジプトの人たちとは違い、この下エジプトは、いきなり降って湧いて王妃になったような私に、違和感が拭えない人々の集まりなのだ。
何か言わなければ。何か弁明を。
「ラムセス、お願い、聞いて。私は…」
「問答無用。剣先を向けられただけで怖気づくとは王家の者ではない何よりの証。エジプト王家は神に等しき尊さと確固たる信念、そして何事にも動じぬ気高き強さをお持ちになる方々のことを言うのだ。お前とは違う」
ここまでの殺気を向けられたのは初めてで、思い通りの声が出てくれない。相手は話を聞く気もないのだ。
「王家の、我が国の敵め」
右肩を乱暴に掴まれ、相手が鉄の銀を翳したのを見る。細められた野獣のような緑の目に、相手が本気で私を殺すつもりなのだと悟った。前に浮かぶ赤毛の髪が逆光で黒い影となり、刃の先が私に向かう。
「オシリスのもとでその魂をセベクに喰われるがいい」
「何やってんのよ!!!」
甲高い女声が私とラムセスの間を走り抜けたと思ったら、何かが横から飛んできてドスンという鈍い音と共に、私を抑えていた赤毛隊長の姿が消えた。
それはもう、見事な飛び蹴りだった。
ラムセスを蹴り上げ、すとんと華麗に地に降り立ったのは、私より年上のすらりとした女性。背は高めで、ストレートの薄く茶色の混じる黒髪を綺麗に肩の上で揃え、顔には気の強そうなきりりとした表情を湛えている。
「このバカっ!!」
女の子が罵声を浴びせた先を見れば、さっきの鉄剣を下に落とし、地面に突っ伏しているラムセスがいた。ドーベルマンがガマガエル状態で呻いている。
「本っ当にバカっ!!」
女の子はその赤毛をバシンと平手打ちする。呻き声が更に大きくなった。
「王妃様に剣を向けるだなんて、あんた何考えてんの!ホルエムヘブだってそんなことしないわよ!ファラオのお耳に入ったらどうするつもりなの!もしそんなことになればあなたの命はこれまでよ!」
しなやかな身体のラインを折り曲げて怒鳴りつける彼女を睨みつけながら、ラムセスは素早く立ち上がって私を指さした。
「お前も感じてるだろう、メジット。これはアンケセナーメン様ではない!誰が何と言おうと俺には分かる!」
「はっ!ファラオが仰ることにあなた立てつく気!?」
「それは…!」
顔を近づける彼女の権幕に、隊長は押されて足を一歩後退する。勝負は決まったも同然なのだと驚く傍らそう思った。
「ファラオが仰せになること、それがすべて。私はそれに従うのみよ。あんたとは違うの。今度こんなことしたら、私がその首噛み切ってやる」
くるりと向き直り、黒髪を揺らして飛び蹴り少女はにっこりと可愛らしい笑顔を私に向けた。香油を塗っていると思われる髪が、陽に照らされてその艶を増していた。
「お怪我はありませんか?王妃様」
きゅっとした微笑みは、見事な飛び蹴りを決めた時の険しさは微塵も感じさせない。
「え、ええ…」
何が起こったか分からないままの私の反応に、彼女は良かったと胸を撫で下ろし、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「王妃様、大変お見苦しいところをお見せいたしました」
未だに驚きを隠せず固まった私の前に、彼女は深く跪いた。
言うまでも無く、ラムセスが私をいきなり殺そうとしたことにも驚いたけれど、今は飛び蹴りで横から現れた彼女の権幕の方にその感情が向いているかもしれない。
「下エジプト隊長の愚かなる言動、どうかお許しください。ファラオへの忠義を想い過ぎ、このようなことを。決して悪い人間ではありません。王家を、国を第一の考える者です。どうかお許しくださいませ」
不機嫌そうに腕を組み、そっぽを向いている隊長には度肝を抜かれたけれど、それは彼を想ってのことだと分かっている。本当にあの人は熱烈な信者を率いているのだと思うと逆に微笑ましくなって笑えてしまう。
「気にしないで。私は大丈夫だから」
「ありがとうございます……ほら、あんたも!」
メジットが赤毛を鷲掴みにして無理に頭を下げさせようとしても、彼は歯を食いしばって一向に頭を下げようとしない。嫌われたものだと苦笑してしまう。
