時よ
「……許せぬ」
昼の光が漏れてくる部屋の真ん中で、寝台に寝転ぶ彼はごろりと身体の向きを変え、椅子に座る私に背を向ける。
「だからごめんなさい」
「謝っているように聞こえぬ」
コホコホと小さな咳音と共に大きな肩を揺らして、相手は私の謝罪を叩き落とした。自分でも投げやりな言い方になっているのは分かっているけれど、もう何回もこのやり取りを繰り返しているものだから仕方ないと妥協する。
「それでもちゃんと帰ってきて、今だってこうやって傍にいるじゃない」
「そのような話を聞かされ、怒る以外に何をしろというのだ」
古代に残ると決意して2日が経った。彼はどうにか調子を戻しつつあるものの、残った毒の所為で足が痙攣を起こしてしまうため、未だに寝台の中で過ごしている。加えて身体が弱っていたせいもあって、軽い風邪を拗らせていた。
時折小さな咳を鳴らしたり、鼻を何度も啜っていたりと長引きそうな症状が続いている。この時代の風邪はどんなに軽いと思えども油断できないから、心配でずっと傍についているものの──。
「許せぬ」
こればかり。
「私をきれいさっぱり忘れていたなど」
現代で何をしていたのかと聞かれて、「記憶を失くしていた」と答えてから、かれこれ一時間はこの調子だ。
「でも今はちゃんと記憶がある。帰ってくる時に戻ってきたの。あなたも回復に向かっているし、最後良ければそれでいいじゃない」
どんなに弁解しても。
「私がどれだけヒロコのことを…」
ちらと私を振り返りながら寝台の白に顔を埋め、その後の言葉を絶ってしまう。
申し訳ないと思ってはいる。苦しんでいる時もずっと私を想い続け、名を呼び続けてくれていたと言うのに、当の私は古代にいたことも全部忘れた状態で日本に帰ろうとまでしていたのだ。
そもそも、あの記憶喪失は精神的衝撃やら外傷とやらが原因の一般的なものではなく、タイムスリップのように非現実的なことが私に働いたような気がしてならない。思い返せば、古代から現代へ帰る黄金の川で脳みそが飛び出るくらいの頭痛に襲われ、現代から古代へ来る時も、あの黄金の中で記憶がいきなり甦った。
一つ、可能性として挙げてみるならば、神の成せる業。私たちでは説明できない現象が私の身に起きた。埋もれた歴史を無理に現代へ掘り起こすことは決して許されない禁忌であり、私が古代の記憶を持っていかないようにと、神と呼べるような何かがあの黄金の川で私の記憶を消した──と、考察してみて、そんな空想めいたことを真剣に考えている自分が急に恥ずかしくなり、思わず俯いて自分の膝に視線を投げた。
膝に白く流れるスカートがある。現代の服を脱ぎ捨てて、古代の衣装に身を包んだ。もうあの洋服を着ることはないのだとぼんやりと考える。
「……それに」
寝台から顔を上げ、彼が口を開いた。
「ヒロコを呼んだという男の正体も気になる」
頭の隅に隠れている、あの人。彼が蛇に噛まれて、もう駄目なのではないかと思った時に聞こえた声の主。そして黄金の川の向こうに広がる現代で、私を受け止めた謎の男の正体は未だに分からないままだ。
「あれは一体何者なのか」
必死に正体を探ろうとしても、覚えているのはその人の薄い唇が見えたことだけ。口元だけでは誰であるかなど見当が付かない。
「……誰だったのかしら」
「誰だったのかしら、ではない。何故、私以外の男がお前を呼べるのだ。ヒロコを呼べるのは私だけではないのか」
私に向けられた彼の尖った口端を見て、一瞬脳内であの謎の男と重なったような気がしながらも、そんなはずはないとすぐさま否定した。この人が現代にいるはずがないし、私を呼んだ人は現代から私を呼んだのだから。
「もしや、ヨシキか?」
彼が思いついた一人の存在に、私ははっと顔を挙げつつも再び首を傾げた。