「いいの、構わないから」
そんな嫌々頭を下げらてたところで何の解決にもならない。敬意というもおのは、自然と生まれるものであって、無理強いするものではない。成り上がりの私の身分では尚更だろう。
「まことに申し訳ございませんでした」
彼女は深々と頭を下げると、ラムセスは彼女の手を振り払って私に背を向けた。
「それであなたは…」
不意にかけた問いに、彼女はまた晴れやかな微笑みを浮かべて居ずまいを正した。
「改めまして、私、メンネフェルにて女官長をファラオから仰せつかり、務めさせていただいております、ムトノメジットと申します。どうぞ、メジットとお呼びください。生前の姫様がこちらにいらしました時、よくお世話させていただきました」
ムトノメジット。
胸の中でその名を繰り返す。この人が上エジプトのネチェルと同じ位置にいる人間。ネチェルと比較すると随分と若い。
「今夜はファラオと王妃様のご到着を祝う盛大な宴が催されますので、そのご衣裳にお召替えをと思いまして。では、早速参りましょう」
言い終わるや否や、メジットが私の背中を押して歩き出した時に向こうの廊下から少年が駆けてくるのが見えた。
「あーっ!!本当だー!!」
幼い子供の声が飛び散る。何事かと顔を向けたら、さっきまでそっぽを向いていたラムセスがその場に跪いている。気づけばメジットまで恭しく膝を折り、頭を下げていた。素早い二人の対応に呆気にとられてしまう。
「王妃さま!甦ったって本当だったんだ!!ねえ、ファラオ!すごいですね!!」
陽の射す白く光る廊下の中を、幼い子がぴょんぴょん駆けてくる。その後ろで高らかに笑うのは彼だ。相も変わらず黄金が額に輝いていた。
「イパ、そう走るな。転ぶぞ」
「王妃さま!」
彼の注意を聞くことなく、その黒髪の男の子は私の腰に抱きついてきた。その勢いに押されながらも、踏ん張ってどうにか持ちこたえる。
「前とおんなじ匂いがするーっ!!本物だ!」
頬を紅潮させ、屈託のない愛らしい笑顔が浮かんでいた。年は8歳くらいで、まるで女の子のような綺麗な丸い目をしている。どこの子だろう。初めて見る子だった。
「僕ね、僕ね!王妃さまが甦られたって聞いて本当に嬉しかったの!やっぱりファラオのお妃さまになられるのはアンケセナーメンさまだけだって思ってたから!」
少年の甲高い声を聴きながら、ぐるぐるとまわり始めた頭の中を整理する。
王宮にこんな小さな子がいるところなど見たことが無かった。いたとしても見習い神官の子供で、神殿の他を出歩くことはない。それを考えると王宮を駆けていけるこの子はそれなりの高貴な身分の子供だと見当がつくものの、王である彼の傍を文句言われることなく歩くことが出来る子供なんて思いつかない。
いるとすればその存在はひとつだけ。彼にも側室という人たちがいるわけで、それをまとめて考えれば──まさか、彼の。
「ヒロコ、念のため言っておくが」
ありありと浮かんできた可能性に氷のごとく固まる私を、目の前まで来た彼が口を挟んだ。
「イパは私の子ではないからな」
「ち、違うの…!?」
正室がいないから子持ちではないだろうという勝手な先入観で、まさか彼の子の存在を知らないまま結婚したのではないか、これから血の繋がらない子とどうやって過ごして行こうという瞬く間に頭を埋め尽くした不安が瞬く間に払拭された。
「早とちりするな、私に子はまだ一人もおらぬと前に言わなかったか」
「ああ……そう言えば」
言われてなくもないような。
「それによく見てみよ、この顔。どこかで見覚えはないか?」
にっこりと幼気な顔を見て、徐々にある人物の顔が浮かんでくる。
「セテム……セテムだわ」
屈んでその子の顔を真正面から見て、本当にあの忠犬にそっくりだと気付く。
笑顔だから分からなかった。セテムはずっと無表情で、まず笑顔を見たことが無かった。
「はい!セテムの弟、イパイと申します!みんなはイパと呼びます。お見知りおきを、記憶を失われた王妃さま」
この子がセテムの弟。随分年の離れた兄弟だけど、この顔を見れば誰でも納得する。セテムがあんなに無表情なのは、生まれて来る時に愛想というものをすべてお母さんのお腹の中に置いてきてしまったからなのではないかと思えるほどに笑顔が綺麗な子だ。
「イパは下エジプトの側近だ。セテムはそれに対してまだ未熟だと言って不服だがな」
彼がイパの頭をわしゃわしゃと撫でると、イパはく嬉しそうにきゃっと笑った。
「この子が、側近なの?」
こんなに小さな子が。
セテムを見てきて分かったことは、雑務をこなす側近の多忙さだ。それをこんな幼い子が熟しているという。
「ああ、イパは賢い子だ」
そう言えば、アケトアテンを離れる際に、彼が下エジプトでの側近を褒めたらセテムが嫌な顔をしていた。あれは、下エジプトの側近が実の弟だったからだ。
「イパはこの年で7つの言語が操れるのだ。政や隣国の動きなども正確に把握している。いわゆる才児だ」
8歳で7つの言語を話す、マルチリンガル。私の中で頭が良い人で通っていた良樹でも日本語、英語、ドイツ語、アラビア語の4か国語だ。
まだ幼いイパイに、もともと身分が低かったホルエムヘブがこうやって王家の従者として採用されている。実際、年齢性別を問わず、才ある者に役目を与えたというのは、ローマや中国、勿論日本でも記述のある出来事だけど、この時代のエジプトにもそういう思想があったのだ。
「お前も元気そうだな、メジット」
私の傍に立ち、未だに跪いたままの彼女に彼が声をかけた。
「はい、私もファラオのお元気そうなお姿を拝見することが出来、何よりも代えがたい幸せに御座います」
「ネフェルティティも相変わらずだ。今回メンネフェルには来ないようだが、いつか会いに行ってやると良い」
「姉は私のことを存じますまい。これでよろしいのです。私や姉のためにも」
ネフェルティティがメジットの姉だという会話に首を傾げていると、イパが私の腕をそっと引いて「耳を貸して」と囁いた。
「メジットはね、実は王族なんだよ。姫様も知ってる、最高神官アイの娘、ネフェルティティ様とはお母さんが違うの。だから王家の血は継いでない、ネフェルティティ様と同じ、正統ではない王家なの」
教えられた事実に、驚きで声を上げてしまいそうになる。
確かに、顔はあまり似てないとしても、彼と話す彼女の雰囲気はどことなくあの不思議で美しい女性に似ていた。
「どうしてここで女官長だなんて…」
「なんか、自分が王族だとは思えないんだって。それにもともとお母さんがこの王宮の女官長だから、こうして仕えている方が性に合ってるって前に言ってた。高貴な母君を持つネフェルティティ様とは顔を合わせたことないから尚更だって」
母親が違う姉妹。あまり聞かないそんな存在がこんな身近にあることが、未だに慣れていない。
「ラムセス、神官から聞いたぞ。また弓の腕を上げたと。生贄の動物を素早く狩ってきてくれると喜んでいた」
彼の呼びかけに、私に対してあれだけ不機嫌向きだ下だった顔が、飛び切りの笑顔を咲かせた。顕著過ぎて呆れてしまうというか、笑ってしまうというか。
「はっ!ファラオのため、このエジプトのため、毎日欠かすことなく鍛えております!!」
「ならば、テーベが完成する前に共に狩りにでも行くか。共に何かを捕まえよう」
「勿体なきお言葉!喜んで御供させていただきます!!」
私に対しての敵意がまるで嘘だったような様子に、隣に跪いたままのメジットはため息を上に吐き、前髪を上に浮かせていた。
「妃への案内、ご苦労だったな。記憶が何もない故、大変だっただろう」
「滅相もない…」
さすがのラムセスの返答も気まずいのか語尾が不明瞭だった。私は苦笑、メジットはラムセスを睨む。
ラムセスの身がとても小さく見えて、実は殺されそうになったとは言わないでいてあげようと心に決めた。
「これよりの妃への案内は私が自らすることとする。ラムセス、メジット、イパ、お前たちは下がってよいぞ」
名を呼ばれ、イパも私の隣から素早くメジットの隣に移動して跪く。場面とそれに対する振る舞いをしっかり理解している子なのだろう。
「ファラオ、恐れながら宴のお席はもう間もなくで御座いますが…」
そう口を開いたのは女官長であり、アイの娘であるメジットだった。