「兄のような存在と言っていただろう。その者ではないのか」
良樹ではない。良樹の声と比べれば、私を呼んだ人のものはもっと穏やかで、静かだった。囁くようでありながら、糸をすっと引いたような強い芯が奥にあった。どちらかというと、今目の前にいる彼の声によく似ていた。
「どうせ、もとの世界に戻って、ヨシキに会って来たのではないのか」
「ええ…」
良樹と言われ、アマルナまで必死に私を探しに来てくれたその人の顔が思い浮かんだ。私を引き留めてくれ、私を好きだと言ってくれた良樹は、今でも消えた私を探しているのだろうか。
「まさか本当にヨシキなのか?」
返事をせず考え込んだ私に彼は眉間に皺を寄せ、身体を起こして身を乗り出し、同じ問いを繰り返した。慌てて首を振って違うと返せば、また「訳が分からぬ」と頭をもとの位置に戻し、不機嫌そうに顔を顰める。それでも顎に手をやってまた首を傾げた後、再び不機嫌そうに私に視線を投げかけた。
「ヒロコも悪いのだぞ」
「え?」
素っ頓狂な声を上げると、彼はそうだと唸る。
「何故私のものではない男の声になど返事をした」
「だって、声はあなたのものだと…」
「だから私ではないと言っているだろう。私はお前の傍でうーうー呻いていたのだ。天井から呼ぶ気力などなかった」
それもそうだ。でもあの声は確かに彼のものだった。
ただ、「ヒロコ」ではなく「弘子」だったことが気になる。とても綺麗に、良樹のような呼び慣れた発音で私を呼んでいた。今の彼にあの発音は出来ない。
「聞き間違いに決まっている。それか私に似た声だったというだけの話だろう。そんな誰のものとも知れぬ声に反応したヒロコも気に入らぬ。腹が立つ」
そう言われても今となってはどうしようもない。
私を抱きとめた人の正体は気になる。多分、若い男性だった。私を見つけて病院に連絡をしてくれたのはアマルナ遺跡の管理人のだったはず。若いとは言えない、50代の男性。記憶にある光景と話に聞いていたことが食い違って、余計に頭を混乱させた。
アマルナ遺跡の管理人によれば、私はアマルナの大神殿跡にもたれかかるようにいたというのだから、謎の若い男は私を抱きとめて、あそこに寝かせて放置したということだろうか。ならば酷い話だ。何だか腹が立ってくる。
頬に片手を当てて顔を顰める私を呆れたというように見やってから、彼は上半身を起こして扉の方に向かって側近を呼んだ。一声かければ瞬く間に扉が開いて、いつもの無表情を湛えたセテムが彼の傍に跪く。
「酒を持て」
「はっ、すぐに侍女に持たせます」
二人のやり取りに、私は慌てて椅子から立ち上がった。
「何言ってるの!駄目!駄目です!」
ガタンという椅子の乱れた音が部屋中に反響する中、下がろうとしたセテムの行く手を遮るように立ち憚った。
普通ならば驚きそうなものを、セテムはいつものごとく無表情で受け止め、「また何かファラオが仰せになることに歯向かう気ですか」と茶色がかった瞳で私に訴える。そんな側近に、私は仁王立ちで胸を張って行く手を塞いだ。
「お酒なんて駄目!!絶対駄目です!まだ本調子でもないのに、とんでもない」
風邪は全身の炎症性疾患と同じだ。炎症の原因はウイルスで、風邪を治すということは炎症を治めるということを意味する。対してお酒は炎症を遷延させてしまうものだ。ただでさえ彼が好む古代のワインはアルコール度数が高いのに、そんなものを飲んでいたら更に症状が悪化してしまう。
「しかし、これはファラオのご命令。逆らうなど以ての…」
「ご命令だろうが何だろうが駄目ったら駄目!許しません!」
側近の反論を跳ね返してやったら、無表情を崩し、ぽかんとしたセテムの顔は目の前の私を見つめている。
「この人を心配するなら私の言う通りになさい!」