「何でもホルエムヘブが帰って来ないがために準備が進んでいないようだ。随分遅れるらしいぞ」
彼が苦笑すれば、ラムセスの顔にみるみる怒りが噴き立つ。あのくそ野郎、と口元が動いたのを見た。
「申し訳ありませぬ!!今、あの者を連れ戻してまいります!」
閃光のように駆けて赤毛の隊長はいなくなってしまい、メジットもイパイも失礼しますと一礼して下がって言った。
二人きりになって、あの賑やかさが夢だったかのように消え失せてしまう。夕暮れに近い、アケトアテンとは違う色を運ぶナイルの風が私たちを包んだ。
「さあ、」
深い声と共に、淡褐色が私を捉える。
「我らも行こう。私が自ら案内してやるのだ。有難く思え」
自身に満ちたその笑みに、私も笑顔を返す。
「有難き幸せですわ、ファラオ」
そう返事をして、差し出された手を取る。黄金の音が鳴り響く、陽が傾きかけた中を私も一緒に踏み出した。
「メンネフェルに戻って来たからには、神の名も覚えて行かなければな。神々一人一人に儀式もある。忙しくなるぞ」
そう言う彼は嬉しそうだ。
「オシリスやイシス、ホルスは知っているな?」
「ええ、オシリスは冥界の王。ミイラで描かれていることがほとんどで、イシスはその妹でオシリスの妻よね?オシリスは弟であるセトに殺されるけれど、イシスが救って最終的には冥界に君臨して、この世を息子のホルスが治めている……王家はそのホルスの化身でしょう?ホルスはアメンと並んでエジプトの神々の中で最も古く、最も偉大な神……太陽アメンラーの息子とも解釈されている神だわ」
エジプト神話はまた独特で、代表的な神々の一族に加え、日本の八百万の神の思想と同様、様々なものに神が宿っているという考え方から、多くの神が存在している。オシリス、イシス、ホルスやセトはエジプト王家にとっても重要な神々で、彼らへの解釈は長い時代を越えて変遷を繰り返していくはずだ。
「その通りだ。ヒロコは覚えが早い」
そう言って褒めてくれるけれど、全部彼に教わったことだ。思い返せば、今の私のエジプトに関する知識は彼が与えてくれたものでほとんど成り立っている。
「ヒロコ、見ろ。あれがセクメトだ。獅子の姿をした女神。戦いの神だ。やや気性が荒い」
場所が変わるたび、神々の壁画やレリーフ、像が止めどなく私たちの前に現れる。古さはあるけれど、逆にその古さが昔からここを守ってきたものたちなのだという威厳が感じられた。
「いいか、あれがバステト。猫の女神、音楽を司る。時折獅子で描かれることもある」
牛や鰐や、猿。そして想像上の奇妙な生き物に、オシリス、イシス、セト、ネフティスなどの有名な神々まで様々な神々が視線を動かす度に現れる。
「あれがハトホル。愛と美の女神。ヒロコが身に着ける冠にあしらわれていることが多い。王家の娘や妻たちの守護神とも言える」
さすがは古くからアメンを崇め続けていた国家創立の地だ。アケトアテンは一神教のために作られた都だったために神像はアテン1種類しかなかったのに対して、ここは目が回るくらい沢山の神々が顔を出していた。
彼もそれが嬉しいのか、子供のようにはしゃぎながら像や壁画がどんな神を表し、何を司っているのかを私の手を引きつつ丁寧に教えてくれていた。
「女性の神が多いのね……戦いだったり力を司る神まで女性っていうのはどうなのかしら」
「女は時に恐ろしいということだろう」
やっぱりそういうことなのかと笑ってしまった。女は怒ると怖いから、力だとか気性の荒い神に当てはめたということ。古代も現代もこういう面白い点で似ている。
覚えきれないほどの神の名を聞きながら擦れ違う兵や侍女の間を歩き、至る所の緑に満ちた庭を眺めて回っていく。
ヨーロッパのどこかの庭園のような優雅さが見えたと思えば、今までのファラオたちの偉業が記された文書ばかりの空間に出たり、鮮やかなレリーフの壁に囲まれた花咲く庭があったり、どこか知らない世界にやってきたのかと思えるほどに王宮は美しかった。
手を引かれ、どうだと尋ねられるたび、「凄い」としか答えられない自分がもどかしい。もっと語彙力をあげておけば良かった。
「ここは一番凄いぞ」
1時間ほど歩き回り、やがてナイルに浮かぶ道に出た。
「アンケセナーメンが幼い頃に愛していた庭だ。私も幼い頃に数度だが連れて来てもらった」
視界を満たした光景に感嘆が漏れた。今まで見た中で一番心を奪われる場所。
道を囲むナイルの上にハスがいくつも花弁を広げ、暗くなり始めたその光景にしんみりと色を乗せ、ナイルの向こうの壁には大きなイシスの像が掘り込まれていた。
「綺麗……」
屈んでその白に手を伸ばしても届かなくて諦めかけると、代わりに褐色の腕が横から伸び、腰に付けていた短剣で茎を切って、こちらに手渡してくれた。
「取りたかったのだろう?」
「ありがとう」
お礼を言えば、彼がもう一つ小さいものをとって私の髪に挿して、いいやと微笑む。この言葉数が少ないやりとりさえ、幸せに思う。
「素敵な所……本当に」
緑が周りに溢れているせいだろうか。アケトアテンより花が輝いて見える。綺麗で柔らかくて、漂う匂いも朗らか。深呼吸すれば、自然と心が和いでいく。
「テーベはもっと凄い。ヒロコの好きな花も王宮内に沢山咲く。無論ヤグルマの花も。ヒロコならば絶対に気に入るはずだ」
ここだってすごく素晴らしい場所なのに、これ以上のところがあるなんて信じられなくて、目を丸くして隣の彼を見つめた。
「嘘など言わぬ」
笑い声を含ませた返事が返ってくる。
「あの地は神に愛された地だ」
緩やかに口端を上げて見せてから、彼は下に座り込み、ナイルの水に自分の顔を映した。その短い髪が、風に揺れるのを見送りながら神々の地の名を胸に思い浮かべる。
テーベ。未来のルクソール。彼の墓であるKV62があり、私が最初に時を超えた都市。第18王朝、栄華の地に、何かがあるような気がする。
「何をぼうっとしている、座れ」
声をかけられ、ハスを胸に抱きながらその人に寄り添って腰を下ろすと、目の前のナイルの群青に、私の顔が映し出された。
そっと指先を入れてみれば、エジプトの熱さと想像できないくらいの冷たさが指から肩へと走って行く。そんな私を抱き寄せ、今度は彼の指が群青に触れた。滑らかに動いて水面に円を描くと、私たちの虚像が形を崩し、やがて二つの像は溶け込む。
「見ろ、ヒロコ。一つになった」
相変わらず嬉しそうに彼が笑う。少年のような屈託のない顔。それを見たら幸せな気分になって、どうしようもなくなる。
花に囲まれて、あなたが傍にいて。今という時にこんなに満たされてしまって、これから先に待つ未来が怖くなるほどに。
「これのように私たちも一つになってしまえれば良いのだがな」
声に耳を傾けて彼の肩に寄りかかった。
私も思う。溶け合ってしまえばいいのにと。このまま離れることがなければいいのにと。
それはどんなに願っても、どんなにきつく抱き締め合っても叶わないのに、どうしてこんなにも強く願ってしまうのだろう。希望を捨てないのだろう。
そうしている内にふと思いだし、もたれていた頭を起こして彼を見た。
「……一つ、聞いてもいい?」
何としても確かめておきたいことがある。
「ん?」
わだかまりがある。あの赤毛の隊長のこと。ラムセスの名を聞いてからずっと胸にあり、これだけが私の胸の中に、不安を残していた。
「ラムセスって、1世とか2世とかいたりする?」
私が変な質問をするのに慣れている彼は、分かりやすく解説を始めてくれる。
「1世、2世の称号は、同じ名前の者が同じ一族の中にいた時につけるものだろう。ラムセスの他に同じ名を持った者はいない。あの名はあれ一人だけのものだ」
ということは2世ではない。ただのラムセス。
ラムセスなんてそうある名前ではないだろうことを考えれば、もしかしたら、今日私に刃を向けたあの隊長は、第19王朝を築く、後のラムセス1世だという可能性が生まれてくる。
かの有名なエジプト史上、唯一大王と呼ばれるラムセス2世の祖父に当たる人物。どんなことを成したか詳しくは思い出せなくとも、その名は私が知っているほどに有名だ。
けれど、今日初めて出会ったあの人は隊長であって王族ではない。なのに、3300年後の未来では第19王朝を築く王とされているのはおかしい。