気づけば、寝台の上の彼までが口をあんぐりと開けている。
「……会わぬうちに、随分とまあ…怒りっぽくなったのだな」
「何とでも言ってください。はい、あなたは薬飲んでさっさと寝る」
机の上においていた3つ残った内の1つの錠剤を手に取り、彼に渡した。
薬を見て「面妖な」と漏らした彼だけれど、そそくさとやってきた侍女からもらった水と一緒に飲み込む。その光景を見届け、ほっと胸を撫で下ろした。
虫歯さえ死因につながる時代だ。手術を要するものはミイラ作りで発達しているからともかく、ウイルス関係には気を張らなければいけない。薬もない、治療法もない。恐ろしい伝染病に対するワクチンさえない。現代では恐れることのない病気の全てが脅威とも言える。
彼の死因が、病死なのか殺人なのかも分からないのだから、些細なことにも気を配っていかなければ。
「分かった。分かったからそのように鼻息を荒くするな」
咄嗟に鼻を抑えた私を見て、彼は自分の鼻を鳴らして笑った。
「もう酒は飲まぬ。セテム、下がってよい」
戸惑いを見せながらもセテムは頭を下げて去って行って、また二人きりになる。お酒を諦めてくれたことに安心して、私は再び腰を下ろした。
部屋の一部から伸びる昼の光がある。眩しいと思いつつも、何故か視線が離せず、目を細めながらもそれを網膜に焼き付けるように眺め続けていた。
「また寝るのか。実につまらぬ」
ごろりと寝転がり、上に伸ばした右手を握ったり開いたり繰り返しながら彼が声を漏らした。
まだ、手の感覚がおかしいのだろう。痺れた感覚が抜けないのだと昨夜も訴えていた。
「身体を休めた方が治りが早いのよ。静かに寝てください」
「つまらぬ。退屈で死にそうだ」
今まで馬を乗り回し、テーベまで行ったり来たりしていた人な訳だから、寝台に一日中寝ているなんて彼にとって退屈の他の何物でもない。
「あなたのためなの。自分を大事にして」
死なせたくない。失いたくない。そうと思って気を張ってはいるのだけれど、彼を歴史が定めた運命から引き離したいと足掻いたところで、私なんかが何を変えられるかと問われれば、何も答えられない。こんなちっぽけな私に、何が出来るのだろう。こんな非力な私に、一体何が変えられるだろう。
「ヒロコ」
腕が伸びてきて、私の腕を捉え、勢いよく引き寄せた。
「ちょっ…!」
引かれた反動で、椅子から腰が離れて落ちそうになったところを二本の腕が絡め取って、気づいた時にはすっぽりと腕の中にはまり、彼と一緒に横たわっている状態になっていた。私の視界は、その人の褐色の肌で埋められる。
「私のことを考えてくれているほど嬉しいことはないのだが、」
くすりと笑い、私の頭の頂にその唇を落とす。
「一人で寝るのはやはりつまらぬ」
ぎょっとさせた私の顔に熱が走り、瞬く間に赤くなったのを見て、彼はけらけらと肩を揺らした。
「今すぐヒロコを私のものにしたいという気持ちは山々なのだが、さすがにこんな痺れが続く腕で抱くには気が引けるのだ」
どうして、そんな歯の浮くような台詞をスラスラと言うことが出来るのだろう。言われ慣れてないこちらは気が気ではない。
「だ、駄目…!」
感情の赴くままに身体を起こそうと抗うと、彼はますます深く私を抱き込んだ。よしよしと幼い子を諭すように宥めてくる。
「何もせぬ。こうしているだけで良いのだ」
ますます恥ずかしくなって俯きたくなる衝動を抑え、怒りを精一杯に湛えて睨んで見せるのに、続きの言葉が見つからず口籠る。そんな私にこちらに顔を寄せるその人は口端を上げてくっと喉を鳴らした。
左腕を私の身体から離し、その手で後ろに流れた私の髪に長い指を伝わせていく。私を映す瞳は安らぎに満ちていて、柔らかに結んだ唇をすっと動かした。
「体調さえ戻れば、声明を出す」