王族ではない者が王位を得る。そんなことが可能になるのは、元の王家が滅亡した時。正統な血を引く者がいなくなった時。すなわち、それが意味するのは、彼が崩れる時だ。
自分の頭に流していた声が、不協和音のように私の中で鳴り響く。風が流れて、水面に映るその人の像を揺らし、闇の中に陥れる。
咄嗟に隣にいる、虚像ではない彼の腕を掴んだ。水に浮かぶその人が消えたら、隣の存在も共に消えてしまうような気がした。
「どうした?」
胸を打つ鼓動が早い。同時に、ただの可能性として考えていただけだというのに、これほど取り乱す自分に驚いた。
「顔色が悪い。大丈夫か?」
私に顔を覗かせてきた彼に、大丈夫と小さく返して頬をその腕に寄せた。彼の腕に付けられた腕輪が私のこめかみに擦れる。
大丈夫。たまたま同じ名前かもしれない。もし私が思った通りだとしても、私が変えればいい。そのためにここにいると決めたのだから。
「……ラムセスに、何かされたか?」
「えっ」
くすりと肩を揺らして、彼は星が出始めた空を仰いだ。
「あの者はヒロコがアンケセナーメンではないと気付いているだろうからな。剣でも向けられたかと思った」
「知っていたの?」
まあな、と答えが続く。
怖い思いをすると分かっていて私をあんなドーベルマンに放ったなんて酷い人だ。
「そう怒るな。ただ言葉で言ってもあの者は納得しまい。ならばいっそのこと預ければ何とかなるかと思っていたが、そうでもないようだな。セテムやらカーメスあたりとはやはり違う。あれの視線は痛いだろうが、懐くまで我慢だ。懐けば可愛いものだぞ」
辛いが頑張れ、と彼は私の背中を憐れむように優しく叩いた。
ラムセスにはあんなに睨まれてしまったし、頭さえ下げるどころか、いつか化けの皮を剥いでやるから見てろ、と言わんばかりだったのに。あの人に好かれるなんて相当難しいことだと気の遠くなる思いがした。
「あれは、私に似ているところがある。いずれはヒロコを気に入るだろう」
顔は全然似ていないし、顔どころか髪も目の色も違う。唯一同じなのは身長と年くらい。ただ、ラムセスの纏う雰囲気に至っては違うと振り切れない部分もある。
「ナルメルや兄がよくあの者を見るたび言っていた、中身が私に似ているのだと。もし王族にいても不思議ではないほどの意思の強さと威厳を兼ね備えていると。私も最近では会うたびそう思っている」
確かに、あの人は彼に似た強さを持っている。何を言われても曲げない、芯の通ったものを。
民を想う心と、国を守りたいと言う想い。胸に秘める物が同じなのかもしれない。
「……ヒロコの話ならば、私は暗殺されて死ぬか、事故死か、病死だと言っていたな」
いきなり横槍が飛んできて、たじろいだ。
彼が言っているのは、私が知る彼自身の死因説。どうしてその話を今ここで持ち出すのだろう。
「殺人となると、まあ多くの者に命を狙われている私だ。犯人は特定出来ぬが」
自分のことを言っているはずなのに、何故か楽しそうに考えを募らせていく。何かの推理小説でも検証しているよう。
「毒はないと断言できる。この鼻が詰まってない限り、嗅ぎ分けられない毒はない」
胸を張って自分の鋭い嗅覚を自慢する。
「何かで殴られるにしても、私はヒロコのような間抜けではない。ヒロコならばそれで殺されてしまいそうだから納得できるのだが」
うーんと唸り、最後に指を二本私に向けてきた。
「残りは事故か病死」
その二つ。
2005年のX線CT撮影によって、現代でもっとも有力とされている死因。彼も彼で、自分の未来を考え、私と同じ結論までたどり着いていた。
「もし、」
言葉を失っている私を傍らに、暗くなりつつある空気に、声を乗せる。
「このまま何も防ぐことができず、ヒロコが言った通り近いうちにこの身に何かあれば、次の王位はあの者に、と思っている」
ラムセスに王権を。声には出さないけれど、彼はそう言っているのだ。
「あの者ならば、私の意思を継いでくれよう。兵たちからの信頼も厚い、この国の平和を考えてくれる。我が一族が滅びようとも、あの者が率いる一族ならば…」
「やめて」
これ以上我慢出来なくなって、声を断ち切った。
胸に抱いていたハスの長めの茎を握りしめ、ナイルに浮かぶ自分を見つめながら噛んでいた唇を開く。
「それ以上言ったら、私、あなたを叩くわ」
どうして私の前でそんなことを言うのだろう。その胸で、どうしてそんな考えを巡らせているのだろう。
「ひっぱたくわ」
彼は私の髪を撫で、髪にあるハスに吐息落とした。
「冗談だ」
冗談だなんて、そんな縁起でもないこと言ってほしくなかった。
あなたは一国の統治者だから、そういうことを常に考えていなければならないのかもしれない。でもこれではまるで史実は変わらないのだと諦めているようだ。冗談になんて聞こえなかった。
あなたはやっぱり分かってない。どれだけ私がその史実とされる出来事に怯えているか。
「許せ」
俯く私を胸に抱き込み、「さすがに叩かれるのは御免だ」と笑った。
髪の長さを確かめるように、動き始める指の感触。頭の頂に落とされる唇。ゆっくりと身体を動かして彼を見つめれば、愛しいと、その人は私に言葉を奏でる。
私も愛しいと思う。心からそう思っている。だから心配で堪らない。いつ、どこで、何が、愛しいこの人を待っているのか。私たちを待ち構えているのか。この綺麗な緑の都にいても、その心配は消えてくれない。
「メンネフェルはわが国でも美しき都だ。ヒロコに見せたいものがたくさんある」
私の腰に腕を回し、彼は悩む素振りを見せる。
「狩りへも連れていきたい。ナイルで舟遊びもいい。アケトアテンではできなかったことを、してやりたい。我が祖先、歴代の偉大なるファラオたちが残してきた遺宝を共に見に行きたい。……困るくらいありすぎるな、迷う」
どうしたいかと私に尋ね、彼はまた肩を揺らした。それが上下するたび、私の身体も一緒に揺れる。
「一緒」
しばしの沈黙があってから私の口が開く。彼の頬を撫で、そのまま首に回して彼の胸に頬を寄せる。
「一緒にいて」
母親から何かをせがむ幼子のよう。
「他は何もいらないから」
告げて、瞼を閉じる。他のものなんて、何もいらない。あなたさえいればいい。傍で笑ってくれて、あなたが幸せならば、私はもう何も望まない。
「傍にいて」
一時も離れることなく過ごして、この巣食う不安を消してしまいたい。安心の中に二人一緒に飛び込んで、このまま。
「分かった」
私を包んで、答えてくれる。強く抱きしめて安心をくれる。
「ならば共に行こう。ナイルにも、狩りにも。すべてをその眼に見せよう。この時代の素晴らしきところをすべて。この国の王妃になったことを、誇りに思わせてやろう」
私を身体から離し、膝の上に置いて彼は声を弾ませる。
「きっと驚く。私の狩りの腕は凄いぞ」
身体の力を抜いてその人の視線と同じ高さに目を合わせれば、まるで少年のように輝く眼差しの中に私を映す。
本当なら、安全な王宮の中で過ごしていてほしいのだけど、この人がこんな狭い世界にとどまる人ではないことは十分に分かっていた。
自由に駆けて行くのだろう、どこまでも。馬に跨って、風を切って、どこまでも。
「どうしてもヒロコを連れて行きたい」
私の頬に指を伝わせて、そしてまた、「その目に見せたい」と、相手は繰り返す。
どこへ行こうか。どこを見せようか。どんな動物を狩って見せようか。何がしたい。何を見たい。
私を腕に抱く人が口遊むのは、そんなことばかり。
飛び跳ねるようで、抑揚があって、明るくて、さっきまで怖いくらいの不安に覆われていた私の口元まで緩んで、未来が光り輝いているように思えてくる。私たちの幸せと不安は、いつも背中合わせで、何かあれば幸せ色に染まって、何かがあれば不安の色に塗りたくられている。
それでもこれから先、こんなに煌めく、こんなにも胸が高鳴る思いをいくつ感じていくのだろうと、まだ見ぬはずの未来に、刻まれているはずの見えない歴史に、希望が溢れだしてくる。
「……見たいわ」
未だに私に何を見せようかと楽しそうに悩むその人に囁く。
「あなたと見たい」
この古の都、星を散らす空の下で、未来では電気で見えなくなってしまう小さな星々の灯りの下で、私と彼は笑っていた。