彼が蛇に噛まれなければ、数日前に済んでいた改革への第一歩。この人の体調が戻り次第、開かれた王宮内で民に向かって出されることになっていた。
「都のこと、我らの神のこと。……そして」
若干目を伏せながら、相手は声を奏でる。指先を、髪から私の唇に移してしっとりと撫で上げた。
「お前を妃とすること」
しんみりと、それでも胸に響く言葉を、その口は私に発す。──『妃』と。
声を出さず繰り返した私の口先に伝う指が離れて、その代わりに重なったのは彼の熱い唇だった。
風邪が移ると分かっているのに、私の身体は抗うことを忘れてしまう。ただ触れるだけの潤んだ熱に、力という力がすべて奪われて、どうしたらいいか分からなかった。
「我が妃となる時、ヒロコは王家になり、神となる」
潤んだ熱を離し、鼻先が擦れ合いそうな位置で彼は囁く。
エジプト王家一族は神の一族であり、死ねば神になるという思想なのだから、私が彼と結婚して夫婦となるならば神と呼ばれるようになる。
おおげさね、と笑ってしまう。彼ならともかく、生まれも育ちも凡人である私が神になるだなんて変な感じだ。
「私は神様にはなれないわ。人は、人なの」
そう言って私は微笑みを添えて返すと、彼も私に額を寄せて肩を揺らした。今度は私の額に口づける。
「何を言う。臣下の間ではそなたをイシスの化身と呼んでいる者もいるくらいだというのに」
イシスとは冥界の王オシリス神の妹神であり、妻である女神のことだ。
「イシスは殺された夫オシリスを呪力によって救う、偉大な呪力をもつ女神だ」
私の知識を補助するような説明に、小さく頷く。
「ヒロコが黄金に消え、黄金から現れ、不思議な白き薬で王である私を救った。それがその話と重なったのだろう。王はラーともオシリスとも表されるからな」
そして私たち二人が良い夫婦になるという噂が臣下の間で回っているのだと、嬉しそうに付け足した。
あなたがオシリスで、私がイシス。──そうね。
神様になれるのなら、なってしまいたい。そうすれば未来も、決められた運命も、この手で簡単に変えることが出来てしまえるだろうに。死も、別れも、無いのだろうに。
「お前を妃に出来るということ、それが待ち遠しくてならぬ」
再び抱き込まれ、私の視界は褐色から黒に閉ざされる。
ヒロコと言う呼び声を最後に彼の声は寝息に変わった。
抱き込まれて、光も声も消滅した中。感じるのは、体に回る腕と目の前に広がる胸に灯るぬくもり。風邪のせいで普段より熱い。それをもっと感じていたくて彼の胸に額をつけた。
目を閉じれば鼓動が私の耳を掠める。私の音と、彼の音。それが一瞬合わさったと思ったのに、だんだんずれていくことに胸が軋んだ。
何気なく視線を上にあげて彼の顔を見れば、その瞼はすでに閉じられていて、私は再びその胸に額をつけ、音色に耳を傾ける。
いつかこの胸の音色が止まってしまう日が来ると思うと、いつかこのぬくもりが失われる日が来るのかと思うと、怖くて怖くて、どうしようもない。そうはさせまいと、腕を回してその人を力いっぱい抱きしめる。
ああ、どうかこのまま。
アンケセナーメンの生まれ変わりだと言ってこの時代に残ると決めても、彼を救うために歴史を変えることができるのか分からない。
歴史の謎に包まれた空白に、何が起こるのか。何故彼の即位と死ぬ時の年齢が、古代と現代で違うのか。何故彼の死因が、ミイラがあるにも関わらず特定できずに沢山の説が挙げられているのか。どうすればそれを回避できるのか。それでも容赦なく刻一刻と時は進んでいて、憎らしさと悲しみを落としていく。
ならばいっそのこと、このまま時が止まってしまえば良いとさえ思ってしまう。叶うことのない願いを、愛しいその人の醸す寝息と鼓動を抱きしめ、私は彼の無事を胸に唱えて目を閉じた。




